第15話

               十五

                 

 手術室から、千堂医院長の怒声に近い指示が、廊下で睨み合う北村たちにもよく聞こえてきた。白衣の青年が、そのたび事に廊下に飛び出てくると、そのまま検査室へ走り込む。青年は検査技師らしいが、ときおり玄関の方を人待ち顔で見つめていた。誰を待ち望んでいるのか、答えは数分もせぬうちに判明した。壁掛け時計が零時を回ったころ、一台の原付バイクが玄関前先に止まるや否や、機敏な動きで女が駆けこんできたのだ。雨で濡れたヘルメットを下駄箱に押し込むその背中に、検査技師の青年〝カンちゃん〟こと上沼聖一が声をかけた。

「本宮さん、大丈夫でしたか?」

その声に振り返る女は、ぽっちゃりした頬を上気させて、ひとつうなずいた。

「うちの方の裏山、このまえ重機を入れたでしょう。だから丈夫みたい。家族はみんな公民館に集めたから、もう安心よ。カンちゃんのとこは?」

「地震は揺り返しが恐いというし、僕はこのままここにいるつもり。それに家族たちは東京だし。テレビ観てるし」

「でも携帯もだめでしょう?」

「山の中継器が電話線もろともやられたらしいよ。災害無線で話しているのを聞いたんだ」

「巡査さんの無線も本部に応援要請したとか言ってたわ。でも地方の、それもまた僻地だと災害報道は控えめになるし、遅れるし、テキトウだし……。で、先生は?」

「あ、もう先生は麻酔処置をさっき終えて、今からオペに入るところです」

「奥さん一人なんでしょ?」

「安東さんも深澤さんも、今は無理だと、さっき院長のとこに連絡がありました。でも、本宮さんが来てくれたんだから、精神的にも助かるはずです」

「え? 精神的だけかいっ」本宮はタオルハンカチでおでこを無造作に拭い、「でも県道が塞がって、完全に陸の孤島になったのよね。北の斜面が崩れて何軒かが土砂に呑まれて死者が出たとか。市からの応援は当分のあいだ望めないとか、なんかみんなの話しを聞いていると希望が持てなくなるわね」

「そんな気弱なこと言わないでください。だからこそ千堂医院が町民たちの砦にならなきゃならないんです」

「と・り・で……ってまた随分なこと言うわね」

「こうなったら戦ですよ」青年はここで目を伏せて、汚れの目立つ廊下を見つめた。「俺たちだって自然の一部なら、この地震と雨と土石流には負けられんです」

「一部か。そ、そうかもね……」

 自分でもこれは「残念」なリアクションだと本宮は思うが、だったらどんなリアクションがいいのよ! と切り返したくなる。それは上沼もわかっているようで、努めていつもと同じ感覚を心がけていた。その後、二人は患者の容態など情報交換しながら、明るく冷静に、処置室へと入っていった。

 平時の千堂医院は、他にも男性と女性の看護師がそれぞれ二名、そして医療事務員と薬剤師が各一名、あと院内清掃と入院患者の身の回りの世話をする交代ヘルバーさんが一名、それぞれ名峰市の介護施設から派遣されていた。規模こそ小さいが、専従の検査技師も雇用しているだけあって医療機器も充実しているが、如何いかにせんこの大規模災害の歯牙に戦力はかなり削がれてしまっていた。

 手術室の赤いランプが、ねばい瞼の裏でぼやけていくようだ。北村は長椅子に崩れるように座ってから、時間感覚が麻痺しているのに気がついた。

「藤岡、今日って何日だったけ?」

「そりゃもう……」隣に並んでいた藤岡が即答しようとしたが、ふと言い淀み、結局スマートホンの電源を入れた。「十七日です、七月の」

「一日が過ぎたんだな。まだ携帯はエリア外だろう」

「ええ。こんなことってあるんですかね。僻村のまた山奥ってわけじゃあるまいし」

「移動基地局車がエリア内にたどり着ければ、すぐに復旧するはずだ。俺自身はそう簡単に復旧出来ないがな」

「わたしも過負荷状態ですよ。もうこのへんで用済みってわけにはいきませんかね。心身ともぐだぐだ状態です」

「まったくだ。さっき少しばかり休んだが、藤岡は眠れたのか?」

「えっ、いや、ほんの少しだけ。まどろんだ、というか、意識がぼやけた程度です。あっ、そのときですがね、夢を見たんですよ。疲れていたせいもあるんでしょうけど、妙な夢でした」

