第19話

                十九

               

 あ、こいつはまずい──。藤岡は立ち止まった。

 余震にしては結構な揺れだった。

 飽きるほど体験してきた余震だが、深夜で一人きり、それも土砂降りの中ともなると、ただ立ちすくんで事態を見守るしかなかった。それでも藤岡はヘッドライトの光量をあげた。近場の地理的情報を把握するためだ。憶えたての近郊マップでは、最寄りに河川による危険箇所はないはずだ。二キロメートルほど右手後方に千堂医院が位置し、そこから真っ直ぐ北へ伸びるアスファルト道は県道へとつづくはずだ。さっき渡った十字路がそれだと思われるが、そこから民家はとたんに減少している。やはり、ここから先の街灯は、道角に設置された自動販売機ともども死んでいる。

 千堂医院を起点として、北村の行きそうな箇所を頭の中で検索したが、スマートフォンも繋がらないとなるとお手上げだ。長谷川からもらった地図を思い出し、合羽のポケットから取り出してみたが、広げることすらできない有様だ。

 ヘッドライトをマックスで四方八方へと照射してみたが、北村の足取りとなりそうな物はなさそうだ。前方は広大な池が広がっているばかりで、その真ん中をアスファルト道が貫くという形になっているが、どうやらそれは池ではなく、泥水をかぶった水田なのだった。ヘッドライトの光帯が照らし出したものは、折れて倒れた緑色の穂先なのである。

 ──もうこうなったら、まずは千堂医院へ立ち寄って、北村さんがいれば合流し、不在だったらその足で役場へ向かおう。とにかく朝になれば天候も回復する筈だ。町長や筧さんとも連絡をつけて、本部に報告を入れれば、きっと事態は好転するはずなんだ。

 とそのときだった。この道のはるか前方で、つまり市道か畦道を、フラッシュライトの光帯が瞬くこともなく、水平に横切っていったのだ。藤岡はその光の正体を自動車かバイクだと認識し、北村の手掛かりにもなると判断した。

 いつ復旧するかわからないスマートフォンだが、いざというときのためポケットに戻し、見つめるものはただ、横切っていった明かりの行方であった。どこからどこへ、誰が何の目的で向かっているのか。ことによると、すでに県警か陸自の先遣隊が峠を越えて、救助にやってきたのかしれない。そしてあの明かりの先には北村課長も合流しているのかもしれない。

 ──そうだ。案外そんなものだ。自分のいないところで重要なことは動いているんだ。

 急ぎ足とはいっても、今の藤岡にはそれが精一杯だった。気力だけでここまで来れただけでも、驚くべきことだった。合羽のサイズが合わないために、裾は地面でこすれてボロボロに裂け、右袖は北村に引き裂かれて半袖になり、足は何箇所も水ぶくれが酷いことになっているが、あとで全部スマホに撮って、すべて危機管理防災室の資料にするんだと、実にしっかりしたものだった。

 すべては心の思し召しのままに。思い出したように鼻歌を口ずさみ、どこかお人好しな笑みさえ見せて、藤岡は、ときおり消えかかって見える白い明かりを執拗に追いかけだした。

 

 一時は回復したかに思えた体力だったが、みるみる衰えていくのが、弱々しい鼻歌でわかる。それでも藤岡は前進をあきらめたわけではない。ないが、数歩進んだところで、今度はひたりと足は動かなくなった。

 両目をこすりこすり、降りしきる雨水を手に受けて目を洗う。あきらかに彼の視界に異変があったのだ。これも疲労が原因なのか? いや、ついさっきまで、彼の視力は、ピタリと射抜くように、標的でもある町明かりを捉えていた。一度たりとも見失ったり、見落としたりしていなかった。

 最初は霞目のように光の輪郭線がぼやけた。なんだこれは。よっく見ようと彼は目を凝らす。すると光は二つに分かれ、それぞれが別方向へと移動していくのだ。

 超自然的な気配がした。あるいは幻覚か? これだけ悪条件がそろっているのだから、見間違えだの錯覚だの幻影だの、挙げたらキリはない。だからこそ、藤岡は持ち前の忍耐力と注意力で、それらを観察しつづけた。すると分離した光は、各々が新たな形へと変化していくのがわかった 

