第20話

               二十

            

 キーィィィィッ、キィーーーーコッ、キーィィィィィィ  

 そぼ降る雨の中、病的なほど、自転車は軋んでいた。

「うっせえな、向こうに着いたらスクラップにしてやっからな!」そこで小石に乗り上げ、自転車がバランスを崩す。「ちっ、クッソッ。ほぉらっ、もっと明るくできんのか! 見えんぞそいつが」

 自転車を漕ぎながら、さっきから北村は幾度も罵声を飛ばし続けていた。むろん相手は盗んできた自転車にだ。自分の頭の中にではない。いかにもスクラップ同然の自転車は、それでも弱々しいダイナモ発電機で、北村の命令どおりに、行く手を照らしていた。だが、この真の闇の中、何を照らせというのか。黒塀をまさぐるようなものだった。

 不破と南明との性宴を目の当たりにしてから、ときおり北村の脳髄はチック痙攣し、その度ごとに記憶の汚泥は攪拌された。色鮮やかな幻影が闇に投影され、わずかばかりの電位差によっても記憶は錯綜するものだ。

 今思い返しても、老婆の南明とは思えぬ素肌であった。

 それは滑り立つ脂汗で潤う肉肌とも思えた。南明の臀部から伸びる腿肉にも見えた。一糸もまとわぬ肉襞にくひだ蠕動ぜんどうとねめつく喘ぎあえぎごえだ。さっきから北村の男根は、怒張して止まない。淫らな映像が、脳内の夜闇に投影されるたびに、北村は、おのれの男根を自転車のハンドルに見立てて、愛撫しているのであった。それはいつのまにか股間をなぶらせる南明の割れ目を突き抜け、彼女の崩れた笑みがほとばしるのである。

 すると北村も真剣で、淫らな顔で、南明を見つめた。あまりある女の臀部を、両腕いっぱいに掻き抱こうとハンドルを手放し、そのたびごとに自転車は転倒し、あちこちとボディは凹み、銀色のリムは大きく歪んだ。

 はっとして意識をこらしてみる。だが、永くは保持できず、たちまち映像はどろりと溶解し、汚泥の中に沈み込む。

 結局、あの汚泥まみれの体育館で見た光景はなんだったのか……。

 南明と不破の二人組が、危険な、いや、危険すぎる人物なのはわかっている。ただ、なにがどう危険なのか、肝心なところは、彼らの陰部のように、光りを寄せつけぬ闇の向岸に隠されている。

 街灯の痛々しい路地に、自転車の悲鳴と北村のため息だけがやけに響く。だからといって振り向くような人はいない。幸いにも、雨足はあれから急速に弱まってきたが、余震もふくめて、予断はできない状態に変わりはなかった。

 四辻を折れると、遠くからでも、千堂医院のシルエットが見てとれた。

 かすかにラジオの声が耳に届く。鼻をつくガソリンの臭いもする。小型の発電機が低い唸り声をあげていた。

 無人の玄関ではあるが、避難者たちが交代で夜闇と戦っているのが伝わってくる。

 ほっとした。その反面、藤岡の出迎えが気になった。きっと仕事バカのあいつのことだから、玄関に飛び出て来るや否や、矢継ぎ早に、手順についての質問を浴びせてくるはずだ。

 しかし今の北村の集中力では、気障りばかりで、考えなぞまとまらない。あのときのあいつらのセックス──というより野獣の媾合は、今思えば実際の出来事だったのか、おのれの手淫マスターベーションだったのか。

「夢でも見ていたんだろうよ。ここんところご無沙汰だったもんなあ。どうせ言ってもわかんねえしよ」

 千堂医院の開放されていた筈のガラス扉が、いつのまにか閉まっていた。横殴りの雨のせいだろう、玄関口はびしょびしょだ。枯葉だのゴミ屑だのがガラス扉に張りついて、足元の排水溝が派手に咳き込んでいた。

 北村が合羽のジッパーを下げようとしたが、その手が躊躇した。知らぬ間に合羽は、あちこちと裂け目だらけだった。脱ぐだけでも、合羽は原型を留めていられるのか疑わしい。

そうっとジッパーを下げると、フードの部分が剥がれるようにして落ちてきた。構わずに上着を脱ぐ。すると、汗とビニールの匂いが、自分でも勘弁してくれと思うほど強かった。そのままゴミ箱に押しこみたいところだが、手近にあった丸椅子──これもしっかり濡れている──の上へ放り投げ、次にズボンを脱ぎだすと、事務室の方から看護師の本宮が現れた。