「非現実的な体験ばかりしているからな。こんなときに見る夢なんか狂気の沙汰だろうさ」

「ええ。でも存外と狂気の沙汰というより、なんか既視感に近い夢でした」

「俺たちが土石流に呑まれたとか?」

「いや……」そこで藤岡は何を思ったのか、玄関と廊下の奥を交互に見やる。警戒色まるだしだ。誰に聞かれるとまずいのだろうか。北村は深意を察して、藤岡の方へ上半身を傾けると耳をそばだてた。「あの二人のことか……」と囁く。

「ええ。それが……」

 そのとき、廊下の奥からドアの開閉音が響き、藤岡は思わず言葉を吞み込んだ。

 噂をすればなんとやら、そこへ現れたのが、なるほど不破と南明だ。北村は声をかけようと顔を上げたが、ハッとして反射的にうつむいた。藤岡も電撃をくらったように愕然として、後は廊下と睨めっこだ。ふたりともふざけているはずもないが、両肩がガチガチに強ばっていった。予防接種の順番を待つ猫や犬のように、カタカタカタ……と歯の根が合わぬのだ。決まり悪くなって、面を伏せたまま、ふたりは拍動も秒針も遅くなったように感じた。彼らが近づいてくるひとときの間、ただひたすら、おまえは何を見たんだ! 何を見たんだ! と心の中で自分に向かって叫んでいた。    

 もう顔をあげる勇気さえ萎えて力がない。

 すると、見ることができないのなら、人にはまだ聴力がある!とばかりに、全身を耳に託した。

 それがいけなかった。不破と南明らが近寄るごとに、得体の知れない「響」を拾ってしまったのだ。人の大脳は奇異なるものを感じ取ると、すぐさま安心感を得ようと分析を試みる。だが、もともと奇異というものは、当人にとって未経験の領域である。むろん蓄積データーなぞないに等しい。そこで大脳はやってしまうのだ。「ありえない、辻褄の合わない、不条理な……」等の、とっつきのいい表現を選択し勝ちになる。ともかく、その場しのぎに助けを求めざるを得ないのだから仕方がない。それがたとえ後に、もっとおぞましい現象を招きよせようとも、だ。

 どうやったらこんな異様な跫音をだせるんだ。北村たちの聴覚が拾った「響」は、たしかに不破たちの跫音を連想させた。だが実際は、えも言われぬ響きでしかない。正体なぞわからない。そのため響音は、よりいっそうありえない大脳の脚色へと累進していくのだ。

 まず北村たちの座っている長椅子も脚から振動しはじめた。不破たちが近寄ってくるにつれて、不吉きわまりない、あの臭気をも記憶野から膨張させてくる。臭気そのものの質量は重力にも影響を及ぼし、とうとう廊下の板壁をひしゃげさせ、たわませ、それにつれて天井の合板も囁くように身をよじるのだ。

    ──!!!──

 もう北村と藤岡たち大脳は、声帯を使うことなく、無言の絶叫をあげる。

 とっさに北村たちは寝たふりを決め込んだ。というより、その手段しか選べなかった。不破たちが、北村らの震慄に気づかぬはずがなく、異様な気配をまき散らす跫音は、北村の真ん前でピタリと止まったのだ。

「……」

 呼吸さえ逃げ場を失ったようだった。

 重量感のある気配が、うなだれる北村たちの首筋に重くのしかかってきた。

 いまさらここで、いま目醒めたように、彼らと目線を合わせるのも不自然だし、不可能だ。ここは寝たふりを押し通すしかあるまい。北村の眉間が恐怖と自己嫌悪とで盛り上がった。そのまま数秒が永劫に引き伸びていく感じだった。