 藤岡は視界を邪魔していたフードをずり上げ、ヘルメットの顎紐を緩めた。歪んでいた視界が正常になったようだ。

 危うげな形の白いものが漂っているのが見てとれた。

 雨と風をまともに顔面で受けとめ、そして目を凝らす。

 その距離では、自分が携行しているヘッドライトは意味がない。なにより変異していく光体は、およそ物質のようには見えないのだ。ふわふわとした霞か雲のように正体がないと藤岡は感じた。それが虹色に輝き、扁平につぶれ、視界に広がっては拡散し、再び形成されていく。藤岡は胸中で驚嘆をあげながら、雲母の切片が、夜闇を滑空するようだとつぶやいた。

 ──闇夜に浮かぶ怪しい光……か。

 これは〝暗鬼〟なのではと藤岡は思い至る。暗鬼とは疑心暗鬼のあれである。本来は「草木皆兵そうもくかいへい」と言い、草や木がみな兵士に見えてくるという故事だ。疑心暗鬼ともども、恐れや疑いが幻覚を生成するという故事である。藤岡もそれは重々承知の上で、あらためて扁平に輝く映像を凝視したのだった。

 ──鬼でもなんでもいい、だからなんなんだ、あんたは!

 しだいにそれは目を凝らさずとも、文字の形を成していることに藤岡は気づいた。いくつもの光が、複数の文字となって宙空を漂っているのだ。となれば、今度は文字そのものを並べ替えて、意味のある語句が形成されるか否かを突き止めようと試みる。

 ほんの数秒間で、恐怖が脳裏を擦過し、背筋が泡立った。

 サ・ト・シ。サ・ト・シ。

 藤岡の名前であった。幻影は彼の名前を闇夜を背景に描き出しているのだ。

 サ・ト・シ。サ・ト・シ。

 この状態をどう理解したらよいのか、むろん藤岡には解明するだけの知識も経験もない。現代科学では空間にカタカナの文字なぞたやすく描ける。様々な光学的機器を利用すれば可能ではある。だが、この距離で、カタカナの文字を連続的に発生させ、かつまた観察者の彼に、名前であることを思いつかせるとなると無理が過ぎるだろう。

 闇の底に潜みながら、遠くの藤岡にむかって、光の文字で語りかけてくる。

 やはりこれは、逆説になるのだろうが、暗鬼の為せる技だと考えたほうが、合理的なのかしもしれない。

 いずれにせよ、この現象をそのままにしてはおけない。ともかく光の発生地点へ向かえば、なんらかの結果は得られるはずだ。

 もうこうなると、北村を追いかけて来た使命なぞ吹き飛んでいた。藤岡は再び合羽のフードを被りなおすと、前進を再開した。

 暗闇に光るカタカナを睨みながら、いったいどれほど経ったのだろうか。藤岡は、さっきから妙な音が風雨の中にしていることに気づいた。それは後方から近づいてくるのは確かだった。行く手には不思議な光。そして背後からは耳障りな音。それらは時間を経て、徐々に強く、しかも鮮明になっていくように彼には感じられた。もしや音と光は関係しているのではないのか。藤岡は止む無く立ち止まり、ふたつの現象の正体を見極めようと身構えた。

 すると二つの光の動きは、小刻みに揺れながら、そして上下していることに気づいた。こちらへ接近してくる気配がうかがえた。二人か、三人か。いずれにしても複数だと結論づける、それ以上は無理だ。ただ、それらが結構な速力で移動していることは想像され、そこから光の正体は、屈強な男たちの像に結びついた。強いて言えば、警察官や自衛隊員、そしてそれ以外に、この小名瀬町で、健脚を自慢できそうな者たちがいるとしたら、それは…。

