第12話

                十二

               

 玄関ホールでは夜も更けてきたというのに、職員や避難者たち数名が椅子に腰かけてラジオに耳を傾けていた。筧が通りかかると、中年の男性が腰を浮かして挨拶してきた。

「筧さんや、雨がまた降るっていっておるぜ。大丈夫かいな」

「ええ、田所さんですよね。大丈夫ですよ。明日になればすぐに救助にきてくれますから」

 そう言い置いて、筧は先に出ていった老女の後を追った。行き先は、表玄関の左手にある駐車場だ。

 夜気はひどく重く、雨が近いのがわかった。それにさっきから妙な臭いがするが、それも雨が近いせいなのか。 

 老女が軽トラックの横で立ち止まっていた。役場の明りを受けて、白く浮かび上がる軽バンだが、ナンバープレートは泥汚れで読めない。というよりバンパーは大きく凹んで、まるで今しがた交通事故でもやらかしたようにしか見えない。ギシッギシッと大げさな錆びた音をたてて、車から何かが降り立った。

 男だ。いや、こちらも老女と同じぐらいの年齢だろうか。

 老女が男のそばに立ち、誇らし気に見上げて言った。 

「彼がボランティアの不破永二さんだよ。こう見えても力になるよ、きっと。そしてわたしは南明結衣だ。震災は自宅で知ったのさ。比較的近くだったんでね、すぐに駆けつけることができたってわけだわ」

 その不破と紹介されたボランティアも、紹介した南明自身も、年配者にしても何歳なのか北村には見当がつかなかった。とはいえ挨拶せねばと思ったのもつかのま、 

「誠にご協力痛み入ります。わたしは当町役場議会の副議長をしております筧と申します」筧が腰を折って挨拶しながら、二人のもとへ歩み寄って行った。「災害発生からまだ数時間しか経っておらないのにボランティア活動とは、なんとご立派な心意気、感服いたしました」

 筧に先を越されてしまった北村も負けじとばかり、

「早々のご協力、感謝いたします。助かります。さきほどは事態を呑み込めずに無礼な態度と物言い、誠に申し訳ありませんで……」

 言いつつ北村も軽自動車に近寄っていったが、その足が止まり、眉間が嫌悪でゆがんだ。。

 この臭いはなんなのだ、と北村は思わず鼻腔を手の甲で塞いだ。そんな生易しい悪臭ではなかった。ねばく、甘く、酸っぱく、そのうえ突き刺さる。その発生源は明らかにボランティアからだ。そう思うと、不快感はいっそう甚だしく強くなった。藤岡たちもあきらかに嫌悪な表情だ。

 この臭い。

 この臭い?

 この臭い!

 ──この臭いを北村けっして忘れることはなかった。それは市の職員に採用されて間もない頃のことだ。

 仮に配属された福祉部福祉課生活支援係は、多岐にわたる業務内容は密度が高く、そのうえ新人研修期間中は外回りが多かった。この日も係長と二人で市営団地へ、孤独老人宅の訪問である。一度嗅いだだけで、二回目からは、風向きが変わっただけで、すぐにマスクを準備した。死臭は生前に故人が食した物でも変わり、大概はねばっこい。そのくせツンッと鼻腔を刺激するのだ。

 察したのか、南明が軽バンのドアを閉めた。ふいに悪臭が薄くなっていき、ついには消えた。おもわず北村の視線が軽バンの運転席に注がれると、南明が険しい目つきで見返してきた。因縁でもつけてきそうな鋭さだ。慌てて北村の視線は男へと逃げた。

 紹介のあった不破の身体つきは骨張った野犬を思わせた。ビールのロゴを染め抜いた青いランニングシャツにジーンズだ。特に変わった服装とは言えないが、何か違和感があった。それは、女、南明結衣の衣服もそうだった。雨の中だから、濡れそぼつのは仕方ない。災害地で救援活動に携わてきたのだから汚れていてもあたりまえだ。だが、今このときに何をしてくれば、こんなふうになるのか。北村は小首をかしげた。それに、てっきり黒いスニーカーだと思っていた足もとも、役場の灯火の元でよく見ると、それは泥をぬりたくった素足だとわかり、正直驚いた。

