第17話

              十七

             

 ──なんだ。どうして俺は、この闇の底を、戸惑うことなく歩けんだ?

 北村はさっきから自問しつづけていた。千堂医院を飛び出てから、何かに取り憑かれたように、停電地区を西へと指針を定め、まっしぐらに突き進んでいるのだ。むろん彼の目指すものは南明と不破だ。しかし、彼には手がかりなぞはない。あったとしても、地理的な方向を定める手段がない。はじめての町を目隠したまま、目的地に向かって歩いているようなものだ。が、不思議なことに、道がいくら分岐しようとも、北村は立ち止まることもなく、猛然と突き進むことができたのである。

 右だ! 左だ! 直進だ! すべて疑うこともなく、足は反射的に決断する。それは自分でも驚くほど外連味のない足取りだ。久しぶりに実家に帰ってきた長男といったところか。ならばこの次の角はどっちだ? ライトで周囲を照らしながら、自らに問うと、足はゆるぎなく左へつま先を向けた。

「おいっ、おまえ知ってるんか。くっくくくくく」

 ついで三叉路を前にしても、同様に戸惑うことはない。自分で呆れ返るほどの足取りであった。北村の頬が痴れ者の笑みで歪んだ。──今度は右折──次は直進。たとえ人一人がようやっとの道幅でも、そのうえ側溝が邪魔しても、かなり傾斜してる隘路でも、ライトを先に向けると、激しく葉を揺さぶっている雑草が、こっちだこっちと、根こそぎ流れて、しるべとなっていくのが北村には見えた。

 ぶっちょ、ばっちょ、ばばっ……

 羽目板を跳ね飛ばしたドブからは、チョコレート色した濁流が盛大に噴き上げていた。隘路あいろの先は冠水して、かなり危険な状況なのがわかる。長靴を踏み外すか滑らせでもしたら、まちがいなく泥水の中へ落ちるだろう。

 その光景に刺激されたのか、北村は強烈な尿意に襲われた。こんな場所で小便はないだろうと自分に愚痴りながらも、すでに合羽をずりさげ、ズボンのチャックに手をかけたとき、「アッ」と声を漏らした。

 ──臭いだ。なんだ臭いじゃねえか。どしゃ降りの雨ん中で、さっきから、なんだなんだと思っていたが、なんだこれじゃねえか、これだ。俺はこいつに吸いよせられているんだよ、この異臭にな!

 雨合羽のフードを叩く雨足は、いちだんと凶暴になった。こんな状況では、犬類でも特定の臭気を嗅ぎ取ることは困難だろう。まして五感もくたびれかけた年齢の北村では、奇跡の範疇に入る。

 ──臭いってか? 俺はもともとアレルギー性鼻炎だったはずだぜ。ありえねえな。

 と苦笑いを浮かべながらも、騒々しい雨音に負けじと靴音を響かせて北村は進んだ。そう、北村の足取りは、まるで愛おしい雌に逢いたくて血走っている雄犬のようだった。

 禍々しくも噴き上がる濁流は、ぶっちょ、ばばっちょ、どびっちょ、と規則正しくリズムを打って水量を変化させている。時折、水草か雑草の枝葉が入り混じっているが、それはそれで単調ではある。だが、北村の尿意には、それがたまらなかった。

 どしゃぶりのなか、噴き出す濁流を照らしているLEDの光の輪に向かって、北村は派手に放尿を開始した。

 ふいに背筋に悪寒が駆け抜けた。あっといって、北村はまだ終わっていない逸物をチャックの奥にしまいこんだ。むろん、バンツの中で放尿はつづいてる。

 ──なんであのとき俺は、早苗を殴ったりしたんだろう。

 小便のことなぞそっちのけで、やるせない痛みが胸奥にこみあげていた。ひりつく痛みの記憶だ。早苗の頭蓋骨が鳴り響いているのが伝わってくる。こんなに人の骨というものは硬いのか、脆いのか、と。

 そのときの衝撃や痛みが、雷光のように枝分かれしながら、大脳の奥へ奥へと貫いた。

 ──なんで、なんで、俺は……。

 記憶は何度もなんども繰り返され、そのたびに頭骨が軋るように痛みが走った。北村の両手が、自らの頭部を異物のように挟みこむと、潰れよとばかり潰しにかかった。精神的な激痛と、病的な痛覚が共鳴しているのか、あるいは、痛みと記憶の元凶でもある頭部が潰れてしまえば、すべて解放されるとでも思ったのか、ぎりっぎりっと彼は自分でつぶやいていた。

