第10話

 筧の案内で、再び所内の狭い廊下にもどった北村たちは、表玄関のほうから聞こえてくる、人の話し声や物音になぜか癒された。あとは草薙から災害状況を受取り、そのまま災害本部へ報告を入れれば職務は終えたも同然だ。そう考えると、疲労に紛れていた空腹感がしゃしゃり出てくる。

「藤岡、なんか腹へったよな」

「そうですね。北村さんはあのとき吐いちゃいましたもんね」

「デリケートに出来てんだ仕方ねえよ。でも、いまだったら喰えるな」

「でもリュックの中にはなんも入ってませんよ」

 その会話を背中で聞いていた筧が、給湯室のすぐ脇にあるドアを開け、

「すぐに何か持ってきますから。ここで待っていてください」

 と言い残し、その場をひとり離れて行った。

 北村たち二人は、玄関前の炊き出しの光景を脳裏に浮かべていた。出来れば百薬の長でも差し入れてくれれば嬉しいが、さすがにそれはありえないだろう。

 その部屋の使用目的は職員たちの休憩室らしく、長テーブルが二つに丸イスが四つと小さな液晶テレビが壁に設置されていた。だが、テレビのコンセントは外され、真っ黒だ。部屋の奥まったところに小型冷蔵庫と食器フード。コップはすべて使い捨てだった。

 もう藤岡は作業着を脱いで〝くつろぎモード〟に入っていた。飲みかけのペットボトルを傾けて咽喉を鳴らしている。北村は、ようやくまともに本部へ報告ができるぞと手帳を広げ、時系列に出来事を箇条書きしはじめた。もう、腕時計は午後八時半を回っていた。

 長谷川の悲劇の部分にさしかかったところで、北村はペンを止めた。経緯を精査するために藤岡と相談したいが、自分の記憶もあやふやだ。というより空白が点在しているのは確かだ。長谷川を助け出したときもそうだった。今思えば、どうしてみんなはあっさりと彼を自宅へ行かせてしまったのだろう。死ぬことはわかりきっていたのに……。

 北村は藤岡の背中をみつめながら、あのときのフラッシュライトの老老女について、意識を束ね、縒っていった。ぼやけた記憶でも、束ねていけば鮮明になる。合羽のフードの下に隠された顔も、下顎からしだいに絵図が出来ていく。

 と、そのときだった、ドスドスと物々しい跫音が近寄ってくるのが聞こえてきた。筧が来たのかと、二人は開けっ放しのドアを振り向いた。

 だが、そこに現れたのは灰色の雨合羽だった。ポンチョ型というのだろうか、頭からスッポリ被るタイプのもので、全体がかなり痛んでおり、汚穢まみれであった。建物の中だというのにフードは被ったままだ。

 北村は、その一種異様な佇まいに、長谷川邸の災害現場に現れた老女だと直感した。藤岡も動揺して、北村と顔を見合わせる。

「何か御用でしょうか?」

 北村が立ち上がってドアのほうへと向かう。出来れば追い返してしまいたかった。だが、老女も北村めがけて勢いよく前進しはじめる。いや、勢いよくなどという生易しいものではない。もうこれは駆け足に他ならない。そのままの勢いで前進すれば、この狭い部屋のことだ、老女は北村の身体もろとも壁に激突してしまうだろう。いや、そのつもりなのだ老女は。

 反射的に北村は立ちすくむ。身の安全を閃かせて退歩しようとする。だが老女の速度はいや増すばかり。五、六脚の丸イスを次々と蹴散らし、そのまま北村の五体を粉砕するつもりだ。かたや北村の行動原理には、逃げる、避ける、躱す、などはあっても、立ち向う、撃退する、などはない。いや、逃げる、避ける、躱す、さえもなかった。

 つまるところ激突!

 硬く瞼をつむった。ヒクヒクして尻の穴が縮こまった。

 だが……何も起こらなかった。

 おっかなびっくり北村は目を開け、激しく瞬く。とたんに、鼻腔いっぱいに、ぬめぇとした生臭さが充満した。

 なんともいえぬ臭さだった。北村はとっさに鼻をつまみ、やめておけばいいものを口を全開にした。すると悪臭は意思あるもののように、口の粘膜を犯し、鼻腔へと魔手を伸ばし、そのまま大脳まで浸蝕しはじめた。

 祈るように北村は口を塞いだ。だがすでに、この手の皮膚そのものが、すでに臭っているのに気づいた。老女の悪臭に喰われる。こいつは俺を餌食にしようとしている!