 そこで改めて北村は不破をつぶさに見る。

 まずはざんばら髪と無精髭だ。日焼けしてまるで牛蒡のような肌した顔皮に、これまた枯木の洞を思わせる眼窩。眉は薄い質なのか、ほとんどないに等しい。右の耳朶がえぐられたように欠損しており、やはり野犬同士の喧嘩を思わせた。鼻柱をまたいで、ぎざぎさの古傷が小鼻を斜めに横ぎっていて、これはバイクのチェーンを、まともに顔面で食らったときの創痕だ、と北村は推察した。

 そして、なによりもその双眸そうぼうから受けた印象が不気味だった。

 ──こいつは、なんだ。魂も心も感情も抜けた狂気がいるぞ。

 ボランティアだといったが、正直なところ、この男は反社会かホームレスではないかと北村は疑った。ホームレスが被災地の火事場泥棒を働くということもまま聞く。貴重な第一印象だったが、たちまち印象は悪化した。そればかりか、南明の言葉で、一気に地べたで泥まみれとなった。

「ああ、不破さんの裸足を気にしているのかい。救助しているとな、粘っこい泥に取られちまうんだ、仕方ねえさ。心配ねえよ。そのうち用無しの靴が見つかれば、もらって履くさ。それよか、よっく聞いておくれ、いいかい、不破さんには特別な力があるんだよ。行方不明になった被災者たちがどこにいるのかわかるんだ、凄いだろう。土砂に埋もれていようが家の下敷きになっていようが、橋桁に挟まれていようが、不破さんはすぐに感じ取るんだよ。なあっ、不破さん。そしてここが肝心なとこだ。生きている間に助け出すのさ、彼は」

 南明の言葉に、不破はいちいちうなずいていた。

 ──怪しくも物騒で、ホームレスで、火事場泥棒で、そのうえ野犬の詐欺師か……。だとしても、今この時点で、俺たちは、そのどれも証明することはできないか。

 北村は、胡散臭い奴らだと思いながらも、彼らのボランティア活動は、拒否するどころか、ここは歓待し、期待するべきだと考えを改めた。筧も同感らしい、すでに小名瀬町の被災状況を説明しはじめている。

 藤岡が、それとはなしに筧に尋ねると、一刻争う事態のため、安全な範囲内だったら、レスキュー隊のように人命救助活動に従事してもらっても構わないのではと筧は言い、長谷川団長の一件を思うと、一般者の救助活動の危険性は高く、安易な判断は、人身事故の拡大を招きかねないが、四の五の言ってられないのも現状だと北村は述べた。

 北村と筧が素早くゴーサインを出した。

 二人の承諾が出ると、やにわに女と男が軽バンまで駆けもどっていった。災害現場まで車を使うつもりなのだろうか。すると、軽バンの中から、それぞれがヘルメットとリュックサックを取り出し、もの凄い早さで手際よく装着しはじめたのだった。

「さあ、準備はいつでも。北三村へはあっちだったよね」

 南明は意気揚揚と歩き出す。不破も軽い足取りだ。鼻歌こそないが、二人揃って歩く様子は、まるで深夜のピクニックを思わせた。最初は不謹慎な感じがしたが、人助けをライフワークとする奇特な人であれば自然な振る舞いなのかもしれない。中年期を乗り越えた二人が、こんな厳しい状況下でも、ボランティア活動を自ら進んで取り組む。そこにはなみなみならぬ決意と覚悟があるのに違いない。

 ──もしやこの二人、自分の印象とは真逆な人物たちなのかもしれないな。

 そう北村は思うと、きびきび動く二人の立ち居振る舞いを傍観していて、しだいにどこか並外れて、しかも厳かに見えてくるのを奇異に感じたのであった。救いを求める人のためなら、おのれ自身の生活など振り返らない。人を助けてこそ、自分の存在理由があると言わんばかりではないか……。