 ただし、その双眸に脈搏つ燐光だけは生々しい。角膜は赤々と濡れ光り、鬼畜夜行の雰囲気なのである。

 ぎりっぎりっとつぶやくことで、激痛が緩和されていくのが不思議だった。ぎりっぎりっと声に出すたびに、意識の表層に亀裂が走り、新たな違和感が広がってくるのが、逆に甘露に感じるのだ。

 ぎりっぎりっ。ぎりっぎりっ。

 つぶやきがなら北村は前進を再開していった。ぎりっぎりっ。 

「ぎりっぎりっ。そこにいるんだな……」

 唐突に北村の大脳が、まともな言葉を吐いた。

 防犯用サーチライトが照らし出す胸壁を、北村は優しく愛撫していた。

 それは灰色の扁平な建造物だった。周囲に民家はなく、広い敷地に建てられた公共施設の佇まいだ。地盤ごと横滑りで傾斜したため、近くの電柱から引き込んだ電線が何本も千切れて垂れている。屋根も支柱も壁も、全体が腐った段ボール箱のように、脆くもへしゃげているのだった。周囲に漂う饐えたあの悪臭は、徐々に濃さと強さを増していった。

 いつ頃からなのか、北村の感覚は、市役所でうろついていた閑役人のものではなかった。嗅覚は言うに及ばず、五感のすべてが、それこそ地滑り状態で変異していたのだった。腐葉土をこねくりまわしたような臭いも、以前の北村では、「くっせー」の一言がいいところだが、この男は違った。今まで見てきた、倒壊した家屋の断末魔に身震いし、いや、嬉々として、顔を上気させるまでになったのだ。

 すばやくライトの方向を変えてみると、裏山の下腹あたりが圧倒的な質量で、せせり出してきているのがわかった。

 ──クッソ! このまま、どこもかしこも丸呑みにされっぞ。

 と、どす黒い笑みを見せてつぶやいた。

 裏山の腹には若木や老木が、野火に逃げ惑う野獣のように、我先とばかりに絡み合いながら蠢いていた。今そこに剥き出しで曝けだされているものは、無惨にも巨大な力で抉られた山の臓物だ。精一杯生き延びてきた杉たちが、あっけなくも大地ごとひっくり返され、その驚きのあまり、互いの生皮をこそげとりながら倒れていくのだった。建物のすぐ脇には、三本の倒木が泥まみれの横腹を見せていた。どれもうじゃじゃけた盤根が雨に嬲られ、地表をのたうつように惨たらしい有様だ。人糞のような、饐えた堆肥のような、濃密な臭気が、北村を歓迎するように押し包んだ。

 そのせいでもないだろうが、前進を再開した北村の足どりは、脱魂じみて怪しくふらついた。

 玄関に辿り着いてみると、建造物は想像を超えた規模をしていた。さながら小さな児童館か体育館だと推察されたが、その屋根の高さがここまで低くなっているということは、基礎部は崩壊し、支柱は根こそぎ持っていかれたか、あるいはへし折れたかしたのだろう。推定される収容人数は五十人ばかりか。避難所としても使えそうだが、すぐ間近に山が迫っているため予備的な指定になる。それでも近隣の住人たちにしてみれば、寄合場所としての活用はありえる。

 ──ということは、この奥に避難者がいてもおかしくない。そして、奴らも……。

 北村は、身体の深部からこみ上げてくるものが勝手に微笑をつくるのを感じた。野犬のごとく鼻柱がひくついて止まらない。

 ──確かにこの奥だ。

 どう控えめに見ても、そこは二次災害のお手本そのものの災害現場だった。ここにくる途中で見かけた側溝と繋がっている排水溝からの汚濁水が逆流して、もうすでに氾濫状態だ。一面が泥水で黒々と光っている。下水道の排水溝は見えるはずがない。水の流れをライトで確認しいしい進むしかない。

 それでありながら、北村の足どりは、よろぼいながらも戸惑いはなかった。ようやく屋舎の基礎部にたどり着くと、掲げるライトを頼りに、傾くコンクリートの角柱と角柱とで出来た間隙に身を潜り込ませ、泥水が押し寄せる床上を這いずっていった。

 止めどもなく流れ込む泥水の波間に、サンダルやスリッパ、木製の下駄などが、プカプカと浮き沈みして過ぎ去っていく。ここは体育館の殺風景な玄関ホールだと気づいた瞬間、学生時代の忌まわしい記憶も闇の彼方からぷかぷかと流れてきた。北村は思わず「ケッ」と痰を吐いた。