 挨拶しようと目を合わせたとたん、北村は明らかに半歩後じさった。本宮は、真っ青の顔面に充血した両眼、そのうえ胸元から腰までかなりの量の鮮血を浴びていたのだ。

「お、お疲れさまです。どう、どう、なされました?」

 なんとかへたり込む精神を食い止め、北村は軽く頭を下げた。だが、もう心拍数はうなぎ上りで、いまにもはちきれそうだ。本宮が看護師でなければ、間違いなくその姿は、殺戮の限りをつくす殺人鬼そのもの。実際、本宮の絞り出した声に、北村の背筋に戦慄が走った。

「た、大変なんです……。あのぅ、同僚さんですか? ご一緒していたフジオカさん  


 もうそこまで聞けば、行き先は手術室か霊安室のどちらかだ! 北村は長靴を絞め殺すようにして脱ぐと、廊下を突進した。すると、後ろから本宮が、バタバタとスリッパを叩くようにしてついてきた。

 廊下の角をまがると手術室だが、あの赤い表示灯は消えていた。

「まっすぐ行ってください。霊安室です」

 本宮の引きつった声が走る。

 そこで北村の足が凍りついた。いや、神経も、大脳皮質も、心も、虚空を見据えたまま立ちすくむ。

「れいあんしつ…って…一体なんがあったんでずか……」

 北村のろれつが回らない。本宮を真似たわけでもないだろうが、振りかえった顔は真っ青だ。

「と、とにかくご対面してください。ここでわたしがご説明できることはあまりありません」

 そこへスリッパの底の軋る音とともに千堂医院長が現れた。やはり血で汚れたままの白衣が凄まじい。下腹部あたりに鮮血のインクで捺された手形と思しき印が見てとれた。千堂自身のものかもしれないが、禍々しいことに変わりはない。今まさに手を洗ってきたのか、ぐいぐいとタオルを使って、手といわず顔だの首筋だの拭きまくっていた。北村を一瞥するや否や、その作業が止まった。

「あ、ごくろうさま。事件の可能性が高いですな。すぐに適切な対応がなければ、この小名瀬町はカタストロフに陥るでしょう。自衛隊とか警察はまだ来ないんですか?」

「えっ、まだそれは、本部のほうで、でもなんとかなると……そ、それで藤岡はどこに?」

 北村の質問にあえて答えず、千堂は霊安室に向かった。

 一日に二度も、同じ医院の霊安室に入るとは……。北村は悲痛な思いでドアを睨んだ。

 やはり立ち込める薫香で室内は異界のしずけさに沈んでいた。

 遺体は三体安置されていた。一体は哀れなほど小さなもので、北村も救助にかかわったあのときの老婆だ。白いシーツで覆ってあるが、形状からして衣服を脱がされているのがわかる。やはり老婆の服を南明は拝借したのだろうか。南明自身が着ていた灰色の服が見つかれば、動かせぬ証拠となるが、今はそれどころではない。もう一体の遺体は誰なのか、先から嫌な汗が止まらない。その横の遺体は、きっと片腕を無くした老爺のものだろう。片腕の接合手術は無理だったとしても、亡くなるとは正直気落ちする。そして少し離れて新たな遺体だ。こちらの白い布は、大きさや形状からして男性だ。間違いない。北村は、神妙すぎる面持ちを凍らせて、高鳴る胸を鼓膜で数えながら、ようやくストレッチャーの脇に立った。

 北村は、戸口に立つ千堂に目顔でうなずき、脂汗のしたたる両手をべたりと合わせる。

 どうか人違いでありますように……。

 と祈りながらも、この事態の流れからすれば、白い布の下からは、藤岡のあの顔が現れる筈だ。は……ず……だった。

 

 その筈だった……。

 ところが実際は、白い布だと思われたものは防水ビニールであり、その下には、黒っぽいものが、今、徐々に動いて見えてきているのだった。

 ──これは遺体じゃないのかよ、おっ、おいっ。おいっ、動いていんじゃんか。

 驚愕に染まる瞳で、チラリと千堂の様子を盗み見たが、医師になんの変化もなかった。

 逃げるようにして北村は視線を転じ、白い布に視線を落とした。ストレッチャー全体の形状から、ちょうど人体の頭部を彼は見ていることになる。だが、それが動いているのだ。ぶるっ、ぶるっと。どこか機械仕掛けのように。

