15話‎𖤐煙草になりたい

手すりの向こう側から、ことんと首を傾げて覗き込む和泉さん。まん丸のビー玉みたいな瞳に見つめられて、さっと視線を散らした。


甘えたな和泉さんにあと一秒でも見つめていたら、鼻血を出していたに違いない。


「つか、この壁邪魔いな。壊していいかな」


「"非常時の時はここを蹴破って隣戸に避難できます"。って、書いてあるけど、日本語読めます?いまは非常時じゃないです」


「常時と比べて腹が減ってることは非常時だと思うけど、どうよ」


「屁理屈ですね」


「わかってるじゃん。だから心雨ん家に避難させて?」


「もう!知りません!」


これ以上の負担はよろしくないので、部屋に戻る。その足で冷蔵庫に行き、タッパーと、明日の朝ごはんにしようと思っていたクロワッサンを紙袋に入れて、再びベランダ用のサンダルにつま先を潜らせた。



「和泉さん」



薄い壁の向こうへ確認をとる。和泉さんのくちびるには二本目の煙草が挟まれていた。もう、どうにでもなれ……!と、勢いをつけて、掴んだ紙袋を差し出す。


「……え、なにこれ」


しかし、和泉さんはふたたび目を白黒とさせている。


まさかさっきの、ただの社交辞令だった?


先程の熱量があまりに低かったことにいまさら気付く。でも、一度出した手をひっこめることも出来ない。


「の、残り物、ですよ?今日はたまたま残っていたので、毎回は期待しないでくださいね」


「まじで?」


「……いらないなら、わたしが食べ」


出した手を引こうとしたのに、それより早く和泉さんが掴むので、まごまごと挙動不審になってしまう。


「すぐ食べる。ありがと」


しかも、今日一番の笑顔まで貰い、まさにハッピーセットだ。


うー……ご褒美スマイル……。


溶けちゃいそうになりながらも、なんとか気持ちを整えた。


「も、もう、戻ります……」


「あ、ちょい待ち」


和泉さんはそう言って、ぺたぺたとサンダルを鳴らして部屋の中に入ってしまった。


なにするんだろう、と不思議に思っていれば、数秒後に戻ってきた和泉さんが持っていたのは、ソーダ味の棒アイスだった。


「お礼」と言われ、素直に受け取る。


二日目のロールキャベツが、ソーダアイスに変わっちゃった。


「風呂上がりに食いなよ」


「もうお風呂上がりです」


「だと思った」


だと思った?


「シャワーの音、聞こえてました?」


なんとなく出した質問へ、もらったものは予想外の答えだった。


「髪型と、メイク落としてるみたいだし」


「!!!」


言われて、そういえばと気付く。

前髪はしっかりと上げているし、服もルームウェア。完全に、気の抜けた格好だ。


うわああああああ!!!


自分の格好にいまさら恥ずかしさがこみあげても、もう遅い。乙女的にこれは絶対NGだ。



「お、お、おやすみなさい!!」


「おやすみ」


和泉さんの声を聞き終える前にドアを閉めた。


息をかるく整えて、見慣れたアイスを見つめる。見慣れたパッケージ。それに描かれた、とぼけた少年と目が合うと、食べるのは勿体なく思えて、冷蔵庫にいれた。


ただいまか、さようならしか言えなかった関係だったのに。


おかえり、にプラス。おやすみを貰うのは、正直こころに負担がかかって仕方ない。


暑くもないのに、火照った気持ちを落ち着かせるように、お気に入りのヘアブラシで髪の毛を撫でた。ドレッサーの指定地に置くと、沈むようにベッドに飛び込んだ。しばらく余韻を噛み締めて、ベッドランプを灯して部屋の電気を消した。


まぶたを閉ざしても、軽く言われたおやすみがびっくりするほど鼓膜に残されており、ちっとも眠れない。視覚が遮断されると、研ぎ澄まされた聴覚が隣人の音を拾うから、さらに眠れない。


ごろんと寝返りをうって、和泉さんの部屋の方をむいた。



「おやすみ、なさい、和泉さん」



眠れない夜を過ごすことになっても、べつに良いと思ってしまう。


あの星占いの時効がくる、秋のなかば。


星占いなんて普段毛ほども信じないのに。


わたしはあの占いを来月もきっと見てしまうのだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る