 町役場から三区画も離れると、街灯の一本も点いていない道に出た。筧がこのまま直進で北三村に入ると言うが、町として整備されている区域はわずかしかなく、限界集落そのものだと眉を寄せた。道路沿いにまばらに建つ民家は、いずれも廃屋じみた佇まいだった。その背後にライトを向けると、立派な杉が密集して立ち並び、壁のように垂直に民家を擁護している。力強い光景だ。建材としての利用価値も高いのだろう。だが、林業の盛んな地域で、ひとたび山体崩壊など自然災害が発生すれば、土石流は植林を巻き添えにして破壊力を増していく。現代の土木技術をもってしても、それを塞き止めるのは至難の技だ。容易なことではない。

 その災いの雨が、またぞろ降りはじめた。

「少し急いだほうがええです」南明がふりかえってみんなに指示をだした。「もし生存者がいても、雨が悪さして死んじまうこともあるんでね」

 悪さ……とは何だ? 北村が藤岡に目顔で訊くが、肩をそびやかすばかりだ。筧も力なく首を横に振る。

 緩やかな勾配を下ったところで、不意に小川が現れた。いや、これは小さな土砂崩れだと筧がライトを山側に向けた。崩れた山肌から地下水が勢い良く流れだし、そのまま道を横切って、それこそ泥の川となっているのだ。ここにはもともと脇道があり、二三件の家があったはずだと筧は説明した。確かに土砂に半ば埋もれてはるが、農道のような形跡はある。北村たちもライトを向けると、杉の倒木の下に見えたのはトタン葺き屋根の一部だった。あっ、と声を漏らし、思わず筧が向かおうとしたとき、

「そこにはなんもねえよ」不破が面倒くさそうにしゃべった。「先に急がねえとあぶねえ」

 言い捨てるようにして、南明といっしょに歩き出した。

「ちょっと待って──」と北村が声をかけた。だが不破たちは雨音で聞こえなかったように、ずんずん先に進む。「しょうがないな。筧さん、どうしますぅ。彼らはああ言ってますが、この家を確かめないわけにはいかないですよね……」と二人の背中を見つめながら北村はぼやいた。

「ええ。確か、老夫婦の農家さんが住んでいたはずですからね」

 ちいさくうなずいて、筧は泥水の流れなぞ気にもせず脇道の奥へと歩を運ぶ。北村たちも気になって仕方ない。

「どなたかいますか! 役場の者ですが、誰かいませんかあ?」

 土砂崩れでなぎ倒された杉の倒木は、さらけ出した塊根で、民家の窓ガラスをめちゃめちゃにしていた。玄関とおもわれる空間には、人の頭ほどの石が無数に転がり、赤いサンダルや長靴やスニーカーがズタズタになって潰れていた。臭いそうな泥水は未だ勢いを増すばかりだ。危険は去ってはいなかった。土砂崩れは今もなお容赦なく家を犯しつづけている。雨音に紛れて、奇妙な悲鳴が聞こえた。ゴボゴボ……ズビッピチッピチッ……ズチチチチチ……。人家は、木製の靭帯や金属質の小骨が噛砕されるたびに、痛々しい呻き声を発していた。

 流れ行く土砂とともに、北村の真ん前にあったアルミサッシが横滑りしていき、そこにぼっかりと虚無の空間が出来た。奥へとライトの光りを注ぎ込む。そこに生存者がいたらば、どんな惨状を見ることになるのだろう。北村は無人であることを祈りながら声をかけていた。

 そのとき、右肩をハンマーで叩かれたように激痛が走った。

「どうして俺の言うことをきかんのだ!」

 怒鳴られて、とっさに北村は振り向くと、瞬間、呼吸が途絶えた。藤岡の照らすライトに浮かぶ不破の顔面が正面に迫っていたのだ。あのごつごつした牛蒡のような肌が、光りの角度で、よりいっそう人間離れして見えた。それにも増して、眼球が怒りで蒼白い。

