19話
「そういえば、昨日はごちそうさま。タッパー、またベランダで会った時に返す、で良い?」
物思いに耽っていれば、和泉さんのリアルな声が耳に届き「了解です」と、すぐに頷き、秒で気づく。
て、いま、さらっと次のベランダ談話の約束を作ってしまった?
むずむずとする嬉しさに気づかれないように、緩みそうになる口元を結び、俯く。
「ご飯、お口にあいました?」
「あいすぎた、と言ったらまた作ってくれる?」
こんな質問しか用意できないわたしを、和泉さんは軽く躱すから、油断ならない。
「作りすぎただけで、和泉さんの為に作ったわけじゃないです。次のお約束はできません」
「そこをなんとか、心雨さま」
普段他人から拝まれているだろうご尊顔の方が、縋るように手を合わせている。天上の民にこうやって強請られると、不満などもてるはずも無く、むしろ有頂天になっちゃうのが一般ピープルだと思うの。
「余ったら、ですね。何が食べたいのとかありますか?」
「オムライス」
「オムライス……卵はふっくらふわとろ派ですか?薄めのペラペラ派ですか?」
「ふわとろ派」
ふわとろ派ってことは……。
「出来たてじゃないと美味しくないですね?」
見上げて、懸念すべきことを告げれば、「バレた?」と。確信犯の和泉さんは王子顔に似つかわしくないニヒルな笑みを向けてくる。チョロい胸が高鳴るのと、エレベーターが到着を知らせるのは同じだった。
紫外線に晒される前に日傘で肌を守った。バス停までの日陰ルートももちろん把握済みである。和泉さんとはエントランスでお別れだと思っていたのに、車寄せを過ぎても変わらず隣を歩いているので、どうやら行先はおなじらしい。
いままで、会うのは夜だったから気づかなかったけれと和泉さんの髪は太陽の下だと表面が優しいグレイに見えた。雨が降る前の雲のような色だ。
「心雨は今日、大学?」
見上げていた視線が、透明感のある瞳と、かちりとぶつかる。
「はい。大学のあとすこしバイトをして、友達とご飯を食べて帰るっていうみちみちスケジュールです」
「充実してますね〜。遊びすぎて、帰り、遅くなるなよ」
和泉さんは、くだけた調子で他人行儀な心配をくれる。
……なんかいまの、やだな。
〝妹みたい〟と、昔、和泉さんに言われた。これは直接ではなく、運悪く居合わせたおかげで自動的に知ることになったのだ。
嘘つきなわたしはその日に生まれた。
心を隠して普通を演じることにした。
和泉さんにいくら彼女が出来たとしても、他の誰かのものになったとしても、わたしは妹であり続けた。
「和泉さんには、関係ない、です」
これが望ましいアンサーなのに、妹扱いは嫌なんて、なんて子供じみたわがままだろう。
しかし結果は最悪だ。トゲトゲした心は丸くならなくて、可愛げのある言い方なんて出来そうにない。
日傘があってよかった。顔を隠せるから。
これ以上は何も言えずに口を噤んでいると「はいはい、関係ないね」和泉さんは固くなったトゲを溶かすように、器用に頭を撫でてくるので、和泉さん限定で単純なわたしは丸くなっちゃう。
あっという間に最寄りのバス停までたどり着くと、ちょうどバスの到着と重なった。今日はかなり運がいいらしい。
「じゃあな」
和泉さん、バス通勤じゃないんだ……。
てっきり、同じ方向だから、必然的におなじバスに乗るとばかり思っていたわたしは拍子抜け。さびしい、ともいう。
「あの、和泉さん」
「ん」
「行ってらっしゃい」
和泉さんの返事は、ひらりと翳された右手だった。
変わらない合図に、絞られるように胸が軋んだ。
お邪魔しました。は言うくせに、さようなら。を言わない人だと思った。毎回、玄関を出てお見送りをするわたしに、和泉さんは右手を翳してくれていた。
さよならはまだしも、" またどうぞ "や" 勉強見てくれてありがとうございました "にも無言だった。
わたしも意地を張って、なんとか返事をもらおうと" りす! "と、謎にしりとりをはじめたけれど、安定に右手だけだった。お兄ちゃんとしりとりした。
と思えば、次の日遊びに来た和泉さんは" するめいか "昨日の続きをなぞり始めてしまうので、和泉さんからもらう別れの挨拶は諦めた。
美容師なのに見送りしないって、職業的に良いんですかー。と、心の中で憎まれ口を叩いたその時、わたしは彼にとって" お客 "という存在にすらなれていないことに気付き、行き場のない虚しさをおぼえた。
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