第11話

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「なんかありましたか……?」筧の前には、ドロドロの汗をかいて、真っ赤になった男と顔面蒼白の男が立っていた。「すいません順番待ちで遅くなってしまいました」

 と言って差し出したものは、湯気のたつ汁物だった。香りと見た目で豚汁だと想像がつく。それと大きめの握り飯だ。湯気で白くなったラップに水滴が揺れ動く。

 筧は部屋の様子を見て、あらためて何があったのかを問うた。

「きっとこの大災害でヒステリー状態に陥った町の人だと思います。ただ災害救助に手間取っている私たち役人が、優柔不断のダメ男に見えたんでしょう」

 北村は豚汁と握り飯を受けとりながら、当て推量で答えた。その後ろで藤岡は、床に落ちた液晶テレビを壁に戻そうとしていた。

「すいません、ちょっと肩をぶつけて壊してしまったらしいです」

「ああ、それね。テレビでしたら心配ないですよ。最初から毀れていますんで」

 その後、三人で遅い夕飯となったが、藤岡はもう半睡状態で食べ残し、北村は胃袋が拒絶しているとかであきらめた。そのうち、うつらうつらしながらラジオの地震情報を聴いていると、

「どのみち明るくならないと詳しいことはわからないでしょう。早くヘリコプターが飛ぶことを祈るばかりです。それで、さっき話していた女性ですがね、名前はおわかりですかね」

 筧が豚汁のお椀を片づけながら訊くと、北村は力なく首を横に振った。

「そうですか。それでは少し休むといいですよ。町長が災害状況をまとめたらお伝えします。それまでここで休んでいて下さい」

「いつころ……」

「さあ、さっき橋本土建の若い衆にきいたら、北の三村のほうへまた行ったらしいですよ。ですが陽が昇るまでには状況は把握できるはずです」

「三村の方ですか。いくつ身体があってもたりないですね。では今日は大変お世話になりました。また明日も大変なことになると思いますが、よろしくお願いします」

 北村は丁寧に幾度もお辞儀をして、筧を廊下に送り出した。

 明日か。街の中心部は、こことは違って被害はそれほど深刻ではない。どうせもう県庁の本部には市長も知事もいない筈だ。政府に自衛隊の災害救助派遣を要請するにしても、明朝一番といったところだろう。

 北村は藤岡に寝袋の用意をするよう指示した。すでに藤岡は作業服を脱いで、テーブルや椅子に広げて干している。

 しばらく、ラジオから流れる軽音楽の曲名を考えているうちに、もう藤岡の寝息が聞こえてきた。室内の明りを消すためスイッチを探すと、どうも廊下側に配置されているらしい。ドアを開けてみると、まだ玄関ホールのほうでは人声がする。避難してきた町民は、押し寄せてくる不安に寝てもいられないのだろう。

 体力の消耗を防ぐためにも、寝られる時には寝ておく。北村は灯りを消してドアを閉めると、部屋は驚くほど真っ暗だ。しばらく闇を見つめていると、慣れてきたのだろう、テーブルや椅子、そして藤岡のシルエットもわかる。疲れているくせに、神経が冴え冴えとして、眠気が引潮のように霧散していく。

 いつのまにか、北村は寝そびれてしまっていた。そうなると、次々と脳内のファイル棚から、最新の懸案事項を引き出し、虚構の執務机に積み上げていく。小此木室長の認印があるものは脇に退けて、再審あつかいになったファイルを見開く。朱文字で、注意事項とする項目に、備考として、調査・協議・決議と段階的に篩にかけてあるが、さてさて、この案件については……。

 下水溝の破損と汚水処理の問題点は、震災発生後の火急処理事案とすべきか、否か。

 または、避難誘導に関して、耐久年数超過の歩道橋を迂回した場合、津波到達予想時間が超えてしまうコースについて。所要時間の短縮として挙げられる代替案はどれか。新規コースの変更と修正。

 どれも重要だが、どれも味気のないものばかりで、北村の意識は、たちまち毀れたレコードのように、同じところをぐるぐると巡っていた。

 ──あれから家族はどうしたろうか。

 人ごとのように、そのつぶやきは唐突に生まれた。だが口は動いていないし、動かした覚えもない。よその意識がつぶやいているんじゃないのか。なんだか意識そのものが横滑りしている感じだった。

 ──すべては偶然に、新たな意識は目覚めたのか。根拠も言いがかりもない。いやいや、目覚めていたのに、ただ自分が気づかなかっただけではないのか。だ、だから、俺の居場所は、ここは、市役所の危機管理防災室に間違いない。今現在、俺は、自分の机に座っているのだ。違うか? 違わない。ただ、そこは自宅になっていることもあるんだ。積み上げられた書類の山の向こうには、見慣れたソファや食器棚が朝の気配の中で、ひっそりと佇んでいても、どこに不都合がある?  