「痛いだろっ! 離せよ」

 不破だとわかった時点で北村はカッとなった。肩の激痛も倍加した。右拳に力が入った。牛蒡面を粉砕する自分の姿がチラリと横切る。だが実際そうしたところで、北村の拳のほうが軽く粉砕されるのだろうが。

「生存者は、あっちだ。三軒先にいる。今ならまだ生きているが、殺したければここでグズグズしてろっ!」

 それだけ言うと、またもや足早にそこを立ち去った。

「たしかに、ここの駐車場には車が見当たりませんし、きっと避難勧告を受けて、みんなして公民館にいったのかもしれません」どんどん強くなっていく雨脚に負けぬように、筧は力んでしゃべった。「それより不破さんの言う三軒先に向かいましょうか」

「ここでは彼らのほうが指揮官になれそうだな」

 北村はそう言いながら、いまだに痛みの残る右肩をさすった。きっと掴まれた箇所は青痣になっているはずだ。忌々しく舌打ちして、不破の走って行った方を睨みつけた。

 

 道の山側では、大規模ではないにせよ、あちこちで山崩れが発生していた。市道八号線は小波瀬町を縦に貫く旧街道を基に再開発された生活道路だが、すぐ脇に一級河川の木梨川が寄り添って流れている。この市道が土砂と流木で完全にやられたら、北三区の救出活動は絶望的になる。自衛隊や重機を乗せたトラックもあてにできないとすれば、残るは人海戦術しかない。だが、国内の各拠点から人員を移動投入した時点で、すでに生存率が悪化するという「七十二時間の壁」は超過してしまっているだろう。

 この時期にしては降水量はいや増すばかりだ。ここで大きい余震だけはないことを心底祈りながら、北村たちは、不破と南明の姿を闇の中に探していた。

 市道を圧迫するように林立していた杉が遠退き、そのぶんだけ幅員が広くなった。視界がよくなっても深夜の雨ではさして変わりないが、百メートルほど前方に奇跡的に一本だけ街灯がついていた。数件の家屋が照らされて、くっきりと明暗の影絵となっている。電気が使えるのと使えないのとでは雲泥の差だ。筧は、わずかに明るい気持ちになって現場へと急いだ。

 だが、半分も走った時点で、その明りは、あの長谷川邸で女が使っていたLED投光器だとわかった。

 南明は道端で一人、まるで骨箱を抱くようにして投光器を抱いていた。

 投光器が見つめるものは、やはり無惨な光景だった。そこそこに新しい二階建て住居が、山手のほうから雪崩こんできた泥流に一階部分をえぐられ、さながら人でいうところの腰部轢断状態だった。ぐちゃぐちゃの二階の床下からは電線だの水道管だの下水管だのが、黄色い断熱材に絡まりながら垂れ下がり、白い柱が剥き出しの大腿骨を思わせた。やはり死に体の家屋は断末魔の声を上げていた。鈍い乾いた圧縮音だった。

 苛虐な自然の魔手は、無頓着に家屋を呑み込もうとして、生き残りの柱をへし折るつもりだ。抗ったところで、根こそぎ丸呑みにするまでだろうが、と。

 その様子をつぶさに観察しているのか、南明は微動だにしない。

 北村たちがそばに寄ると、立ち止まれと右手で合図し、顎先でその人家を指し示した。

 筧の顔が蒼白になっていた。

「ここは米田さんの家ですよ。お母さんが同居してるはずです。米田さーんっ! なんで避難しなかったんだ。おーい、役場の筧です。大丈夫ですかぁぁぁっ」

「今、不破が中にいる。あんたがたが来てくれるのを待っていたが、やべえっと言って、さっき飛び込んでいったさ」

「そんな、さっき言ってくれれば……」  

 藤岡が、その後に何か言いかけたが、言葉を吞み込んだ。

 凶暴な量の土砂と泥水が狂いだせば、安価な函のような家屋なぞひとたまりもない。まして漆喰の胸壁と板壁とが共謀して、こちらに向かって倒れてかけている。そこへどうやって生身の人間が突入するというのだ。重機でも歯が立たない。だが、その愕然とする光景の中に、ガンッ、ガンッ、ガキンッと力強い物音が家の中で響いた。