 ──な、なんだこいつら! もう数分以上も動いていねえぞっ。

 今度は、得体の知れない理不尽な怒りが、北村の衷奥にくすぶりはじめていた。曲がりなりにも、自分は防災危機管理室避難誘導課課長を拝命されてから四年、如才なく勤めてきたつもりだ。今日も家族を見捨てるようにして家を後にしてからというもの、常軌を逸した数々の兇変にも難なく対処してきた。それが今、得体の知れないボランティアたち二人に、どうして威圧的な態度で見下されなければならんのだ! それも、まるで悪ガキを叱りつける体育の先公みたいに。

 何なんだ、こいつらは! てめえらは!

 もう耐えられんとばかり、北村は挑発的に顔を上げた。睨めつけてやろうと目を剥いた。

だが、そこに並んでいる筈の、あの牛蒡ごぼうじみた肌をした不破の面と、円空仏を象ったような南明の面が、違っていた。毒でも盛られたか、その顔を一瞥するなり、北村の大脳が発したのは、警告アラートではなく「404エラー」だった。

「その顔は……」

 か細い片言で言いながら、北村が指さした不破たちの顔は──。

 次の言葉が生成されるまえに、不破たちの姿は、黒い魚影となって廊下を泳いでいった。

 ああっ──と中途半端に驚いて、藤岡が二人を追おうとして立上がったが、時すでに遅し、あの臭気だけがカーテンのように怪しく揺らめいているだけだった。

「見たでしょう? 見ましたよね」

 北村を見下ろして藤岡も目玉を剥いていた。真っ赤に充血した目玉は、無数の赤いイトミミズが強膜を這い回っているようだ。

 虚空に視線を漂わせ、だが確実に、北村はうなずいた。

「なんだ、あいつらどうしたってんだ」

「目の錯覚なんかじゃないですよね。確かですよね。間違いないですよね」

 藤岡の声が裏返る。

「笑ってましたよね、そして若返っていた。じゃなけりゃ別人だった」北村の声もうわずっていた。

「不破に眉毛がありましたっけ。それと南明には耳たぶが……ほら、左の耳たぶですよ」藤岡の目が何故かピカピカと輝く。

「ちらりとしか見てなかったが、やっぱり南明には片耳がなかったよな。なんか喰い千切られたようにいびつになっていたもんな。それが……」

 藤岡がインド象のように大きく、なんどもうなずいた。

「いやいやいや、いやいやいや、そればかりじゃない、いやややや、細かい点なんかどうでもいいですよ、彼らは何もかもが若返ったんです」

「追っかけて確かめるか」

「ええっ、もう、当然! こんなことがあっていいんですかね──」  

 藤岡がまたもや小学童なみにはしゃいでいるが、北村も負けず劣らず身体が軽い。

 廊下を走るな! と貼紙があるくせに、不破たちを追いかけて、北村たちは玄関へと突っ走った。

 しかし、彼らは何処へ消えたものやら。玄関に来てみると、軒先は篠突く雨が壁となって立ちふさがり、とても後を追いかけるような状況ではなかった。傘置きの横に放り投げた、あの濡れて悪臭のする雨合羽を着込むことを思うと、うんざりを越えて吐気すらしてくる。

 ずるずると腰砕けになりそうな疲れがぶり返してくると、二人はどんっと気落ちした。たちまち疲労感が倍返しで襲ってくる。年甲斐もなく、何をはしゃいでいたのか、今ではもう思いだすこともできない。

 手術室に引きかえす足取りは、泥人形じみて引きずりがちだ。そのうち北村は、入院室に空きベッドでもあれば使わせてもらえないかと思いつく。せめて簡易ベッドでもいい。とにかく朝まで横になりたい。だがそこで思考は転じた。そもそも不破と南明は、どのドアから出てきたのだろうか、と。

 二人は同時に立ち止まった。そうなると以心伝心というやつか。

「そうですよ。廊下の奥の方です、きっと」

 藤岡も気づいたようだ。

「突き当たりの部屋。なんの部屋?」

 もともと院内を案内してくれたわけではない。案外つまらぬ部屋かもしれないが、何やら二人は急ぎ足になっていた。

 角を折れて手術室の前に差し掛かったとき、凶兆を孕んだタイミングで〝手術室中〟の赤いライトが消えた。その不吉さに二人の足も止まった。あのときの大量出血を考えれば、こんな短時間で無事に手術が終わるはずがない。

