第16話

               十六

 

 二人が廊下の待合所に戻り、指定席じみた椅子に尻を落すと、デジタル時計は未だ一時五十分だった。余震が激減してからは、相対的に時間の波がベッタリしているように感じた。彼らは死ぬほど眠いというのに、待合室のソファに腰かけたまま話をはじめた。霊安室の遺体の服装について、気がかりで仕方がなかったのだ。

 だからといっても、彼らが実際に目にしたものはほとんどない。百歩譲って、南明が着ていた服が黄色系のコーデュロイだったとしても、霊安室で衣服を交換したことにはならない。ポンチョにしてもコーデュロイにしても、特別な衣服ではないし、二人は背格好も標準なのだ。やはりもう一度霊安室にもどって本宮看護婦にわけを話し、ボンチョの下を確認してもらおうか。いや、それだったら医院長に説明して、不破と南明についての意見をもらうべきだ。

 そんなことを繰り返しているうちに二時の時報がちいさく響いた。

「ここで待っていると医院長たちは眠っちまうかもな。いっそ今から私宅へ乗り込むか」

 北村は深いため息を吐いて立った。

「救出された遭難者は、ことごとく災害死ということになるんですからね。それも不破が助けた人たちばかりが」

 藤岡もゆるゆると立ち上がった。

「こんな時分に、わたしたちが押しかけていって、千堂さん、医師としての医療過誤についての遡求だと勘違いしなければいいんですがね」

「原因を訊いているんじゃない。死因が知りたいだけだ。まさか、ばあさんのほうも出血性ショック死なんかじゃあるまい?」

「実は、そのショック死なんですよ」

 ギョッとして二人は振り返った。玄関ホールから差し込む蛍光灯が、廊下の床に反射して眩しかった。切りとった黒い色紙のような人型が千堂医院長を想起させた。幾分小さくなったように見えるが、それはきっと千堂のほうも同じように、こちらが見えているのだろう。自分の存在感が何かに削ぎ落とされている感がする。轆轤ろくろでどんどん細くなっていき、ついにはただの木屑に成り果てる、人型の〝こけし〟のように……。 

 近よってくる千堂医院長から、ボディシャンプーの香りが発散されてきた。対照的に北村たちの体臭は粘っこい。エアコンが停められているのかもしれない。

「お休みのところすいません」

「いや、まだ仮眠をとる順番でなくてな」

「順番?」

 藤岡が軽く会釈して訊く。

「スタッフで決めたんです。この尋常ならざる事態では、医療機関は二十四時間体制に移行すべきですから、スタッフが公平に休憩を執られるよう順番を決めたというわけです」

「では今は?」

「上沼君が遺体の処置を終えたら二時間休憩することになっている」

「あの若い方ですね」

「ああ、本来、彼は検査技師で働いてもらっているんだが、雑用もこなしてくれてね、感謝していますよ。それで……さっきは何か、死因がどうのとか話していたようですが」

 もうこれ以上待っていられないとばかり、千堂医院長は途中から早口になっていた。この短期間の間に、三名の尊い生命を院内で失ったことにたいして、部外者で、そのうえ素人が死因に疑問を持つこと自体が面白くないのだろう。

「ええ。あのう、さきほどですね」北村はどう説明したらよいか言い迷っているうちに、勝手に言葉が出てきて、もう止めようがない。「無断で申し訳ないんですが、そこの霊安室に入って──」  