 とっさに音の発生もとへ南明はライトを向けた。すると、米田家の台所と思われる箇所から、生きた泥の人像が、板戸を押しやりながら躍り出てきたのだ。パキッパキッと破れた板ガラスを踏みしめ、二メートルはあろうかという巨大な泥人だ。こいつはまるでゴーレムだと息を呑む北村だが、端からそれは不破だと気づいていた。しかし、そうだとは思っても、なかなか信じられるものではない。しっかりした足取りで泥人間は、途方もない質量を漲らせ、舗装道までやってきた。白い湯気のたつ光りの中で、あの牛蒡の肌をした顔が見てとれた。

 彼が人を背負っているのがわかった。不破は、あの生埋めになった家から人を助け出してきたのだ。

「すぐに病院へつれていくぞ」

 不破が言うなり舗装道路を歩きはじめていた。

「す、凄い! 一人で、助けるなんて。凄いですよ」だしぬけに藤岡が声を上げた。「そう思いませんか! あの中から。どうやって? 不破さんは助けることができるんですか。レスキュー隊員そのものじゃないですか! いやいや、レスキューより凄いです」

 今までの冷やかな態度とは打って変わって、藤岡のテンションは突き上げた。それもそうだ。わずかな時間で、危険極まりない災害現場から生存者を救出することそれ自体が、奇蹟そのものなのだ。頭から泥だらけになったということは、一度は泥流に潜ったか、あるいは頭まで浸かったということだろう。それだけでも命を落とす可能性は高いのに、なんと遭難者を無事に助けだすとは、俗に言うヒーローといっても過言ではないだろう。その証拠に、もう藤岡は舞い上がって、自分の着ていた雨合羽を脱いで遭難者に着せるわ、不破の泥汚れを綺麗にするわ、もう小学生のお祭り騒ぎだ。

 南明も不破に連れ添って歩きながらタオルを取り出し、背中の遭難者の顔を拭うと、そこに老婆の土色した顔が現れた。泥まみれの髪の毛がべったりと頭皮に貼りつき、両目はぎゅいとつぶったままで開く気配はない。唇はチアノーゼで紫色に染まり、かなり危険な状態なのは素人でもよくわかる。

「だいじょうぶ。息はしっかりしてる」

 南明の、場数を踏んだ的確な言葉だった。

「米田さんのお母さん。お母さん! 大丈夫ですか! 助かったんですよ。もう大丈夫ですよ。息子さんもきっと助かりますからね」

 筧も南明からタオルを受けとって、老婆の顔や手を拭きながら明るく励ましていた。

「不破さん、いったん降ろしたほうがいいんじゃないですか?」そこへ北村の冷静すぎる提案が、まるで冷水ように浴びせられた。「遭難者を一度降ろして、健康状態を診るべきですよ。乱暴に運んだことが災いして、症状を悪化させることもある。呼吸障碍があればそれだけでもアウトだし脳障害の可能性もあるんだ」

 そこでビタッと不破は足を停めた。

「そのどれであれ、雨に打たれながら待っていて助かるという確証はあるのか」

「そんなことを言ってるんじゃない。ともかく一度おばさあんの様子を診てから、走ってもよければ走るし、危険ならば誰かが病院へ走って助けを呼ぶという手もある。ともかくいったん  