 北村の呼吸は浅くなっていった。もう肺臓は、ほとんど膨らんでいなかった。酸欠状態になるのも時間の問題だった。

 いや、北村は、あえてそれを願っているふうでもあった。医者の眼前で失神してしまえば、思いのほか、面倒はなくなるのでは……と。

 あえぐように北村は咳を連発した。もう少しで意識は薄らぎ、この場にくずおれることができる。

 妙な苦笑いを浮かべたまま、実際に北村は、ぐらりと後ろへ倒れかかった。

 しかし、医者の千堂がそうさせてくれなかった。素早い動きで、その場に頽れそうになった北村を背後から支えたのだ。そして力容赦無く北村の下顎を鷲づかみにすると、壊れよとばかりに揺さぶったのだ。

「気をしっかりせえ! 北村さんっ」

 すると、おぉぉっと家畜じみた声をあげて、北村は落ちかけた意識を引き戻すしかなかった。白目を反転させ、首を横にふりふり、自らの頬を引っ叩いた。揺れかえす北村の意識は、驚きのあまり、遺体にかけてあった白い布を剥ぎとってしまったのだ。

「な、なんなんだ、これは……」

 北村は大人げない声をあげると、背後の千堂を押しやり、その場から逃れようとした。これは藤岡なんかではない。屠殺場で捨てられた規格基準の肉塊なんだ。

 ──もうこんなことには関わり合いたくない。すべてが狂っている。これは現実とはちがう。ありえんことだ。

 確かにその遺体は、ちらりと一瞥しただけで、気の弱い者なら失神しかねないものだった。頭部の損傷がとにかく酷く、手術後の創部清拭は後回しにされて血だらけの状態だ。鈍器か何かで殴打されて、頭蓋骨の一部が、えぐられたように欠損している。露出しているのは強膜や蜘蛛膜、そして大脳新皮質だろうか。めくれた頭皮をもとに戻そうとした痕跡もあるが、応急処置に大した成果は見受けれず、治療行為というより、何者かが大脳を掻き出したとしか思えない状態だった。おそらく遺体が搬送されたとき、頭部の中身は空洞状態だったのではあるまいか、そこを千堂は、エンバーミングを兼ねて、掻き出された大脳──と思しき異物──を元に戻そうとしてあがいていたのではあるまいか。

「人手がなくてな、もう少し丁寧に出来ればよかったのだが、あとでなんとかする」

「あと……って」北村は言葉を呑み込んだ。

 しゃがれた千堂の声は、語ることだけでも、ギリギリなのが伝わってきた。初対面のときの意気や覇気は掻き消えて、魂さえも抜けたように動きが普通ではないのだ。ストレッチャーの横に置かれた血だらけの脱脂綿に温水を湿らせると、千堂は、遺体の顔にこびりついていた泥と血餅を拭きはじめた。

「すまんなあ、こんなにしちゃってなあ。いつもはもっとうまいんだがなあ」 

 ダメージは頭部ばかりでなく、顔面も作為的な破壊の痕があった。左眼窩が見事に陥没し、眼球は跡形もない。そのとき受けた衝撃のせいだろうか、頚椎の角度とねじれ具合が不自然で……つまるところ首は派手に骨折していた。だがそれら大怪我を負った時点でも、負傷者は奇跡的にも持ちこたえていたと推察された。なぜなら、千堂医師の白衣に遺された真っ赤な手形は、状況的に藤岡のものにしか見えないからだ。即死状態でありながら、千堂の白衣に手形を染めつけることが、はたしてこの遺体には可能かどうか、それは疑わしい限りだ。もし、それが事実だとすれば、遺体の生霊が印した奇跡と呼べようか。

「この方が誰なのか、あんた、まだわかりませんか?」

 と千堂は訊いてきたが、付着していた汚れを洗い落としたところで、顔面破壊の規模は想像を絶しているのがわかった。復元処置しても人相を推定するのはむずかしいほどだ。これが事故ではなく、殺人事件であれば、犯人は被害者の身元を消したかったのが露骨にわかる。