 藤岡の脳裏に、ある人物たちの顔が次々と浮かんできた。どの顔もたくましく、正義感のみなぎる男たちであった。なかでも初老の長は威風高く、筋金入りの消防団といった面持ちであった。

「長谷川さん……」藤岡がポツリとつぶやいた。そしてつづけて言った。「聡くん?」

 藤岡の記憶は鮮明に蘇る。

 聡くんはあのときの──山体崩壊の土石流に呑まれ、かろうじて二階の屋根だけが見えていた家屋の中にいたはずの児童だ。倒壊した家屋は米山団員の自宅であり、聡くんは、倒壊した自宅の中で、一人、留守番をしていた息子なのであった。

 当然ながら米山は救助活動を団長の長谷に希求する。だが長谷川は、この時点での救助活動は危険すぎるという判断で、その家は見送られたのだ。いや、見捨てられたのだ。

「見捨てないでくれえ!」 

 米山はいきり勃った。この判断には不服だった。むろん救助活動を本務とする消防団の団長が、部下の要請を──理由がなんであれ──断ることは米山と同様に、身を切られる思いだったに違いない。そこで長谷川は敢えて米山に命じた。救援要請を頼みに役場に走れ。ありったけの重機を駆り出せ、と。

 だがその後、役場や千堂医院などで、彼らの救助に関しての情報はかんばしくない。耳にしたのは、ただ絶望的な結果だけであった。 

 ──鬼よ、神よ。こんなに狭い地域だというのに、あなたは、どれほどの人命を奪えば気がすむというのだ。

 いつになく藤岡は怒気をこめて愚痴た。祈りも呪いも込めて、天に唾をした。

 あのときの感情のうねりで今も内臓は硬い。

 と、そのときだった。不意に右肩をド突くように叩かれると、前へ転倒するところを首根っこを鷲掴みにされ、今度は引き倒されたのだ。何が自分の身に起きたのか、藤岡は目がくらむばかり。ただ、両目をお大きく見開き、何か見えるのではないかと眼球が足掻いた。すると驚嘆する耳朶に響く文言があった。

「何を言うか、生き物の分際で!」

 拒むも抗うもない、絶対的な声の存在であり、広がりだった。そのうえ強烈な痺れが、掴まれた首や肩口より全身を轟かせ、意識がかすんでいく。そこを反射的に海老反りすることで、藤岡は、なんとか意識だけは保てた。両手が虚空を掻きむしる。絶え絶えの荒い呼吸が繰り返される。未だ自分の肉体は生きているのだと知る。

 右頬を路面にこすりつけると、ヘッドライトの光帯が、途切れ途切れに濁流の水面を照らすのがわかった。本能的に藤岡の視線も明かりを追いかける。上だ、下だ、下だ、斜め上だ…。さながらてんかん発作の症状に近いが、藤岡にその既往歴はない。背筋に走る激痛が、感電や落雷を閃かせたか。ちょうど神経の束を握りつぶされた反応に似ていた。

「そうさ、そいつが生き物の正体だ。生体電気に生命化学反応だ。おまえが呪う、単純な神様の御技だ。つまるところ痛みだけなんだよ、生命はな。そして神の技もな…」 

 文言は耳朶の後ろからだった。後頭部を回り込んでくる。言葉でもなければ声でもない。感覚器官そのもに投射された文言が、直接、大脳の襞だの溝だの亀裂だの、湧き上がっているのだった。

 後ろにそいつはいる!

 海老反りで固まった藤岡の躯体は、それでも生きていたかった。叶うものならば、そいつを見届けてやりたかった、その文言の主を目に焼きつけたかった。

 ズシャズシャと水しぶきをあげて、そいつは藤岡の願いを汲み取ったか、ぐるりと体を入れ替えた。

 すると思いなしか、饐えた臭いがした。おぼえのある災禍の臭いだった。あのときの、あのときの、あってはならない大惨事のときの。

「どどのつまりはこれしかねえのさ、生き物ってやつはよ。違うか?」

 その文言が大脳に刻まれるや否や、金属じみた激痛が、藤岡の神経網を貫き、両眼より火花が噴き出した。この世ならぬ現象だが、その後の様相なぞは、もう嘘のようであった。海老反りのままの格好で立ち上がると、藤岡の躯体は、降りしきる豪雨を飛び散らせながら、反復運動を繰りかえすのだ。ガックン、ガックンと。