 ──では息子の翔馬は? 妻の早苗は? 

 罪滅ぼしか贖罪のつもりか。いちいち名前をあげていっても、家族たちの姿も気配もない。ようやく北村は、虚妄の中とは承知の上で立ち上がった。このままこうしていてもなんの解決にもならない。自分の家なのだ、呼びかければいずれかの反応があるはずだ、と。

「──早苗。──翔馬」

 だが、呼びかけに反応したのは、背丈のある男性の背中だった。

「おうっ」とばかりに、突如と出現してきた背中に、北村は目を疑った。

 長谷川団長の後ろ姿だった。北村家のリビィングルームに、あの時のまま、合羽の裾から泥水を滴らせ、湿った腐臭を放ち、ずるりずるりと床上で靴底を滑らせているのだ。長谷川は生々しく、痛々しく、室内を徘徊していた。ときおり目鼻の削げた顔やピンクのだんだら模様に邪魔されていたが、箪笥の引出しや、茶托の下や、椅子の後ろ、あるいはシステムキッチンの扉の奥から、長谷川の背中は次々と現れては消え、消えては再来して、いつまでも部屋に留まっているのだった。

「やっぱり見殺しにしたんだ……な」

 ぽつりと闇に向かってつぶやいた。そのときの、人声に呼応するように、

「起きているんでしょう?」

 廊下で女の声がした。

 さーっと血の気が引いていき、その弾みで北村の意識は我に返った。小名瀬町の役場の休憩室で、北村は半睡のまま、目を醒ましたのであった。

 とっさにドアの下に視線が注がれた。五ミリもない細い間隙だ。廊下側から漏れてくる光りの真ん中ほどに、黒い影があるのがわかった。すなわち、誰かがドアの外に立っているのだ。

「あなた、起きているのはわかっているの。だからここを開けて……」

 北村は最大限に慎重になって起き上がると、いっさい物音させずに、そうぅっとドアに近づいた。裸足の下から、しんみりとした冷たさが滲みてきた。声は女性、それも聞きおぼえのある人物のものだった。

 ──妻の、早苗がドアの外にいる。

 だが、どうして早苗がここにいるのだ。北村はカチカチになった背筋に悪寒をおぼえつつも、ドアノブを握る。

「急いでいるのよ。だから来たんじゃないの。さっ、ここを開けて」

 北村の指は無意識に、ドアノブをゆっくりと回す。

 ドアノブはバネも歯車も感じせさせずに滑らかに回転した。

 これも意識なしに、ほんの少し手前へドアを引く。すると、廊下の蛍光灯が真っ白い光りの帯となって、部屋の中に射し込んでくる。眩しさで顔が歪む。痛いほどの力で虹彩が音をたてて絞られる。すると、わずか数センチの隙間でも、そこに女が立っているのがわかった。女は、小さく一歩、部屋に入ろうと足を踏み入れた。

 ヒョェッと悲鳴をあげて北村はドアを力任せに閉めた。

 ビヂャッ。

 嫌な手応えと残響音がノブから伝わってきた。

 一刹那の静けさがあったぶんだけ、その後の、ひきつった叫び声は圧倒的だった。

「きゃひぃぃぃぃぃぃぃ!」

 まるでフラットスピーカーになったように、ドアは女の絶叫で共鳴して止まず、北村の手は、またもや無意識にドアノブを回していた。 

 再び開けられたドア。その薄緑色のアルミサッシには、深紅の血液がねっとりと脂じみて光っていた。蛍光灯の直線的な光りを受けて、女の顔面は、鋭い影で削ぎ落とされているのがわかった。北村の視線の十センチばかり下方から、こちらを見上げている二つの目玉。それだけが、真っ平らの肉板となった顔面上で、あちこちと動いているのだった。

 だしぬけに後頭部を拳骨で叩かれたような音がして、北村の意識がめくれた。今度は自分自身の絶叫だときづいたとき、何かを掴もうと北村の腕は宙を摑んだ。

「北村課長!、北村課長! 起きてください!」

 川向こうから叫んでいるように人声が聞こえてきた。これは藤岡の声か。〝起きろ〟というのだから、自分は未だ眠っているのか。

 北村は目蓋を震わせて開けた。目の前には休憩室の深緑色した壁が冷たく聳えていた。シュラフに入って、カタコンベそのままに、壁を睨む格好で北村は眠っていたのだ。すぐに首を起こして周囲を見回すと、長椅子に手をついて、向こうを見ている藤岡の後ろ姿が確認できた。誰と話しているのだろう。