 千堂はそこで、白衣に点けられた血の手形を、北村に見せつけるようにして言った。

「ほら、このとき彼の手はな、布切れを握っていたんですよ。むろん、血や泥でどろどろになってましたけどね──ほら、ほら、これだ」 

 そう言いながら、今度はステンレスの膿盆のうぼんを北村に呈した。そこには脱脂綿の赤い山と、五センチばかりの四角い布切れがあり、千堂はそれを広げて北村に見せた。

 赤黒い布切れであった。だが裏返したとたん、北村の双眸が、大きく見開かれた。

 布切れは、今北村がつけている腕章と同じ黄色であり〝危機管理防災室〟の〝防〟の字が印刷されていたのである。そんな腕章の一部を、どこの誰が用意しているというのだ。

 よたよたと壁際まで後退ると北村は、千堂の不思議な笑みを改めて見つめた。

「あ……あ……、これは、これは、藤岡なのか……」

 咽喉の奥で待ち構えていた名前を、たまらず吐き出した感じだった。ここにきて、ようやくこの損壊した遺体と、生きている藤岡とが合致したのだ。たった小一時間まえに別れた部下だというのに、この変わり果てた姿は、やはり唐突に信じられるはずがない。

「し、死因は……?」

 とっさに平静さを装って北村はたずねた。

「見たとおり頭部の破壊でしょうな」

「では……見た目から推理して、複数でしょうか、それとも、単独の犯行でしょうか?」

 自分で質問しておきながら、どこか上の空だ。

「そこはむずかしいところですな。それより、犯行が人によるものなのか、そうでないのかの判断も難しいでしょうな。酷いものな。最初はクマの仕業だと思っていたんですよ」

「えっ、それは先生が……」

「ああ、いや、ここの巡査さんですよ、きっと。船戸巡査長さん。ここから二キロ半ばかり北にいったところに、小名瀬町の唯一の駐在所があるんです。ご家族して赴任してからもう五年。こんな自然災害の夜に、たった一人で殺人事件の捜査とは、もう災難の極みですな。一刻も早く県警本部から応援がきてくれればいいんですがねぇ。クマの襲撃も怖いが、人のほうがもっと恐ろしいものですよ」

「クマ以上に? でしたら事故ということは」

「この状況だと人の素手は難しいでしょうな。ありえない。機器が要り用です。また鋭利な刃物があったとしても、そう、クマなみの腕力が要るはずだ。そんな意味では事故ということもありえるのかな。発見場所は、ここから五キロぐらいの田んぼ真ん中で見つけたと巡査さんは言っていた  はずだが、それこそクマに襲われたような凄惨な状態だったらしい。彼が一人で散らばった肉片などを集めてくれたのでしょうが、ライフラインが復旧した後に、正式な監察医の死因解剖でなければ迂闊なことは言えません。ただし、自然災害などの事故死はありえないと思うんです」

 千堂のすっかすっかな言葉が、逆に耳たぶには心地よく、さらさらと流れて行った。よく見ると胸部は腹部にかけて裂けたような痕があった。頭部破壊とは様相が違うということで、千堂は尋常ではない奇怪な死因を匂わせた。

「先生、もしかしたら、こっちの傷を負ったとき、藤岡はまだ、まだ生きていたんじゃありませんか?」

「そう……可能性がないとは言い切れないですな」

 北村の視線が、あらためて、千堂の白衣に押された血の手形を指さした。

「ああ、これか。いや、これは医者にあるまじき失態の証だ、未熟な気構えを露呈してしまい、お恥ずかしい限りだ。実は、巡査さんが搬送してきたとき、てっきり絶命しているのだと思い込んでしまったんです。それが……突然、がばっと白衣をつかまれたんですから、そのときはもう、ド肝を潰しましたよ」

 またもや千堂の顔に苦笑いが浮かんだ。だが北村は、だんだんと薄気味悪さを感じてくる。藤岡でなくとも、この状態の肉塊が、突如と起き上がって白衣をつかむとはありえないのではないか。北村は首を傾げて、小さくつぶやいた。

「屍人は意識があって、先生に何か言いたかったんじゃ……」

 千堂の顔つきが、水面に落とした墨滴のように、にわかに明るさを失った。北村の言葉を反芻しながら、千堂は、首を振ってイヤイヤをる。

「……生死を彷徨う状態でありながら理路整然と喋ることのできる屍体はそうはいませんよ。まして頭部には大脳がこれっぽちも残っていなかったんだ。常識内の化学反応、つまり死後硬直としてここは理解すべきですなあ」