 首が頭部の重みで、跳ねる、跳ね返される。よくぞそのまま頚椎は持ちこたえたものだ。藤岡の眼窩に嵌っている両眼に黒目はすでにない。失神しながらも、海老反りになったまま、藤岡の躯体は、目に見えぬ何者かによってぶんまわされているのである。

 そしてつぎの瞬間、あたりは真昼間に反転し、一刹那、青黒い影が生じた。間近に落雷が直撃したようだ。耳を劈く激音が大地を轟かせ、イオンの焼け焦げた臭いも漂った。確かに何者かが、今、ここに存在している。稲光が怒号を発する一刹那、冠水したアスファルト道の路面を確かめるように、まさしく人型をした、泥の塊が伸び上がっていたのだ。それら泥塊は、殴りつけて降る豪雨も、押し寄せてくる泥水も、ものともせず、藤岡の骸をいいように弄んでいた。

「ううぐぇ」

 ビックンッと一度だけ、藤岡の躯体が痙攣を見せた。

「喰われるまえに去ね、走れ」

 それは生前の長谷川の声だと藤岡は思った。長谷川が自分に向かって怒鳴っているのだと思った。不合理で非論理的な解釈だろうとしても、痙攣そのものが、何かの合図だと藤岡は感じる。その証拠に、さきまで肩口を掴んで離さなかったものが、たった今、彼を解き放ったのであった。

 すると、悲しい悲鳴をあげて、彼の意識が息を吹き返した。

 目蓋が痙攣しながら、今、ゆっくりとたくし上がろうとするが、大量の雨水を受けて速やかに持ち上がらない。それでも藤岡は生きていた。涙を流しながら生きていた。

 とたんに何やら正体の判らないものを嘔吐した。いくらでも吐き続けられそうだった。

 青白い電光が、泥水に満ちた水田をギザギサに奔った。

 確かに泥の塊たちは消え失せていったようだ。だが、今度は背筋に戦慄が過った。

 無意識に藤岡は中腰になって振り向いた。

 目蓋をぎゅいっと絞り、水田のはるか後方を見据える。次の稲妻が空電したとき、それを見逃してはならない。この気配は、あの市立体育館で数十もの魂が葬られたときの、嘆きと悲しみと怒気の悲憤を思わせる。胃袋が縮こまっていのは、本能がヤバイことを嗅ぎ取った証拠だ。

 雷鳴が数度。小さな雲放電もあったが、地面を昼間に変えるほどの明るさはない。だが、つぎの落雷は大きかった。豆粒ほどの大きさの人影が、二つ、くっきりと際立って見えた。瞬きする間もなく、人影は闇に呑まれたが、かわって懐中電灯の明かりが灯った。

 明かりはしばらくその場に留まっていたが、まるで藤岡が見えるように、こちらめがけて動きだした。

 感覚が、ざわついた。

「こんなところで、あの二人って……ありかよ!」

 吐くようにつぶやく藤岡は、慌ててヘッドランプを消した。できれば自分の存在も、明かりとともに消したかった。

「やっぱ、あいつらなんだ、なんで今まで気づかなかったんだ! ええっちくしょう」

 震え声で藤岡はつぶやいた。と同時に、長靴の底で路面を蹴りつけた。走りだそうとした。しかし、すぐに立ち止まった。泥水をかぶったアスファルト道路を踏み外せば、周囲はすべてが深いぬかるみの地だ。危険すぎる。それに水田ばかりが広がるこのへんに、逃げ隠れのできるような場所があったろうか。

 ヘッドランプを消せば、もう頼れるものは雷光だけとなる。その雷雲も過ぎ去ろうとしている。藤岡は、雨足が緩んだ際に、彼らの二つのライトの行方を確かめた。やはり自分と同じ、水田の中を通るこのアスファルトの道を歩いてるようだ。