「……では早急に対処しないとなりませんね」

「そうして下さると助かります。なにせ人手不足で動きがとれないんです」

 筧の緊迫した声だ。北村が、どんよりとした動きで起き上がる。藤岡がチラリと目をくれた。

「大丈夫ですか? かなりうなされていましたが……」

「いや、すまんすまん。ずいぶん寝てしまったかな」

 だが、腕時計の数字は、就眠まえからびっくりするほど変わっていなかった。時間が伸びはじめているか、意識が溶けはじめてきたのか。

「起こしてすいません。さっき町長から無線がありまして、北の三村で被害が拡大しているということでした。ですので被害状況の報告は遅くなると──」

 筧は廊下に身を置いて、二人をまとめて見ていた。あきらかに疲労の色は濃すぎるほど濃いのがわかる。それが北村には癪に障る。筧の言葉を遮り、

「──朝一番で救助活動を開始させなければならないのに、どうして町長は帰ってこないんです?」

 その言葉遣いが筧の表情を曇らせていく。

「えっ? 別に観光で行ったわけじゃありませんよ。町長も命かけて町民のために働いていらっしゃるんです」

「命……だったらまず被害状況の報告をすべきでしょう。目先ばかりに囚われるのが日本の政治家の特色ですよ。優先順位がデタラメなんです」

 これはまずいとばかり藤岡が二人の間に割って入った。

「ではどうでしょう、北三村へ誰か換わりの者をやって、一時町長には役場に帰ってきてもらうというのは。そうすれば──

「誰を?」

 ほぼ同時に筧と北村の口が動いた。藤岡は即答できなかった。自分が……と咽喉から声があがりそうになるが、ごくんと呑み下す。するとそのとき、

「あんたが行けば。災害現場こそがあんたの活躍の場じゃないのさ」

 女だ。女だ。あの老婆だ!

 北村は自動的に全身が畏縮するのがわかった。筧の後ろに老女はいる。あの灰色の雨合羽が震えるように動いて見える。と同時に老女は筧を押し退けると、再び北村の前に立ち、被っていたフードを無造作に撥ね上げた。

 北村は反射的に身を引いて瞼を閉じた。できれば逃げ出したかった。あれは夢の出来事であり、顔面をドアの縁で削がれた女がこんなところに出てくるはずがないのだ。北村は平静さを装って、そうっと瞼を持ち上げた。すると、そこには五十路、いや還暦はとうに過ぎていると思われる女の顔が何事もなくこちらを見上げているのだった。

 老女の双眸は獰猛そうだった。化粧気がまったくなく、頭髪も無頓着で、家庭生活がまったく想像がつかなかった。荒んだ生活というより、生活そのものが、この老女にはあるのか信じられなかった。

「また降ってくるまえに現場に行くのよ」

 上から目線どころか、老女の口振りは完璧な命令口調だった。北村は命令されたことで、かえって冷静になれた。

「いいですか、災害時こそ適格な救助活動計画が必要なんです。ただその場しのぎで強引な計画を突き進んでいいわけじゃないんです!」

「あんたこそ、その場しのぎで生きてきたんだろう?」女は辛辣だった。「いますぐ行かなきゃ、また長谷川さんの爺さんみたいな善良な市民が犠牲になんだよ!」

「わたしたちは犠牲になってもいいんですか」

「なりたければ、なれば」ずいっと老女は部屋に踏み込んできた。「誰が人のために死ねなんて言った? ここで馬鹿面晒して眠っているぐらいなら、せめて自分のその目で被害状況を視察すればいいだろうが」

「残念だが、わたしには市長に報告しなけばならない任務があるんだ。政府に災害救助隊の派遣を要請するために。それにいくつも悪条件が揃った自然災害では、何があるかわからないんだ、せめて体力のあるレスキュー隊員のような人材が必要なんだ」

「それだったらここに力自慢のボランティアが来ているよ。彼に同行してもらうから心配は無用だ。さあっ、一刻も早く現場に行くのが筋だろう、違うか」

 そう言いながら、老女が廊下のほうを指さした。

 ボランティア? と北村は胡乱な目つきで、廊下のほうではなく、老女そのものを凝視した。老女はそれに気づき、鼻面に小皺をつくって見せた。反感の苦笑いだ。そのまま廊下を玄関のほうへと歩きだす。筧がすぐ後につづいた。藤岡も溜息ついて廊下に出る。こうなるともう従うしかない。北村はドンッと壁を拳で叩き、老女たちの後について玄関に向かったのだった。

               

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