 一瞬間、確かに北村たちは息を殺していた。ドアを突き抜けるようにして、千堂医院長が眼前に現れたのだ。手術は困難を極めたのだろう、千堂は胸から腹にかけて、真っ赤に濡れていた。むろん両手もくまなく生き血で汚れている。凝然とする北村たちもそうだが、千堂も目を丸くして驚きの表情だ。

「す、すまん。医者のくせに、この様はないな」

 自虐的に顔を顰めて見せた。

「手術は……?」

 北村が手術室の中を覗きながら訊く。すると、看護師長の椿が、やはり血を浴びたような姿で廊下に現れた。

「残念でした。この状況下で患者を救える医師なぞ、この世にはいません」

 あれほど溌剌としていた椿だったが、わずか半時間で、疲労の色が見違えるほど深刻になっていた。千堂が振り返って椿の肩を軽く叩き、

「手術としては完璧だったんだ。輸血用血液がちゃんと用意できていれば問題なく成功していたはずなんだ」

「死因はやはり出血性ショック死ということですか」

 藤岡が思わせぶりに訊いた。不破のイメージが付きまとっていた。

 千堂が深い溜息を吐く。

「最前から非常無線で輸血を送ってくれと県の血液センターに頼んでいるんだがね。ヘリの準備が遅れているのもそうだが、何より輸血用血液の在庫が少なすぎるんだ。だから、こんな災害時にはまったく手に入らない。患者より悲鳴をあげてる医療機関が続出し、必然的に徒労に帰する手術ばかりになる。無駄がどっかにあるんだ。まず無駄を削ぎ落としいかんと──」

 そこに椿が割って入るかたちで言った。  

「──すいませんが、お話はひとたび打ち切って、私たち、着替えさせてもらえますか」

「あっ、すいません。血を見ていて、私たちも動転していたようです」

 苦笑いなのか照れ笑いなのか、得体の知れない笑みで顔を崩し、北村はへこへこと頭を下げた。

 血みどろの千堂夫妻が、落胆ぶりを隠す事もせず、手術室の真向かいのドアに入って行った。関係者立入禁止のプレートが揺れた。北村が動きだす。廊下の奥の部屋がなんであるのか、彼は薄々気づいていた。病院で最も忌避するものは〝死〟だ。施設に地下があれば降ろし、別棟があれば移送する。もしなければ、それは一番奥まった空間に安置するだろう。この廊下のどん詰まりにある部屋は、霊安室に違いない。

 ドアの把手を握りながら、北村は藤岡の目を覗きこんだ──誰の遺体があるんだ。

 油圧の負荷が異常に重いドアを押しやると、彼らを迎えてくれたのは、やはりお線香の香気だった。

 たいした広い空間でもないのに〝死〟が存在していることで、空間は異質の気配に覆われる。

 仄暗い壁に押しつけられるようにして、三体の遺体が安置されていた。衣服は、今後の検死解剖のせいか、死装束ではなく薄汚れた普段着のままだった。二体はいずれも崩壊した家屋の中から救出された老爺と老婦だと、その形状から推察された。だが、壁際に置かれた遺体は不明だった。

 一応、合掌してから顔にかけられた白布をめくると、下から初老の女性が顔をあらわした。やはり北村たちの知らぬ遺体だった。ここに辿り着いた当初、千堂医院長は心筋梗塞の患者の治療をしていたと婦長から聞いている。もしや、そのときの患者がこの方かもしれない。非常事態ということもあって、こうして時期が来るまでの間、遺体は安置しているのだ。そしてあのとき不破たちも玄関にいた。患者がその後どうなったのか、何かが気になって、それを確かめようと、ここに彼らが侵入したとも考えられる。