 二つのライトは水しぶきをあげる跫音とともに、確実に距離を縮めていた。だが、藤岡の位置を捕捉しているようには思えない。もしかしたら、彼らは、こちらに気づいていないのかもしれない。そう気休めで考えた。

 焦りに焦って、藤岡は早足になる。そのうち小走りになって、しまいには必死になって奔っていた。ただ逃げ惑うだけの野うさぎのようだった。

 だしぬけに道路がYの字型に別れた。右手の道路は冠水しているとはいえ舗装道路で、片や左手の道は、ぬかるんだ農道だ。はたしてどっちに進めば生きのびることができるのか。

 えづくように、肩で荒い息をこらえ、藤岡は立ちすくんだ。

 ──いや、休んでなんていられない。動け! 動くんだ!

 藤岡は、舗装道路の方へ行きかけたが、ふと踏みとどまり、ぬかるんだ農道の行方に目を凝らした。街明かりを反射して、灰色に光る雨雲の下に黒々と横たわるのは、森林ではなく杉の山林だろう。こんな自然災害に見舞われた夜に、のこのこと人が歩き回ることはまずない。この農道はそこにつづいてる。自分があいつらだったら、間違ってもこっちを選ぶことはしないはず。仮に奴らがここまで来たとしても、冠水した農道に、足跡を見つけることはできない。

 さっきまでの低気圧の吹き戻しでざわめく山林目指して、藤岡は農道のほうを見つめた。幽かに杉の深い木立が、人を寄せつけぬ気配を剥きだし、もの恐ろし気な雰囲気だった。

 転じて右手前方には、弱々しいが街明かりが見える。瞬く光帯は自動車のライトだろう。人の気配も感じられる。実際、藤岡は、そこを目指して歩いてきたのだ。

 だが、藤岡はここで思案した。安直な予想などあてにはならない。何処に何が潜んでいるのかわからないのだ。安全だと思われる町とは裏腹に、雨と風と暗闇のほうが、自分にとって隠れ蓑になってくれるのではないか。うまくいけば、今度こそ船戸巡査のもとへ駆けこみ、告れる──あいつらこそ連続殺人犯人だ、捕まえてくれ! と。

 そうと決まれば、藤岡は危険とはわかっていても、勘だけを頼りに、ぐちゃぐちゃの悪路を突き進むことにした。杉の大木の陰にでも身を潜めて、あいつらのライトが遠ざかるのを監視していればいいのだ。

 ──しっかし、あいつらの魂胆って一体なんだ?

 そう心中でつぶやく藤岡は、鼻を摘まれてもわからぬ漆黒の闇の底、叩きつける突風を腕で避けつつ、足の下のぬかるみに注意をはらった。数メートルも進まぬうちに、ぬかるみは一段と深くなっていくばかりで、この先は、長靴でも歩行困難になるのが予想された。

 ──下手に重機を用いて植林したばっかりに、辺りは泥沼化してしまったんだ。山林は捨てて、ここは天然の森林へ行くか。自然の環境下では水捌けも悪くないはずだし。

 唐突に藤岡は針路を変更することにした。自分で思いついたのだろうが、まったく根拠なぞなかった。

 なにやら取り憑かれたように、藤岡の足は水しぶきをあげた。

 ──もうすぐだぞ。右手には山裾が迫っているはずだ。手つかずの杉の巨木が林立し、樹木のからみつく根塊は、階層構造や林床など、水を貯めるための涵養機能などを有し、地表をほどよく強固にしている。下草が生い茂っていれば、森林は申し分ないはずだ……。

 だが、ヘッドランプを消しているとはいえ、右も左も真の闇だ。藤岡が脳裏に描いたような森林の深い音の重なりは聞こえてこない。

 ──どこだ。どこに森はあるんだ。

 藤岡の右の手のひらが森林を求め、虚空に向かって翳された。やはり、樹々の気配はなかった。かわりに手の甲を雨粒が叩いた。藤岡は向きなおり、はるか後方にいるであろう彼らの位置を確かめようとした。だが、目路の限りに彼らのライトはない。遥か彼方に大気がぼうっと見えるが、あれは先ほど雷雲と街明かりだ。