「──ご遺族の方には見えませんが?」

 千堂の目つきが厳しくなった。

 しくじったとばかり北村は顔を顰めた。だが、もうこうなったら最後まで言うしかない。

「ですから、無断で入ったことは重ねてお詫びします。ですが、当然それには理由があって……」

「お聞きしますよ、その理由とやらを」

「いや、そのですね。いまその霊安室に安置されてるご婦人は、確か我々が担ぎ込んだ被災者さんですよね」

「そのとおり。半田キクさんとおっしゃいます。うちの患者さんです。もう十年以上も診ていましたよ」

「その半田さんの死因をお聞かせ願いませんか」

「はあ? 肝心の理由はどこにいったのかね。理由によっては、正式な死亡診断書をお見せしないこともないが……遺族の方に無断で見せるのは気が引けるな」

 千堂は無意識に首を掻きはじめた。疲労のせいか感情という地金が透けて見える。

「実は、半田さんを助け、ここに運び込んだ男性を憶えていますか? その男性はさっきもお爺さんを救出した人です」

「むろん憶えている。背の高いガッシリした体躯の持ち主だったな。彼がどうしたというんだね」

 そこに藤岡が切り出す。「その男性と一緒に行動していた女性はどうです、憶えていますか?」

「男の方ほどしっかり憶えていないが、一緒に居たことは憶えているな」

「その男女二人が、ついさっき、霊安室から出てきたんです」挑むように北村は千堂を見つめた。「確実ではないんですが、我々がそこの長椅子で半睡状態でいたとき、二人が通りかかったんです。そのとき、二人の雰囲気が別人のように変わっていたんですよ」

 千堂は苦笑いをこぼし、肩をすくめた。

「おいおい、院内のどこかで着替えただけだろう、それは。もっとも、そこが霊安室だったら不謹慎だがな」

 そこで北村は、ゆっくりと、大きくうなずいた。

「まちがいなく霊安室です。なぜなら、南明が着ていた服は今、もうお人のご遺体の崎山さんが着てると思われるんです。崎山さんも先生が治療なさったんですよね、そのときの服装は憶えていませんか。黄色いコーデュロイだったと看護の本宮さんが教えくれましたが、今は灰色のポンチョ一枚なんです」その後を藤岡が続けた。「──そして崎山の黄色いコーデュロイはあの女が着ているんです」

「……」

 千堂の頭脳が、あちこちとスパークを飛ばし、際限もなく推測は飛び跳ねていた。北村の言う「死因はなにか?」がターゲットなのだろうが、そこまではなかなか到達できない。そもそも、この市役所の職員は何を考えているのか、医師の合理的思考力では捉えられないジレンマだけが残ったのだった。

「まだわからんな。それで、どうして服どろぼうと死因とが結びつくんだね」

 あきれかえった様子で千堂が言うと、北村は真逆に身を乗り出して言った。

「あの二人は服を取り替えただけで若返ったんですよ!」

 もうここで千堂は、明らかに二人の言動に対して不信感を抱きつつあった。軽く片手で制止の形を見せ、

「その言葉は聞かなかったことにしておきますよ。市役所の職員さんが真顔で言うもんじゃない。まっ、このへんにしておきましょうや。ただ疲れて理性が潰れているだけです、お二人とも。まだ余震も豪雨もつづくだろうから、まずは交代して休むことを医師として進言、いや、警告しておきますよ。では、わたしは仕事がまだありますので……」

 憮然たる余韻を残し、さっさと廊下を立ち去っていった。

 あのときの異様なまでの驚きが、とどのつまり〝服どろぼう〟と〝過労〟とで片付けられるとは、彼らは想像もしていなかった。

 北村はチッと舌を鳴らし、腕時計にそれとはなしに目を落とした。藤岡は憑物が落ちたように肩を落とした。時間を確かめたのは、千堂の進言が引き金になっているのだろうか。だが、再びチッと舌を鳴らし、霊安室の方に視線を飛ばす。そこへ上司の横顔を引ひきもどすように藤岡が言った。

「理論的に考えれば千堂氏の言うことが全てなんでしょうかね」

 北村は振り返らずに答えた。「いや、あの二人には何かある。おまえもそう本能的に感じただろう? だからこんな恥をかくはめになったんだ」

「では……北村課長、私たちの今後の行動計画は?」

 そこで北村は廊下に視線を落とし、さながらそこに答えが書いてあるがごとく言う。

「そうだな、さしずめ君は休むといいよ。二時間、いや、三時間たったら起す」

「──って、あの……」

 困惑している藤岡の肩を押すようにして、すぐさま北村は玄関に向かって歩きだした。

「二人で共倒れってことだけは避けなければならんよな。小此木室長や市長に、二人がどれほど市民のために身を粉にして働いてきたのかを伝えなきゃならん」 

 その言い方に、藤岡は薄ら寒いものを感じた。何か予兆めいた含みを感じるが、どういうつもりで言ったのか、深意が見えてこないのだ。だからといって引き止めるべき理由も思い浮かばず、またその気力もない藤岡だった。

 