 だが、そのときだった。今度は遺体の胸部が、ぶるっと震えた。むろん、千堂は目の錯覚だとジェスチャーし、あいかわらず握っていた脱脂綿で遺体の胸部を拭いながら、まじまじと傷口の状況を観察する。だが、錯覚などではなかった。縫合の済んだ遺体の胸部は、明らかに内部より突き上げられて、おぞましくも震えているのであった。

「先生! 藤岡の胸の中には、なにか……なにかいるんじゃ」

 北村は自分で言っておいて、自分でギョッと身構えた。千堂が胸部の裂傷については、勝手に死因とは別の原因によるものだと断定したが、むろん、その原因については知るすべもない。

 とっさに千堂の手が、医療用手術器具台から、血だらけのメスを取りあげた。

「開く? のですか」

 北村の質問には答えず、千堂は、唐突に、メスの切っ先を胸部に突き入れた。

 再び、ぶるっと胸部が反応を見せた。北村もぶるっと震え、千堂の双眸は硬直した。

 だが次の瞬間、胸部で発していた間欠的な動きが、メスの刃先に恐れをなしたか、ひたりと止んだのである。

 ──俺が見てるこれはなんなんだ。ちくしょうめが! こいつは死んでるんか生きてるんか! いやいやいや、こんな身体で生きているはずがねえだろう! 馬鹿いってんじゃねえよ。

 と心の衷で叫ぶ北村だが、その目はメスの動向に吸いつけられて、いっかな離れようとはしなかった。

 メスは切り裂いていく。藤岡の胸部から腹部へ、そしてついには下腹部へと。

「先生?」

「……」滴る汗の意味だけは、両者とも認識が合致していた。「わたしがやっているんじゃない」

 北村は、ゆっくりと一つ、うなずいて見せた。狂気と正気の違いが、北村にはぼやけて仕方なかった。そこをもっと深く、そこを斜めに切りさげて……。

 とうとうメスは、藤岡の下腹部から股間の生殖器官を右側に下がり、臀部を経由し、肛門を半円に切り裂き、左大腿部を静脈路線と並走するがごとく、左足の踵を終点と見定め、なに食わぬ顔して斬り終えた。

 千堂はメスを器具台に無造作に抛った。

 この後始末はどうなるんだ。北村の視線は、名看護婦のように、メスの走ったコースをたどっていった。おもむろに千堂が言った。

「わたしはどうにかしている。だが、すべては一つの合理に基づいているんだ、これをしなければゴールがないのだ」

「……でなにをやらかそうとしているんです、先生は」

 その次の瞬間、二人は藤岡の屍体の意思というものに感付く。あの胸部の拍動じみた動きが嘆くように再開しだしたのだ。

「やっぱり生きてるって、ことですか?」

 北村が誰に向かって問うているのかしゃべった。医師は即答するかと思いきや、頭を抱えて無言だった。

「だって、その胸の切り裂かれた皮膚の下に見えるのは心臓じゃないんですか? そいつが動いているんだったら、生きてることになるんじゃないんですか!」

 それは確かだと千堂の目線もうなずく。

「だが、心臓と呼べるようなものは、この遺体にはなかったんだ」

「そ、それじゃあ、ここに入っているものはなんなんですか」

「いいかね、ここに運び込まれたときは、確かに胸郭には一切の内臓器官はなく空洞だったんだよ」

「でも今はこうやってお腹もふっくりと膨らんでいますよね」

「そうだ。他のもの──内臓ではない他のものが詰めこまれていたんだ」そこで千堂は、器具台の横に並んでいた、手押しワゴンへ向かった。ワゴンには幾つかの青いポリ容器が乗せられており、千堂は無造作に蓋を開けた。そして取り出したものは。「これだよ。これが結構な数が押し込められていたんだ」

 千堂が手のひらを広げると、豆腐一丁ていどの大きさの血だらけの物体が現れた。近くに持ってくると水道水で軽く洗い、ついっと北村に差し出した。

「人の臓器に似ているがね、正体はわからんのだよ。調べるつもりでいくつか残し、あとは元のように体内に戻してある。刑事の捜査には剖検のサンプルとして提出つもりだ」

 素人ながらも、その臓器じみた肉塊を、北村は検分した。

「……つまりこの状態で巡査は発見したわけですね」

「いや、そこなんだが、今思えば、この状態だったら、巡査は発見現場を維持するために遺体は運んでこなかったかもしれないのだ。検死官が死因について事件性がないと報告した場合は、遺体は最寄りの医療機関などで一時預かり保管する。または県警本部に連絡したとき、被害者が場合は、そのまま、まっさきにここへ運びこむことになるだろう。でなければ遺体を勝手に運んで、発見現場も雨の中に放置なぞしてきたら、船戸巡査長は始末書ぐらいで済めばよいが、事態は面倒になるだろうよ」