 ──奴らは、消えた? なんだ、なんだよ。まったく。いつも自分はこうなんだ。腰抜けでもやれることはあるだろうに。 

 焦れたのか、藤岡は舌打ちすると、その勢いでヘッドランプのスイッチに触れた。

 その手が、ぐいっと何者かにつかまれて動かなくなった。

 ──これは! 

 反射的に手を引こうとしたが、一刹那、全身が氷柱のように感じた。腕そのものの反応がないのだ。手が動かないのではなく、腕そのものが失せてしまったようなのだ。とっさに左手を伸ばすと、

「気安く触るんじゃねえよ」

 重機で挟まれたような激痛が右手首から脳まで突き抜け、炸裂した。

 ──不破か!

 ぐうっと肺を絞って唸る藤岡は、前屈みになって痛みから逃れようとしたが、いや増すばかりで叶わぬと知った。どんどん前かがみに身体は屈んでいき、ついには片膝が地面に着き、ついで右膝も路面でゴツンときた。右手を逆さにねじ上げられた格好であった。

「くっ……止めろ! 手を放せ。自分は藤岡という市の職員だ、怪しい者ではない……」

「──んなものわかってやってんだよ。訊きてえのは、俺とおまえは以前どこかで会ってるよな」

「や、役場と病院で……っ」

「ちげええよ、藤岡さん。違ったかな。いや、そうだったよな。もっとずっとずっとまえだ、俺たちが会っているのはよ」

「ぐうっ」

 一言しゃべるごとに、不破は藤岡の腕を引き上げていった。

「……」

 このままでは、まちがいなく右腕は脱臼する。いや、不破の驚異的な腕力では引きちぎられてもおかしくはないだろう。生まれてこのかたない激痛が、藤岡の意識を朦朧とさせていく。もう精神が憤死しそうだ。

「おっと、逃げんなよな。こっちにはまだ聞きたいことがあんだぜ」

 不破はそう言うと、枯木の枝をへし折るように、実に軽々と藤岡の右腕を真上にひねり上げた。ギャンッ! と人の声とは思えぬ絶叫をあげ、藤岡は、またもや海老反りとなって身震いし、合羽の中に失禁した。揚げられた深海魚じみて目玉が飛び出し、白い泡が口角から溢れだす。首筋から立ちのぼる蒸気は発汗の証しなのだろうが、呼吸は止まって顔面は死人のように真っ青だ。

 さっきの長谷川の死霊は、この死の責め苦を教えてくれたのか。藤岡は闇の底に長谷川たちを探した。まだそこにいて、自分を見つめているように感じた。

「だぁれも来ゃしねえよ。思い出せねえならよ、目ン玉の一つでも潰せば思い出すのかい? 俺が、あのとき、あそこにいたことをおまえは知ってんじゃねえのかい。なあ、思い出してみろよ、もっとらくにしてやってもいいんだぜぇ」

「……なんのことだ……」

 死にぞこないの老犬といったしゃがれ声で藤岡は言った。今の藤岡には、記憶もなにもあったものではなかった。大脳は現実から逃避して、記憶は引出しごとミンチにされかかっていた。不破の魂胆なぞ、もうどうでもよくなっているのだ。

「忘れたか。俺たちを忘れているのならそれでいい。本心でそう思うならな……」

 苦痛から逃れるためか、藤岡は半自動的に首を横に振る。

「忘れた? そうかい。だったら気兼ねなくやれるってもんだ」

 その一瞬後、雨音でもなければ、杉の枝を斬り込む風の音でもない、何かが砕ける鈍い音が走った。

 ぐっ──ごりっ。

 そして長々と息の漏れ出るような、切なげな音がつづいて聞こえた。それは聴きようによっては、啜り泣きにも似ていただろうか……。

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