第18話
十八
現実の玄関は、妄想で作り出した状況とはまったく違い、山崩れで発生した泥水と、豪雨で行き場をなくした雨水が共謀し、体育館を完膚なきまで瓦解させようとしていた。コンクリート製の支柱が一本、もう抗うことをやめ「く」の字になっている。乗っかっていた石膏ボードの天井が支えを失い、傾斜した壁のように出口を塞いでいた。かろうじて出口の引戸は開放状態のままだ。泥水を潜るように床に這いつくばれば、流れに逆らいながらも脱出はできる。
もう余計な事は考えまい。というより、考える余地がない。
流れてきた木製の下駄箱を押しやり、腰まで泥水に浸かると北村は、まるで犬かきのように両腕を回旋させて脱出を開始した。
泥水がこれほど臭いとは思っていなかった。ねっとりとすっぱい臭いと腐敗臭。そこへ肥溜めをぶちまけたような得体のしれない悪臭だ。これが鼻だの口だの、いや目も耳も、穴という穴にはいってくると思うだけで吐き気がする。空咳した拍子に濁水を呑んでしまい、こんどは盛大に胃液を吐くが、そのとき、このままでは、あの二人は本当に死ぬぞと仏心らしきものが目醒め、一瞬、北村はあの準備室を振り向いた。
そのときだった。
神を罵りたくなるタイミングで、今度は余震が体育館を揺るがしたのだ。
発狂したように、たらふく汚水を呑みながらも、北村は四つん這いになって玄関ホールからもとの講堂へ辿りついた。さきほどより濁流は増水している。否応無しに、すぐ右隣の準備室に目をやるが、扉は開けたままだ。しかしあの光芒は気配すらない。南明たちはどうしたのだ。北村は鼻から汚水と鼻水を垂らしながら、壁伝いに覗き込む。思い出したように、間仕切りが視界の邪魔をした。憂さ晴らしに蹴飛ばしてやると、やはりそこは蛻けの殻だった。彼らは逃げたのか。それとも幻視を見ていたのか。いや違う。あの酸っぱい悪臭は部屋中に止まっている。二人がまぐわった証しだ。
この状況から推し量れば、南明たちの跡を追えば、無事に脱出できるということだ。北村は無我夢中になって、準備室の中をライトで改めて調べることにした。だが、もう蓄電池は事切れそうで弱々しい。準備室の奥の目視は無理だろう。あとは手探りで確かめるしかない。
ぬるぬるとすべる足場をこらえつつ、手のひらで壁を探っていくと、あっけなくドアの把手が指にぶつかってきた。反射的に回せば、あっけらかんと鍵はかかっていない。もしやこれは罠か! と
その間も、ガタッガタッと床が波打っている。それは余震によるものなのか、山崩れによる体育館の悶絶なのか。天井が発するうめき声はひび割れ、崩落していく壁材や、支柱、窓ガラスたちの断末魔が、あちらこちらで響きわたる。
ドアを押し開けると、飛砂のように雨が顔面を乱打した。豪雨は弱まるどころか、いっそう激しくなるようだ。線状降水帯が発生したのだ。それも停滞している。しかし幸いなことに、北村を迎えたのは崩壊した斜面地ではなく駐車場方面だった。とはいえ全面が泥水で覆われ、自動車は一台も停車していない。泥水に浸かった鳥かごのように、資材置場の横に何台か、自転車が放置されているのが見えた。何台あるのか泥水のせいでわからないが、少ない数ではない。学生の使いそうな型だ。どれか拝借して千堂医院へ引き返そう。そう計算する北村の耳に、またもや人声が谺した。反射的に胴震いがでた。きっとあらぬ恐怖のせいで、自分で叫んでおきながら、勝手に怖がっているのだ、と北村は解釈した。そのくせ、つぶれるほど力をこめて自分の口と耳を交互に塞ぐが、当然ながら、どちらも効果はない。
人声が止まらない。人声は訴えている。か細く弱々しい、哀れで、悲痛な
──本当に、これは俺の声なんか!
支離滅裂になった思考力を堰き止めようと、北村は手のひらを噛んだ。骨の感触が伝わってくるほど強く噛みしめた。それでも、やはり人声は唸りをともない鳴り止まない。
歯型から血の滲むその手で、とっさに北村は自分の頬を思いっきりビンタした。二度、三度。それも効果なしとわかると、とうとう平手打ちから拳骨で下顎を横殴りだ。
合羽のフードから、雨水が派手に飛び散った。
その衝撃が脳天を突き抜ける。人声が囁くように言った。
「そうやって発狂しておけばいいさ、義人さんよ。でもわたしから逃げられんよね」
それは間違いなく、自分が喋る、自分の声であった。
つぶやきながら、驚きながら、罵倒しながら……それでも北村の行動は、放置してある自転車にまたがり千堂医院へ向かって漕ぐのであった。
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