 これまた北村は、たちまち精神恐慌状態に陥った。あう、あう、あうあうあう……と目を白黒して視神経だけで呼吸をしはじめた。眼瞼がまるで口となり、眼球は肺組織になろうとする。角膜が気管支になるかと思いきや、角膜だけは真ん前の物体を丁寧に写しとることに専念し、それはみるみると、あのひらべったい顔した老女の、平たい目玉へと変貌していくのであった。

 平たい眼球は、肉食獣のごとく、くんくんと嗅覚を震わせた。身近に獲物がいると知るや、ずらりと生えている睫毛をやすでのように動かし、北村の顔面へ這い上ってきたのだ。もう密着しているといっていい。癒着状態の扁平な目が、速やかに北村の角膜に写りこむ。つまり角膜が二重になって貼りつき、一体化しているわけだ。その扁平した目は、錆びた鱗と酷似してくる。なぜなら、様々な屈折率で、それぞれ世界を切り刻んでいくからだ。切断され、引き剥がされた世界は、その回数分だけ悲鳴と絶叫をあげる。

 とたんに北村の背筋が罅割れたように悲鳴をあげた。身体は数歩後ろへ飛び退く。だが、そこには壁掛けテレビがある。コスト削減の成れの果てみたいなただの板だ。それが必然的というより作為的に壁から外れて床で乾いた音をたてた。すると毛羽立った声がした。

 〝あんたは息子の人生をドブに投げ捨てるつもり?〟 

 見降すと、テレビそのものが、老婆のように語っているのであった。

 〝誰の責任なのかわかっているの? ねっ、あなたはあの子の父親なんでしょう〟

 今度は視界がめくれ、灰色の透けた世界が広がった。北村の顔面に、べったりとあの灰色の雨合羽が貼りついたのだ。

「あんたは人を助けるのが仕事ぢゃね?」

 今度は老女が喋っている。顎関節が歪むたびに、キシッキシッと骨が削られる音がする。

 意味は理解できても、北村の脳みそは押し黙っていた。

 ごくりと唾を呑む。だが、咽喉はひからびて拒絶する。唾は行き場を失くして気管支へ突入し、反射的に咳がでた。全身が咳でのたうち、口から、目から、鼻から、唾液が激しく飛び散った。

 老女の顔面にピタッピタッと北村の唾液が音を立てた。それでも老女は目をあけたままだった。微動だにしなかった。

 咳は止まらず続いた。はじめのうち北村は、咳を止めようとして、咳をしていた。だが今は、老女を打ちすえるために咳を繰り返す。咳をして、咳をして、咽頭が焼けついても何度でも何度でも咳をした。

 しかし、老女は打たれまま、やはり微動だにしなかった。くちゃあーと唇を歪ませて、

「あんたは市役所の方ぢゃろが」

 老婆のしゃがれ声を合図に、ようやく空咳がおさまった北村は、改めて老女を凝視して、やはり、空咳をした。そういえば、今もまた、老女の顔をまともに見ていないのだ、俺は…。

 その瞬間、老女はフードを撥ね上げた。

 フードは内側もびっしょりと濡れたままだった。そのうえ何やら茶褐色した汚物らしきものが、顔を隠すザンバラ髪にへばりついていた。いや、汚物だけではない。赤黒い粘液なども、ところどころに飛び散っているのだ。それらからも、申し分のない独特な異臭が漂ってくる。

 北村は、やめればいいものを、腰を屈めてザンバラ髪の下から覗きこんだ。

 恐々と、だが細部まで、北村は老女の顔の造作を観察する。さながら検視官の眼差しだ。

 老女は瞼を伏せていた。老女の顔皮は、雨ざらしの木造仏じみいた。潤いもなく、数千もの毛穴は黒々として盛り上がり、こそげとったような眉毛の痕には皮膚炎症が点々として、膿の瘡蓋をこさえていた。刺創のような頬の皺。砕かれ屈曲した鼻梁。左右が不揃いの奇妙な形の耳朶。右耳はあきらかに削られて半分だ。それは昔何処かで見た記憶がある。荒々しく鉈で削ぎ落とされて形を成す、円空という僧侶が生み出した木仏だ。嗤ったようにひね曲がる口は、慈悲と救済を湛えるというが、北村が見る老女は〝苦悶を象った生々しい円空仏〟そのものだった。

 北村は、ようやくそこで「見まい」と思い知った。二度と見てはいけない! と。脳髄のどこかで叫ぶものがあり、それはこうも指摘する。こいつは〝立って、息して、喋ってはいるが、臥して、息を止め、無言でいれば、屍体そのものではないか、と。

 そう、これは屍体だ。生きているがために、いっそう死を臭わせる屍体だ。

「──あの爺さんの家はどうしたね。爺さんは土石流に呑まれて死んだかね。あんたは確かめもせず! ここで生ラーメンでもすするかね。鶏ガラスープに舌を突っ込んでぺろぺろやりながら、焼き飯のおにぎりでも頬張るかね。さあ、とっとと行くんだ。死と生の狭間で宙ぶらりんの爺さんをこちら側へ引っ張りこんでやんだよ!」