 ここでヘッドライトの電池が切れれば、どろんとした墨汁の中に、頭から飛び込んだ感じだろう。視界とともに息の根も殺される。そう北村は思ったのも束の間、予知していたかのように、ライトの光量がみるみる弱まっていった。突き刺すような胃の痛み。長い生のげっぷ。そのとき、引き返せと誰かの声が囁くように聞こえた。

 ドキッとして耳を澄ます。すると確かに引き返すべきだと男の声がした。

 それが内なる自己の声だと知ったとき、思わず北村は口を手で塞いだ。

 ずるりずるりと無表情になって、北村の長靴は動きだす。やがて講堂と思われる出入口に到達したが、青い鉄柵の扉に行く手は阻まれた。この奥がそれだと気配でわかる。柵の隙間にライト光を押し込んでも、無駄なことだとすぐにやめた。がらんどうの空間が鉄柵扉の向こうで圧し潰され、台形の闇を形成しているだけだ。ライトの届く範囲にある、ひしゃげたアルミ枠だけとなった窓からは、斜めに墨色の雨が針金のように吹き込んでいた。ふとそこで北村は気づいた。あの臭気は講堂内ではなく、すぐそこの準備室の方からだと。

 まるで体育館の内部を知りつくしているように北村の足は急いた。

 ──講堂入口のすぐ右隣に鉄製の引戸があるはずだった。

 当てずっぽうではなかった。北村は準備室のネームプレートを探り探り当てた。

 とほぼ同時に、異様な驚きで目が丸くなり、全身は戦慄いた。

 またもや声がしたのだ。さっきと同じように。すぐさま北村は手のひらで自分の口を塞いだ。しかし今度の声は、女のものだとわかった。最初は迷い込んだ猫でも啼いたのかと思ったが、すぐに考えを改めろと北村の男の部分が反応した。これは生きた女の声だ。それもサカリのついた女の。

 ──こんな時にこんな場所で……か。

「うっうっふっひ─! うっひゃゅァァァゔゔゔゔ─! うっくっふふふふふふん」

 熱い鼻腔から、忌まわしいほどの淫夢を引っ搔きまわし、女の声は北村の衷でのたうちまわる。

 北村の指先が準備室の把手を探り当て、指を折れよばかり渾身の力を込めた。

 わずかに引戸が動いた。その隙間から純白の光帯が炸裂した。

 闇に慣れていた目が絶叫をあげた。後頭部まで光の矢が突き刺さる。顔は眩しさでひしゃげるが、手で目を覆うとはしなかった。痛みをこらつつ、瞼を極限まで細め、光の奥底を覗き込む。

 ジーンジーンとうなるような光芒だった。暗黒の有機物の塊が、仄青白い光子の霧で透明度を増していき、晴れ渡る原始の宇宙の兆しを見た思いだ。北村の視界が雄叫びをあげる。今度は瞳孔が窒息死しそうになる。

 ──こんなところでこんな光りが、なんで!

 真っ白になった視界を克服すべく、瞳孔が必死に力む。

「はふうっはうぅぅぅう。あああっふふふ……」

 北村の視界が復旧する間もなく、寸暇を惜しむように、女の淫声は、生き生きと、高らかに激しく励んでいた。

 悶え声だけで、北村の逸物はぬるりと熱くなった。小便に濡れて、たまんねえとばかりに、ヒクッヒクッと痒くなった。

 ──この間仕切りのすぐ向こうで女と男がまぐわっていゃがる。こんなときに!

 ようやく視力も恢復し、今なら、ついっと身体をひねって間仕切りを覗きこめば、そこに二つ以上の裸体が絡み合っているのが目撃できるはずだ。しかし、合板の薄板一枚が、わずかに北村の理性を保ち性衝動を抑えこんで冷却させていた。しかし、

 どすっ、ギッ、どすっ、どすっ、ギッギッ、ぶっちょぶっちょ……

 生肉の液汁と、紅い脂肪と、白熱の筋肉が啜り合う音が、リズムを打って響いてきたからたまらない。否応なしに北村の男器官は、ただの尿管を持つ器官からスイッチする。大脳に鬱血していたものが、一気に男器官へと注ぎ込む。痛いほどに男器官が硬くなり、北村は腰を屈めた。