「それでは……では船戸巡査が移送してきた、その時点で、彼自身はどう話していたんですか」

「それこそ血相変えて、『被災者さんは大怪我を負ってます、すぐに診てください』だったな。ああそのときは看護婦の宮本さんも応対したはずだ」

「被災者……。被害者ではなく、災害に遭った人? そうなると、先生もさっき、遺体の胸部が動いたように見えましたよね。わたしもこの目で見ました。ぶるぶると機械的に、あるいは化学反応的に動いていました。ということは、巡査は、発見時に、この一連の地震による災害から救出されたと見誤ったのだと言えませんか」

「──するとだ、君は、救出された被災者を見誤り、わたしがこのように生きたまま解剖したと言いたいのかね。だが、それは今となっては推測に過ぎないな。医師としてのわたしの使命は、まずは患者さんの救急医療だよ」

 ふいに千堂医院長の声から力が抜けた。ついさっきまで信用していたものが腹の底から抜け落ちていくようだ。おそらく極端な過労と体調不良が原因なのだろう。目つきも腑抜けた感じだった。疲労の度合いでは、引けを取らぬ北村だが、こちらは不気味なほどに快活な様子だ。メキメキと躍動し、語気も猛々しい。肉塊を指さして、

「これがなんであるかは後に回すとして、誰が藤岡の身体に、こいつを入れたかだ。と同時に、こいつを入れた者が、藤岡を殺害した真犯人といえますね。そしてもうひとつ、船戸巡査は通報をうけて水田の現場に向かったのならば、その通報した人物は一体誰なんですかね。通報した人物は、藤岡の、この有様を見たわけでしょう。こんな深夜すぎの雨の中の水田で、その通報した第一発見者は、何をしていたというんですかね」 

 高飛車な物の言いようだったが、もう感覚は地滑り状態で堰き止められない。北村は千堂の胸ぐらでもつかみかかりそうに迫った。

「先生はもしかしたら、巡査に通報した人物を知っているんじゃないですか?つまり犯人を……」  

「どういう意味だね、それは!」

 さすがに、とっぴな発言内容に千堂は身構えた。思わず利き手が北村へと伸びる。そのときである。

「いいえ、それはありえません」

 振り向くと半開きのドアの外に、看護婦の姿があった。気がつかなかっただけで、さっきからそこにいたのかも知れない。千堂の妻の椿婦長だった。

「おそらく……わたしが玄関に物音を聞きつけて、出て行ったときには藤岡さんしかいませんでした。入口のところに寝かされていたんです。どなたが搬び入れてくれたのかと、避難しているみなさんに聞いたところ、何度か怪我人をここへ運んでくれた男性ではないかと教えてくれました。とすれば、あの不破さんとかおっしゃる大きな殿方だと思うんです。あの方なら、ご自分一人でも、藤岡さんぐらいなら背負ってきても不思議ありませんもの」

 その発言には北村も驚いたが、千堂医院長は妻を瞠目どうもくしていた。

「えっ、では船田巡査が一人で怪我人を運び込んだのではなくて、不破も一緒だったということですか?」

「失礼ですが、そのとき船戸巡査さんの姿はなかったと思います。藤岡さんのご様子が、それはもう尋常ではなかったので、気が動転していたせいかもしれませんが」

 ためらうことなく椿婦長は返答し、そしてうなずいた。北村は素早く千堂へ視線を射った。どこか大きな誤解と認識のズレがありそうだ。しかし、北村の質問を受け止めたのは、再び婦長であった。

「もし、主人がおかしなことを北村さんに話したとしたら、それは勘違いだと思います。事態の深刻さに冷静さを欠いているんです。この町で、たった一晩に、何人もの方が次々と亡くなられたことなぞ皆無だったんですから。彼が総合病院の外科部長の座を捨てて、ここで開業医を始めたのは、もっとゆとりのある生活を過ごしたかったからなんです」