 老女はうつむいたままだ。

「ふうじおかぁ! 藤岡、なんとかしてくれ」

 と北村は部下へ手を差し伸べた。いままでの北村の調子ならば、ひと蹴りして老女を黙らせ、たちまち部屋から追い出しただろうに。手の一本も動かせないのだ。

 北村の声が耳に届くと、そこでようやく藤岡も我に返って老女に近よった。

「おい、君、やめないか」 

 老女の両肩に手を置くと、まるでお払い箱のマネキン人形のように、北村から引き剝がしにかかった。実際、老女の身体は、柩から立たせた遺骸のように硬く、しかも強かった。藤岡の腕力なぞものともせず、目線で北村に食いついて離れないのだ。

 藤岡が、老女の様子を覗くと、老女は嗤っていた。このうえなく愉悦の皺をたっぷりと寄せて、北村を見上げていたのだ。

 ぶるっと藤岡の足腰が怖気た。しかし、その反動で怒気が弾けて露出する。見境もなく、藤岡は老女にむしゃぶりついた。容赦がない。荷物のように老女を廊下へ運んでいくのだった。

 その間、老女の反応は、まさしくマネキン人形そのものだった。ただ、北村を射る眼光だけは、質量さえ感じられるほどに熱かった。

 廊下に引きずりだすと、そうっとドアを閉める藤岡は、さすがに老女に向かって一言あるべきだと思い、口を開きかけたが、ハッとして口をつぐんだ。こちらを見つめる老女の視線がえげつなかったのが今になってわかったのだ。無言のまま藤岡はドアを閉めたが、ドアノブには鍵はなかった。まさか施錠まで必要ないだろう。藤岡はその場を離れた。だが、その様子を逐一観察していた北村は、入れ代わりにドアへ飛びつくと、手近にあった椅子の背もたれをノブの隙間に挟んで、つっかえ棒にしたのである。

「あーと、なんだったんでしょうね、あの老女」

 藤岡が困惑顔で言った。心の衷では、一老女性に対して、この振る舞いは正しかったのか。自己嫌悪の嵐が吹き荒れていたのだ。

「異常時なんだ。ありえないことも起きるし、普段みかけない人もいるだろさ」

 老女が蹴散らした椅子を直しながら、北村はため息をもらす。床には汚物をひきずったような痕と臭いがする。

「掃除したほうがいいな。ともかくこれでひと段落だ。筧さんと草薙さんとで、確認がとれれば明日は朝一番で室長に連絡だ」

北村は頬をさすって苦笑いを浮かべた。今日一日を振り返って、散々だったなぁと反省でもしているのだろう。垂れてきた目蓋に、疲労感が色濃く見えた。

「それにしても、変な老女でし……」

 藤岡が話しだしたが、ふと、二人は顔を見合わせた。

 ァ、ァ、ァ、ダダダダダダダダダダダタァァァァァァァァァン! ダダダダダダダダダァァァァアアアンンンンン! ダンッ、ダンッ、ダンッ、ダンッ!

 削岩機ばりにドアが絶叫をあげだしたのだ。

 それこそ「あ」と口を開けたまま、藤岡は背中を壁に押しつけた。バリケードの椅子が外れて倒れた。北村が、とっさにドアノブを握りしめた。槌音とともに、ノッブはがちゃがちゃと手の中で踊るわ、回るわ。とても片手では叶わぬ力だ。左手も添えて、握りつぶすつもりで力を込めたが、まるで無意味だった。ギシッ、ギシッと今度はドアが枠ごと震悚しはじめたのだ。そのうち真鍮製の蝶番も、留金具ごと弾けそうに震えてきたのだった。

「き、き、北村さん……外に何がいるんで」と藤岡の震え声。

「し、知らんよ!」と藤岡に目をやりながら、北村はがなった。「だ、誰、どなたですか!叩かんでください! ドアがこわれてしまいます」一呼吸入れて「止めてください! 誰だか知らないが、器物損壊罪で告訴しますよ! それと公務執行妨害罪ですよ、これは!」

「一体なんの用なんですか! わたしたちが何をしたっていうんですか!」 

 藤岡もひきつった声でドアへ叫んだ。

 次の瞬間、ドアは静かになった。

 だが、静かになっても、依然と北村の頭の中では破壊音はつづいていた。

 顎先で滴る汗を袖口で拭い、その手の甲で、流れる頬の汗を拭いた。

 二人の全神経はドアに貼りついていた。

 震える二人の呼吸音だけが室内に響いた。耳たぶをドアに押し付けて、廊下の様子をさぐったが、深閑として人の気配はない。どうしたものかと恐る恐るドアノブ回しかけた、そのとたん、

「北村さん! 大丈夫ですか?」

 と男の声がした。筧の声だとすぐにわかり、もの凄い早さで、足元に倒れていた椅子を蹴飛ばし、ドアを開けた。

 そこにはただ一人、怪訝そうにこちらを覗きこむ、筧の真顔があるだけだ。

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