 あの投光器だった。南明が首にぶらさげて使っていた、あの工事現場で見かける投光器だった。

 だとすれば、いや、もう最初から北村は気づいていた。この衝立の向こうでまぐわっている男女たちは、南明と不破だということを。

 覗いてもいないくせに、北村の脳裏では、南明と不破の淫靡な絡み合う肌が強烈なコントラストで濡れていた。勃起中の男性器官は、またもや切なくひくつく。

 あぁっあっ、あぁっあっ、あぁっああっ……。

 北村は立ちつくしている自分たちをどうしたものか、ほぼ思考力は停滞、不能化する。もう少し若ければ、恥だと知りつつもマスタベーションで解消したかもしれないが、さすがに市役所の危機管理防災室職員だ、合羽の中に手を差しこむことだけは抑制できた。かろうじて思考力が息を吹きかえした。

 ──義人よ、おまえはここで何をしたいのだ? 

 ゆっくりと、じつにカタツムリの滑らかさで、北村はあとじさりをしはじめた。逃げよう。ここで奴らに見つかっては、何かと後で面倒になる。素直にまずい、と。

 女のうめき声を食べ尽くすように注意しながら、一歩、二歩と後ずさり、北村は長靴のゴム底をなだめるように踵を返した。一歩めは無事だった。そこでバランスが崩れた。ゴム底が小さく悲鳴をあげたのだ。──キュュュッ。

 全身が凍結した。だが運良く、耳を澄ますまでもなく、二人のまぐわいは続行中だった。

 玄関まで後退してくると、体育館に流れ込む泥水は増しているように見えた。天井の石膏ボードや壁材のベニヤ板が、矢継ぎ早に引き剥がされていく。ここもいつまで保っていられるかわからない状況だ。いまだに耳に沁み込んでくる、南明の喘ぎ声をふっ切るように北村はつぶやいた。

 ──あの狂人たちなぞほうっておかなきゃ、てめえで命を落とすことになんだぞ

 ようやくコンクリート製の角柱が見えてきた。もう外に出たようなものだ。あとはもと来た道をたどればいい。

 ──ええか義人、あんな二人の色事なぞ、おまえは聞いてもいねえし、見てもいねえんだ!

 そうやって幾度も独白を頭中で繰り返す北村だったが、驚くなかれ、実際は、あれから一ミリも動いていなかったのだ。いや、後じさるどころか、大胆にも間仕切りを横にずらし、その濡れ場を間近で見下ろしているのだった。

 肉体と精神が乖離しているのであった。しばしのあいだ北村は、なにがどうなっているのかわからなかった。ただ、自分の思考そのものが、崩壊しはじめているのではないかという不安だけは痛いほどわかった。その精神の祠がいつまで理性を奉っていられのか、北村は砕けるほどつよく歯を噛みしめた。南明たちの生々しい異臭が立ち上ってきたのである。

 なんともえげつない悪臭だった。そのくせ著しい中毒性だ。吐き気をこらえた分、もっと嗅ぎたくなり、そしてまた強い嘔吐感に全身が震えだす。その繰り返しで、精神の祠がぐらついてきたのだ。

 眼球は、彼らの肉塊のすみずみまで味わおうとして飛び跳ねた。なにせ白く輝く彼らの裸体は光暈をおこし、何人分もの肉叢に溶け合っているように見えるのだ。実際に、腕も脚も何本絡んでいることか! 北村の目は驚異に乱舞しだした。乳房を揉みしだく五指や、巨大な太股と丸い尻が入れ代わり立ち替わりで視界を翻弄し、強烈な破壊的ピストン運動が、リズムよく乳房や太腿に尻肉など、肉という肉を踊らせているのだった。

 北村は我知らず、肉塊のなかに、南明の顔、とりわけ鼻や唇、耳や目を探していた。だが、投光器に嬲られた肉塊に輪郭線なぞありはしない。ただし子猫ほどの黒い影だけは違っていた。肉塊を背景に、斜めに、真横に、上下にと一匹の野獣のように動き回っているのが気配で感受できた。

 それが南明の頭髪だとわかったのは、肉塊の右上隅あたりでひたりと止まったときだった。溶けかかったガラス細工のように黒い影が、ばさっと手前に頽れてきた。その裏返った髪の裏側に見えたものは、南明の顔皮なのだった。貼りついていたのだ。あの部分が南明の頭部だとすれば、そこにのしかかって、死ぬまでピストンしていそうな肉体の盛り上がる部分は、不破の臀部なのだろうか。情け容赦なく不破の肉塊は、南明の肉塊の芯部をつらぬき、そのたびに、湿ったひだからは、ふざけたほどの量の体液が飛び散っているのであった。