 その言葉に対して、千堂から異論はなかった。だからといって満足している風でもない。北村はしつこいように重ねて婦長に訊いた。

「──では、そのとき不破に直接会った人はいないんですね。医院長が応対したわけでもないんですね」

 気の昂りのせいだろう、北村の言葉遣いが荒っぽい。千堂も、この不意を衝いた展開に眼光がけむった。ハッと気づいたように、まばたきを数度すると、

「ああ、そうか、いや、そうでした。わたしは本宮さんに呼ばれて、手術室にまっすぐ飛び込んだから、玄関の方へは行ってませんでした。そうです。妻が応対してくれたのです。前言すべて撤回します」

 その間、一度も北村とは目を合わさずに、前言をゴミ箱へ捨てるがごとく、千堂医院長は言い繕ったのであった。そこは北村も「ハァ?」と怪訝な表情を返したが、千堂は、そんなものどこ吹く風であとをつづけた。

「それこそ医師としてはあってはならない医療過誤に陥るところでした。すべてがこの異常事態のせいだと言えますな。市の重要なポストに就いていらっしゃる北村さんでしたら、さまざまな問題が入り乱れて、ついつい忙しさのあまり、事実を誤認し、気づくとそのまま記憶を捏造してしまったこともあるんじゃないんですかね? 人という精密機器は──紛らわしい説明を繰り返しているときなど、無意識に、誤った記憶の糊塗ことしているものなんです。誠に遺憾でありますな」

 しかし、北村は無言のままだった。ついさっきまで語っていた、船戸巡査についての証言はなんだったのか、気味悪そうに千堂を凝視すると、

「ただひとえに災害時の精神的バイアスが招いた錯誤ですわね」

 またしても椿婦長が絶妙なタイミングで割って入る。かすかにお辞儀をして見せると、するりと北村の鼻先をすり抜け、医院長のそばへ歩み寄った。

「それで船戸巡査は今はどちらにいらっしゃるのか、お判りでしょうか。災害無線をお持ちならば居場所がお判りのはずですが」

「そ、それは……」

 確かに無線機を藤岡から預かっていた。リュックのどこかにしまったはずだが、そもそもリュックの在りかもどこにいったものか。北村はさっきまでの、ふてぶてしい態度が、憑き物でも落ちたようにシラけてきた。

 畳みかけるように椿婦長が言う。「まずはその無線機で、この異常事態を知らせるべきではありませんか? 藤岡さんは市役所の職員さんなのですし、不審死については、われわれのような医療従事者より警察官のほうが向いているのでは?」

「い、いずれにしても、これは災害死などではなくて、一事件として扱うべき緊急案件ということですね」

 しだいに北村の声は弱々しくなっていく。

「……ということになりましょうか」

 いつのまにか、千堂は妻の椿の手を軽く握り、物怖じしない権威の医師になっていた。そうなると北村のひどく汚れてくたびれた姿形が目障りとなる。実際、こちらの中年男を見下ろせば、上から下まで泥だらけ。雨合羽を履いているときはまだましだが、作業ズポンなぞは、もうホームレスの私物から拝借したものとさして違いはない。

 ──一体全体ここで何が起きたというんだ。

 振り向くと、確かに架台には藤岡と思われる遺体が横たわり、それは意味もなく、縦横無尽に皮膚が斬り裂かれている。

 ──これは本当か? 藤岡か?

 だが口から発せられた言葉は、まったく違ったものだった。

「では……いずれにしても、あの二人が最重要容疑者なのは間違いありませんね。たしか小名瀬町には交番がありましたよね」

 なんの脈絡もなく、北村は決められた台詞のようにつぶやくと、当然ながら、

「えっ、はあ?」

 千堂と椿は、北村を不審げに見つめながらうなずいた。北村も、うんうんと合点する。椿婦長が今だとばかりに、床に落ちていた白い布をつかむと、藤岡の遺体を覆うように見た。ちょうど目線は藤岡の胸部あたりだ。すると、胸部の縫合跡が、確かにヒクヒクと動いたように見えた。だが、たちまち引越し業者のごとく白布で包み込んだのであった。