 と北村は、不破の背中で丸くなった老婆の手を握りしめ、そのまま抱きかかえて降ろそうとした。だが、その手を南明が打ち払った。そして怒気もあらわに言った。

「一刻を争うってときに、またのんびり御医者さんごっこかい! あんたが医者ならまだしも、ただの市役所の職員だろが。崩れた家の中からばあさんを救い出したのは誰だと思ってんだ、不破さんだよ。不破さんが善しと思うことに違いはないんだ。彼がそう感じてるなら、それが最善方法なんだよ!」

 唾を飛ばしながら南明が喚き散らすと、筧が掩護するように言った。

「ええ、たしかあの丘を越えれば北三村の公民館があります。併設して千堂医院もあるし、そこまで行けばなんとかなるのでは」

「確かなんだね」

 忌々しそうに北村が訊くと、不破は、筧の返事を待たずに歩き出していた。

「えっ、はい。そこに町長も詰めているはずです。わたしが役場にいた時点では千堂医院は建物にも被害はほとんどなく、きっと災害救助の前線基地に使えるんじゃないでしょうか」

 そこまで言われると北村に反論する気が失せた。責任を問われることがないのだから、おとなしくついて行けばいいのだ。駆けるように舗装道を急ぐ三人の後に、少し離れて北村は続いた。

 それにしてもタフな奴もいたものだ──と北村は降りしきる雨の中、愚痴るように思った。あの丘を越えればと筧が言っていたが、それがどの丘を指していたのか、もう見当がつかない。さっきから二つ三つと急勾配の坂道を昇っては下ってみたが、公民館どころか民家すら途絶え、藤岡の足運びが一段と鈍くなっていた。

「藤岡、おばあさんは大丈夫か?」

「はい、意識はないようですが……呼吸は安定しているようです」藤岡の声は、当然だが、ひどく疲れていた。「休憩したほうがいいですかね?」

「あァ? それはいい。重荷を背負った当人が大丈夫なら、な」

 五人は立ち止まった。だが不破たちは前方を向いたまま、無言だ。

「では先を急ぎます」

 筧の一言で、何事もなかったように一同は歩き出した。

 ふんっと北村が鼻を鳴らした。どうせ小休止を提案しても、即時却下されるのは目に見えている。自分が、おばあさんを背負ってきたわけでもないのに、この疲労感はなんだ。それに較べ、実際に背負っている不破と南明たちの足取りの軽いことか。あれから北村は、ふたりの動向を、それとはなしに観察していたのだった。

 ──互いに信頼関係はあるようだが、苗字が違うのだから、夫婦ということはないだろうな。当初は、小汚いホームレスがボランティアを騙った小悪党ぐらいに見下していたが、これはきっちりと、二人の素性を知る必要がある。 

 そのとき低い尾根の向こうから、サイレンの音らしくきものが聞こえてた。不破は足を止めた。篠突く雨で聞き取りにくいが、確かにそれは救急車のサイレンだった。

「北三村の千堂医院に行っていたやつです」筧が振り返って北村に言った。「三時間ほどまえに、萩田町から心筋梗塞の患者さんを搬送したんです。その帰りだったらここを通るはずです」

 筧が再びおばあさんの様子を見るために、不破のそばに近寄った。

「ほら、おばあさん、救急車に乗れますよ。もう少しです、頑張ってください」

「運転している方は確か花木さんですよね、消防団員の」

 藤岡が訳知り顔で言う。

 みんなの期待がそうさせるのか、救急車はスピードを上げたようだった。もうエンジン音も聞き分けられるほどだ。漆黒の木立のシルエットを貫いて、チラチラと光芒が視界に踊る。救急車は深い右カーブを描いてから、ふいに道路の前方に、ざくっと音がするように、ライトの光帯が闇を裂いたのだ。

「おーいっ、おーいっ」

 だしぬけに大声を出したのは、他ならぬ北村だった。みんなの最後尾から大声をふりしぼり先頭に駆けだしたのだ。両腕を大きく左右に振って、自分が恥知らずのヒーローだと言わんばかりに、救急車の運転手に存在を知らせるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る