 上司の指示どおり、藤岡は待合室の廊下に並べられた長椅子に、その身を横たえた。あれこれと五感は鈍磨して使い物にならないことだけは確かだった。とくに眠気が嘘のように消えて、神経だけが張りつめている。食欲も、咽喉の渇きも、どうしてこうも本能は無口なのだろうか。こんなに酷い扱いだのに……。 

 両手を胸の上に組んで瞼を閉じ、強制的に睡気を喚起するが、もうそれだけで目は醒めてくる。そのうち嫌になって、藤岡はむっくりと起き上がって椅子に腰掛けた。

 ちょうど真正面の壁に掛け時計があり、藤岡は固まったような分針を睨んでいた。

「あんときと一緒だな」

 午前一時五十分……。

 あのときも、時刻は粘っこく、いつまでたっても進まない。疲れているのに眠れない。このまま寝そびれたら、後が酷いことになる。あのときを思い出して、再び長椅子に横になると、ゆらゆらりと世界が眩暈めまいした。大した余震ではなかったが、気づくと藤岡は立ち上がっていた。と同時に咽喉がからからになった。いや、そういう想い出が大脳の中で組み上がったのだ。ただそれだけだ。ただし、それは、それは、それは……。

 絡んだ黒糸をたどるようにして、過去をほどいていくと……。

 ふた昔前の──あの市民体育館が現れてきた。県側の防災避難指定された体育館だった。地震発生後、市の本部から避難指示が出ると、藤岡の訓練通りに町民の誘導にあたった。経路確認に右往左往したが、避難困難地区を迂回するよう町民を誘導し終えた。それが正しかったのか、いまとなっては不可抗力だと口を揃えて関係者は言うが、はたしてそうだったのか。だれも体育館の二階が、建築基準法に抵触しているとは口にせず、安心の毛布にくるまって眠っていた。

 そして深夜、一階の玄関や窓は言う及ばず、くろぐろとした海水が彼らを襲った。

 あれは、死霊たちの唾液だ。命を呑み干そうと何処にでも押し寄せてくる、おぞましくも純粋な自然現象だ。

 みな逃げろ! ここは避難所なんかじゃない。ただの屠殺所だぞ!

 自主防災本部に避難の終了報告に向かっていた藤岡が、体育館に帰ってくると、すでに市道そのものが津波に呑まれ、屋根だけが海面に浮かんでいるように見えるだけだった。

 彼らは津波に襲われる以前に、倒壊してきた二階部分に襲われたのだ。むき出しの鉄骨に押しつぶされて、だがまだ彼らは生きていた。救出を待ち望んでいた。

「あの二人は──」  

 藤岡の本能が低くつぶやいた。

 自分のトラウマが創り出した映像だが、自分が理解できていない状態だった。ただ本能だけが、必死に警告を発しているのだった。これは尋常ぢゃない! 生きていたけりゃ目醒めるんだ、と。

 地響きを引き連れて、どす黒い濁流が、真紅の臓腑を吹き出して襲ってきた。臓腑はずたずたに切り裂かれ、血しぶきを盛大に巻き上げた。渦巻く鮮血が荒縄のように束ねられ、体育館の通路の薄壁をドスドスドスドスと叩きつける。むろん、石膏ボードなどが耐えるはずがない。

 あっけなく、被災者たちのうずくまる避難所が、絶叫と轟音と、わけのわからぬ罵声が飛びかった。 

 藤岡は二階部分の連絡通路から救出を試みると、すでに怪我人を抱えて運んでいる者達がいた。感謝の気持ちで目が潤んだ。懐中電灯を向けると、予想外の者達だった。土塊を思わせる茶褐色の肌の猿臂えんびが印象的だった。二人は崩れた天井の梁や吊木などの瓦礫と、洪水で押し流されてきた漂流物の合間から、まるでマグロでも掬い上げるようにして被災者たちを助けていた。一見すると、漁労長の老爺と老婆の夫婦にも見えるが、だが違う。目つきが違った。あまりにも違いすぎていた。獲物を漁る狩人の目なのであった。

 土塊の狩人たちは、被災者たちの中から上がる、罵声の出どころを見つけようと飛び跳ねる。彼らは、口々に、静かにしないと、死霊の体液の濁流が襲ってくるぞと怒鳴っている。いや、彼ら老夫婦ではない。それはさっきから金切り声で叫んでいる、藤岡自身の声なのだった。

 