 北村を、これ以上刺激してはならぬと気遣っているのか、それとも千堂の身の安全を苦慮しているのか、それともただの防衛本能なのか、うすら笑みは力強い。

 その成果であろうか、わなわなと震える足取りで、ぶつぶつと呟きながら北村は、ひとり廊下へ出ていった。

「船戸巡査がご家族と一緒に木梨川駐在所に住んでおりますが」

 後ろから椿婦長が言い添えた。

「ではそこへ電話か何か……」疲れ切った声で北村はきいた。

「無線機が使えるんですけど、留守番の奥さんが応答してくれるはずです。ですがおそらく巡査さんはいつも出かけたきりで、なかなか戻ってこないのが普通なんです」

 椿婦長がタオルで手をぬぐいながら立っていた。

「では、直接行ったほうがいいですかね。巡査に説明して、県警本部に連絡をとってもらうんだ。県警のヘリなら半刻もあれば着く」

「それは頼もしい限りだが……」いつのまにか千堂も廊下に出てきた。疲れた表情をなお潰して言う。「お忘れか。小名瀬町にヘリポートなんかありやせんよ。それにこの大雨と余震と土砂崩れだ。殺人事件として立証されたわでもないし、事件そのものの緊急性はまだ憶測の域を出ていない。そんなものに即応して県警本部が危険を犯してまでヘリを飛ばすとは思えん。ここはまず災害救助法の自衛隊派遣要請を行うべきなんだ。そして到着した隊員に、わたしたちは真っ先に、不審な遺体についての報告義務を行うんだよ。受けた彼らが、事件捜査の必要性を認めれば、県警側になんらかの形で連絡するだろう。それが適切な対処だと思うんだがな。むろん、船戸巡査には、この件を早急に伝えるべきだが」

「でも、先生自身も、あの二人は有力な容疑者だとお思いでしょう? 放っておけば、この後にも重犯の可能性は高い。いいですか、藤岡は、たんにコンプライアンスを堅守するだけの公務員の域を超えて、被災者さんのために必死になって働いていただけなんですよ。それが、なんで、なんであんな人非人もどきの奴らに殺されなきゃならないんですか! 理不尽すぎるっ」

 幾分その声は、廊下には不向きな大声だったし、内容だった。

「そ、そうか。あいつらが……?だが、いずれにしても朝になってからだな」千堂は北村とは対照的に静かなものだった。「あと三時間もすれば陽は昇る。気象庁は短波ラジオで、巨大地震と線状降水帯が小名瀬町に集中していることから、歴史的大災害の発生頻度は高いと警戒を呼びかけている。午後に発生した土砂崩れの情報を市長たちは聴いていたはずだ。だのに今だに災害救助隊の出動要請を彼らは出し渋っている。まるで意地でも自衛隊を呼ばないつもりなのかね」

「いやそれはないです、それは。わたしが草薙町長から被害報告を受けた時点で、すぐに危機管理防災室へ、その旨を連絡する手筈になっています」

「町長からの報告? そいつは難儀だな。詳しくは言えんが、彼には持病があるんだ。今この時点で、彼は休ませてやらんことにはがないぞ」

「聞くところによると、熱を出してこちらの奥で休んでいるとか」

「ああ、早めに受診してくれたんでな、なんとか事なきを得たが、いつなんどき急変するかわからん。明日は市立病院へ緊急搬送してもらうよう連絡しなきゃならん」

「では、さっそく副議長の筧さんに町長を代行してもらえば」  

「そうだな。その意見に異存はないな。ないが、その筧さんも町内を巡回するとか言って役場からいなくなったと、ほんのついさっき、土木担当の花園さんがトラックに乗って報告してくれたんだ。てっきり副議長さんは町長の実家へ、意見伺いで出向いていると思ったんだろう」

「トラックなら悪路も平気です。いや、車でなくても自転車でも充分機動力になります」とそこで北村は脳内で鳴り響く鐘の音を聞く。「あっ、そうだ。役場の駐車場には、あいつらの軽トラがあったんだ」

「奴ら?」

「ええ、あの二人組は軽トラで役場に駆けつけてきたんです。今もそこに駐車していれば、奴らが何者か、車内を調べれば、何か手掛かりがつかめるはずですよ」

 めずらしく千堂は興味深そうに北村の言葉に耳を傾けた。

「車だったら家内の車を使ってくれ。役場までだったら道は使えるはずだ」

「ではすぐにでも。使わせてもらいます」

「本宮さん、事務室からキーを──」  

 言い終わらぬうちに北村は動きだしていた。

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