 ただ見ているだけで、北村の男性器官からも体液が染み出ていた。

 陶酔しているのか、南明の瞼は、しっかりと閉じられていた。しかしよく見ると、睫毛の形状から、瞼は上下が逆さまになっていることを北村の観察眼は見抜く。ならば頭部は上下左右にひねられていることになる。頸椎は、あらぬ角度でねじれにねじれているはずだ。本能的に、それが事実か錯覚かを見極めようとする北村だが、それを察したのか、ならばとばかりに、の瞼が下から上へ、右から左へとたくしあがった。

 うゔぅ……と北村は口をおさえ、歯をくいしばった。

 目蓋の向こうには干からびた灰色の眼球が、虚ろに濡れていた。

 驚きのあまり、骨盤のどこかで、ピシリッと痛みが一閃した。

 しかし、北村の大脳は、激痛を受け入れるよりも、次の展開に震恐した。なんと空洞の眼窩に収まっていた灰色の眼球が、ころりと床にこぼれた落ちたのだ。眼球は、視神経と血管と筋肉繊維を引きずりながら、ぬらぬらと床で蠢いているのだ。いや、息づいているのであった。ついであるはずのない目蓋が上下する。

 これはこれで立派な一つの生命体だ。と脳裏に思った瞬間、呼応するように腐乱眼球は跳ね上がった。灰色だった眼球が、矢のように襲ってきたのである。

 我知らず、保身本能のなせる技か、北村は飛んでくる眼球を叩き落としていた。

 眼球が床面でベシャリと潰れた。灰色の汚物が四散した。そこへ目蓋に付着していた睫毛が、それは昆虫の多足類の一種なのだろう床を這い出した。潰れた眼球を好餌とばかりにかぶりつき、たちまち呑んでしまったのだ。

 ふたたび眼球を得た南明の頭部は、ぐにゃりと輪郭線を失い、再び肉塊へと沈んでいった。すると突如として融合した単体複数裸体の一部が、垂直方向に、二メートルほども伸びあがったのだ。

 また襲ってくるのかと身構える北村の眼前で、それは女の一部へと変化していった。南明の頭部だと推断した。すると頭部の後ろから青白い手が二本、ぬるりと出現し、血みどろの顔皮を剥ぐように、南明の頬のあたりをつまみ上げた。引っぱられたところが、唇の形状となっていき、それはどんどん伸びていく。苦痛で歪められた唇だと北村の大脳は思う。唇が、伸びに伸びて、とうとうそれが上下に裂け、喘ぐように声が生まれ出でた。

「殺して、殺して、殺して……たすけて……たすけて……」

 北村にはそう聞こえた。見ると不破のでかい尻がつきあげて、南明の裸体も揺さぶられる。だが、南明の瞳孔の位置は、そのままずれることはなかった。どんなに激しく、どんな角度で突かれようとも、南明の視線は、北村の双眸と繋がれたままであった。

 そして南明の肩のあたりが盛り上がり、そこから新たな腕が、ぬっぽりと出現した。先端には細い細い掌が膨らんでいく。ゆるゆると伸びだす脆い指だ。ひび割れた桃色の爪をした人差し指と中指。痛ましい親指と小指。それらがポキポキと不破のささくれた手によって折られていくのだ。  

 ──ああ、こ、これって、ただの強姦! 犯罪なんか!

 ハンマーで脳天を砕かれたように、北村の肝から肛門までがひくついた。

 女の逆さまの瞼から涙がぽろりと流れる。

 ──泣いておるんか! 泣いて助けを求めておるんか! 今おれは強姦の現場におるんか! 

 男性器官に一点集中で注がれていた血液が居場所を狂い、おろおろと全身の静脈と動脈の間をワープしまくる。なんだ! なんだ! と思考が飛び跳ね、正面衝突をくりかえす。

 まさにそのときだ、女は北村の底意を見抜いたか、にんまりと笑みを浮かべたのだ。

「さあ、そこのあんた。次はあんたがやってみるかね。この身体に、あんたの子種を無理やりねじこんでみるかい」

 複雑骨折で、ひねつく指が極限で怪しく動く。こちらを凝視する女の顔が、南明のそれとは重ならなかった。眼前でのたうつ女の顔は、もはや南明の顔でもなく、あの扁平した巨大な顔へと変貌していたのだった。気づくと全裸で不破に犯されている女は、間違いなく妻の早苗であり、犯しまくっているのは自分の男根なのであった。

「サナエ……」

 北村はつぶやくと、意識を半分削り落し、濁流の中へ身を投じた。

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