「北村さんがあぶない!」

 藤岡は咽喉を引きしぼって声を吐き出した。

 

「ヤバイヤバイヤバイ……!」


 藤岡は夢遊病者のように、半覚醒のまま、廊下を歩きはじめた。

 すっかり目覚めたとき、もう玄関に彼は立っていた。

 わなわなと震える手つきで合羽を着る。長靴を履く。向かうはあのときと同じ、闇だらけの空間だ。空間は、やはり篠突く雨にふさがれて、見ているだけで窒息してしまいそうだった。近所から避難している家族たちが、藤岡の気配で身じろいだ。だが起きるわけでもなければ、声をかけるでもない。藤岡が玄関から出ていくまで、ジーッと監察医のように見ているだけだった。

 道外れに向かって、ライトを最大限にしたが、光帯はすぐに闇に呑まれた。フラッシュライトが壊れたのかと手のひらに照射したが、真っ白い手形がまぶしい。それではと再び闇にむけたが、やはりライトは無力だった。まるで黒い壁に頭から突っ込むようにして、藤岡は走り出す。しかし、ものの数分も走ったところで、あきらめた。どうせ彼には似合わないのだから。

 

 なんとか一区画も進んだところで、意外と街灯が生きていて、町の様子が掌握できることにほっとした。余震の回数が減った間に電力会社が機動力を発揮したのかと感心したが、まだ停電の区域は左手前方に大きく広がっている。そこで藤岡は気づいた。自分は無意識のうちに、漆黒の区域を避けて歩いてきたのだ、と。

 藤岡の足取りは、勢いを増すこそすれ衰えることはなかった。切迫感がキリキリと神経を突き回すようだった。踏んばるたびに長靴の中で足が滑る。雨合羽のどこから浸水してくるのか、乾いたはずの背中も脇腹もぐっちょりと濡れていた。

 とうに藤岡の体力はリミットを越えていた。どこでもいいからしゃがんで休憩をとりたかった。四つ角の向こうに、懐中電灯の明りが道を渡ろうとしているのも気づかず、そのまま交差点を渡ろうかしていた。

 あわや衝突するかと思いきや、自転車の急ブレーキ音が響き渡った。すると懐中電灯の人物は、ひらりと身をひるがえして、素早く藤岡の顔面を照らし出した。ぐうっと一言、藤岡はフリーズした。

「危ないですよ。こんばんはっ」

 懐中電灯の人物は、雨音に負けじと、しっかりした声だった。藤岡はとっさに声すら出ない始末だ。

「いかがされました。お一人なんですか?」畳み込むように人物は質問してきた。「無駄な外出は控えてください。わたしが避難所に誘導しますから」 

 ようやく藤岡の持つライトが、その人物に向けられた。雨水に打たれている警察官だった。防水カヴァーを着けた制帽が、てらてらとライトを受けて、いまの藤岡にとっては光背のように見えた。

 早口になって、自身の身分と姓名、そして上司の北村の行方を探していることを告げた。

 警察官は「こんな夜遅く、ご苦労様です」と敬礼し、右手に握っていた黄色い用紙を合羽のポケットに突っこみ、換わりに警察手帳を取り出した。

「市役所から災害現場の調査ですね。でしたら、あの北区の地滑りでやられた家屋は、まだ手付かずのままです。町長が会社の重機を投入するから、警察でも現地を確認して欲しいと無線で言ってきたんですがね、まだ動き出している様子はないようです」

 北区の地滑り……。耳にしたとたん、藤岡の脳裏には、第十五分団の長谷川たちの名前が浮かんだ。まだあれから半日と経ったわけでもないのに、映像はすっかりと色褪せて、似たような映像にすり替わっていた。災害現場の夥しい数の光景ばかりだが、不思議と被災者たちの顔は、意図的にぼかされていた。

「自分は、あそこに、僕はいたんです」

 藤岡の声は雨音に消された。

「えー、よく聞こえませんが、大変なお仕事です。くれぐれも事故のないよう気をつけてください。本官は今、巡回中なんで、後ほどその……。えぇっと行方不明の方の、もう一度その探している方のお名前を教えてもらえませんか。この雨と闇の中では、何もできませんが、朝になれば変わりますよ」