 ではその目的はなんだったのか。彼らがここに居た時間ははっきりしないが、自分たちが廊下でぐったりしていた数分間は居たはずだ。数分あれば犯罪の一つ二つ、彼らならばわけなく出来るだろう。ここは医院なのだし、金目のものならあるはずだ。

 いずれにせよ、自分には関係ないことだ。つまらんとばかり、北村は仏様に手を合わせて部屋を出ようとした。同じように藤岡も故人を拝む。と、藤岡の目が瞬いた。

「き、北村さん……これっ、この服っ、見覚えありませんか」

 上ずって、そのうえ震え声だった。

「し、知らんよ。俺は死人に知り合いはいない筈だ……いまの所は」

 しかし、その声は藤岡の耳に届かなかった。藤岡がシーツを上半分だけめくってみると、遺体は灰色のポンチョみたようなものを纏っていたのだ。あの南明が着ていた灰色の雨合羽に見えなくもない。フードの汚れや痛み具合、そして遺体の背格好も、さして違いはない。白い布から、わずかにはみ出している頭髪も、あの南明の乾き切った縮れ毛を彷彿とさせのだった。

「さっ、行くぞ、藤岡。そんなもの量販店でいくらでも売ってるぢゃないか」

 そっけなく北村は言うと、遺体に背を向けてドアノブをまわす。

 ドアを開けると、ほぼ同時に「キャッ」と小さく叫んで立ち止まる者がいた。ここの看護婦の本宮だった。高く積み重ねたバスタオルを運んでいる最中だったらしい。いくらこの非常時で看護婦さんの手が足りないとはいえ、夜更けまで働き詰めとは頭が下がる。

「あっごめんなさい。でもご遺族さまですか。崎山さんのご家族様か……」ドアの陰にはもう一人藤岡の姿を見つけると、「ここは霊安室なんですけど。それにご遺体は死体検案書記載のためまだお渡しできませんし……」

 もうそうなると北村は、いつものしかつめらしい面をする。「いやいや、わたしたち市役所の危機管理防災室の北村ともうします。そして彼は藤岡です。いまこちらへ救出された方を搬送してきたところでして」

 そこへ藤岡がペコペコと頭をさげて本宮に挨拶した。

「あっ。そうでしたか。おつかれさまです」

「ええ、それで他にも災害に遭われて痛ましいご遺体があれば、その人数や被災状況などを、市の本部へ連絡しようと思いまして。災害対策基本法も改案がいくつも後手後手でして、こんな場合はどうなるのか、考察が必要となります。ですがそれはそれで、ついご相談もせずに勝手に覗き込んですいませんです」

「そ、そうですか。先生も奥さんも疲労困憊ですし、あのお方は、さきほど先生に処置してもらったんですが、四丁目にお住まいの崎山さんはお人様……いや、息子夫婦さんは船橋のほうにいらっしゃるんですがね、それが──」  

「あの、この部屋の鍵はいつもは?」

「さて、奥さんの管理なのでわたしは……」

 藤岡の妙な質問に本宮の顔が曇った。

「なにか? ここにそのぅ……」

「おい、藤岡、そのへんにしておけよ」

 ぶっきらぼうに北村が言い出すと、藤岡の頬が紅潮しだした。まるで刑事の職質だと自身で苦笑したのだ。だが、北村の目も不審そうに壁際の遺体に注がれていた。口から言葉が突いて出た。

「いや、本当にご苦労ばかりかけてすいません。休んでいないのでしょう? あとひとつ、もし憶えていたらでいいんですがね、崎山さんがここにいらしたとき、彼女はどんな服装をしていたんでしょうか……? ちなみに今の格好は、そのときの服装のままなんですかね」

 藤岡がうんうんとうなずきながら、本宮の様子を注視する。

「直接わたしが応対したわけじゃないんですけど、確か……コーデュロイの……黄色っぽいチェック柄だったような気がします」

 だが、ここから見ても、遺体の服装は違うのがわかる。ポンチョみたいな合羽を羽織っている。襟元の様子から、もしや下には何も着ていないのかもしれない。

 藤岡と北村は視線を交わし、ゆっくりと部下が首を横に振り、上司は深くうなずいた。

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