 その一声で、藤岡は自分がどうして闇を恐れていたのかわかった。闇が恐ろしいのではなく、恐ろしいと感じる自分の記憶が闇に近いと知った。

 藤岡の早口は機関銃のごとく、北村や南明、そして不破に関する個人情報を告げた。警察官は必死になって、合羽の下で油性ペンを走らせた。だが、ふとペンを止め、小首を傾げてまずい顔をした。

「本来ならば自分も捜索すべきところだと思うのですが、ご存知のように道路は封鎖されて県警からの応援もままなりません。市長や町長からも今夜の巡回は徹底してくれとの指示をもらっています。まったく言いづらいのですが、何かあったらですね、自分は木梨川にかかっている霧風橋の正面にある駐在所に勤務してますので……ああっと申し遅れました、自分は船戸巡査長といいます。ですので、そちらに連絡してくれると助かるのですが」

「派出所へですか。そういえば、役場の付近に交番は見かけなかったんですが」

「ああ、お気づきでしたか。そうなんです。今ある役場は十五年ぐらいかな、木梨川が氾濫した際に、もとあった場所、霧風橋の南側です、そこから移転して建てられたもんでしてね」

「では千堂医院なんかも? 新しい感じでしたが」

「同時期に建てられましたよ。あそこは、半ば小名瀬町の公立病院みたいなとこもありますからね」

「ああ、それで、携帯は使えるんですか、今……」

「いゃ、すいません……それがまだのようですよ。こっちの無線もあまり調子よくないですが、でも、藤岡さんは市から災害無線機を渡されているのでは?」

「ええ。でもそれは上司の北村が持っていって、手元にはないんです。もう一台は事故か偶然か、あるいは意図的な工作なのか、紛失してしまってないんです」

 そのとき船戸巡査の目つきが鋭くなった。

「意図的な工作……とは?」

「いや、そのぅ、ただそう思うだけで、証拠とか裏付けなどは一切なくて」

「それでもそんな表現を警察官に向かってあえて遣いたくなるとは、それこそ何かひっかかるものがおありなんですね」

「え、でもそれ自体があやふやなんで……。こんなときだから、冷静な判断が出来ないでいるんだと思います、自分は」

「逆にそれだけ自己認識を客観的に診られる」

「さあ……」そこで藤岡は意を決したように船戸の目を瞠目どうもくした。「あの、実はですね、僕は……」

 そこへ船田の合羽の中から電子音が響いた。

「すいません、無線が入ったようです。きっと本部からか家族かと……」

 無造作に船戸は合羽の中に手を突っ込むと無線機を取り出し応答した。

 言ったとおり通話相手は派出所に住む妻からだった。夫人が話すには、近所に住む中学生の男子数人が、未だに帰宅していないと、保護者たちが相談に来たということだった。

 中学生らは、町内に設営されたNPO主催の体操クラブに所属しており、練習時間外でも交友関係があった者たちだ。しかし練習日の今日は地震発生のため休止となった──にもかかわらず、彼らは集まることにした。だが雨が強く降り出した夕刻になっても、彼らは帰宅しなかった。

 それぞれの保護者たちは、自分の子は、きっとどこかの友達の家に上がり込んでいるのだと決めつけていた。それが、さすがに深夜ともなると、もうこれはただ事ではない。いつもならばスマホ一本で済む用件だが、有線ですら繋がらない異常事態時だ、保護者たちはひた走った。

 友達の家の前では、それぞれの家人たちが傘をさして出迎えてくれたが、いずれも鎮痛な面持ちだった。いまだに、消息は不明のままだった。

 藤岡は、消息不明と聞いただけで心が痛かった。たんなる誤報であればいいが、と願いつつ、この状況下で巡査ひとりがこなせる仕事量の限界を思い知らされた。

 ──こんなとき何をしたらいいんだ。。

「では……僕はここで失礼します。土地勘はありませんが、もう少し探してみます」

 どこか歯切れの悪い挨拶を残し、藤岡はそのまま歩きだした。

 さすがに警察官らしく、船戸はその後ろ姿を心配そうに見送った。藤岡の定まらぬ足取りで、探索場所の手掛かりはないのだと推測できる。見つかればよいが……とこちらも願うが、巡査もまだ県からの応援が来るまで気が抜けない。無線機を大事そうに仕舞うと、ふたたび停電区域の巡回を再開するのだった。

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