第14話

               十四

                         

 玄関受付で放心状態の北村と藤岡が長椅子に腰掛けていた。見ようによっては、置き忘れた壊れた案山子だ。きっとこのままの姿勢で朝陽を迎えるつもりなのだろうが、その鼻先を南明が、けたたましく駆け抜けようとした。

「うっせえぞ、なんだ!」

 北村がその腕を捕まえた。どうも寝入ってなぞいなかったらしい。だが、瞬間的にぶんっと手を振り払われ、その勢いで長椅子から滑り落ちた。

 南明は何事もなかったように再び廊下を突き進む。

 玄関の外は、またぞろ墨汁のような雨だ。駐車場には救急車がそのまま回転灯を廻したまま停車している。南明は乗り込むのか。いや、その横を走っていく。緊急事態のはずだろうに、救急車には用がないらしい。北村たちは溜息まじりに深呼吸をしてから、南明の後を追いかけることにした。

 だが、すぐに追いつくと思ったが、なかなか距離は縮まらない。いくら大声で名を呼んでも応えはない。あきらめかけて停電している区画へ踏みこむと、突然、白昼の光芒が前方に溢れかえり、彼らは居竦んだ。

 南明の投光器に違いない。

 北村たちの足が再び飛びだす。電柱と小屋を回り込むと、思ったとおり、南明の姿が逆光で闇を切りとっていた。

 光りに向かって大声で呼びかけた。

「そうか。不破さんはどこだ。被災者がいるんだなっ!」

 ──そんなことって……。

 北村は、自分でも気づかぬうちにそうつぶやいていた。背筋に爬虫類を思わせる鳥肌が蠢き、肺腑が縮こまっていくのがわかった。

 呼吸を取り戻そうと北村は深呼吸するが、

「またあの人だ、見つけたんだよ!」

 そう言いながら、南明は、こっちだと投光器で行方を指示した。思いなしか北村は、その声に忍び笑いを禁じえなかった。

 ──何がおかしいんだ、この女は。

 確かめようとしたが、逆光のせいで南明の表情は真の闇だ。

 北村は、足もとのおぼつかない土砂もものともせずに、南明の指し示す方へと突き進んでいった。

 そこは、またもや背後に急斜面を背負う危険な住宅地だった。孟宗竹の林の残滓がブルドーザーのキャタピラに削られて痛々しい。あちこちとコンクリートブロックが頭を並べているが、きっと軟弱な地盤を補強しようとしている最中だったのだろう。

 泥の悪魔に呑まれた家屋だ。

 南明のライトがゆっくりと斜面から嘗めてくる。大きく傾いた電信柱が銀色に輝いた。電柱は、そのままトタン張りの壁面を貫き、もし「建家」を「人」に例えるのであれば、まさしくそこは刺殺事件の犯行現場みたようなものだ。建家は下半身を土砂に喰われ、左肩口からは電柱の刀剣で刺し貫かれ、改めるまでもなく家は即死状態であった。

 土塀の芯材の竹材がライトに照らされて闇に浮かんだ。

 きっと生前は大きな農家だったはずだ。頑丈な木枠に組み込まれた雨戸が、どんな圧力が加わったのか、縦に裂けながら溝から弾かれ、道端に飛び出している。他の板戸もガラス戸も爆ぜて正体ないほど散り散りだ。泥流に引きずり出された什器の数々が、その色合いから、やはり人の内臓のように目に突き刺さる。

 何の前触れもなく建家は、気狂った凶徒のように、背後から襲われ、そして生きながら喰われたのだ。

 藤岡が民家の右手を指さした。中庭のある方だ。

 即応して南明が中庭にライトを向ける。

 雨戸こそ外れていたが、廊下は未だ生前の姿を留めていた。南明のライトが、そこを狙い撃ちする。意を汲んで、北村たちは、そこから農家に踏み込もうとすると、廊下の軒の庇が脆くも外れて落ちてきた。見た目より民家の骨格は脆く、大破しているようだ。ややもすると庇どころか天井や瓦屋根さえも落ちて来るだろう。さてどうする。それこそ二次災害の文字が頭の中で点滅した。そのとき、落ちて来た庇が野獣のように身震いしたかと思うと、這い、動きだした。おっそろしいまでのパワーだ。とうとう土石流の追撃が始まったのだ。我勝ちに逃げ出そうとする北村たちだが、そこに不破の胴間声が響き渡った。

「うんぐぉぉぉぉあっ」

 思わず振り向く彼らは、目に飛び込んできた光景に、ド肝をつぶした。

 泥だらけの廊下を、やはり泥をかぶった巨像が、這いずってくるのである。 

 再び南明の投光器が向けられ、巨像の正体が不破であることがわかった。不破は伸し掛かってくる天井の一部を頭と左腕で支えていた。右腕一本でなにやら抱え込んでいるようだ。轟音に負けぬ怒声をあげながら、四方八方から襲ってくる泥流に抗いつつ、こちらへ向かって歩いてくるのだった。

 木材ばかりで造られているとはいえ、崩れ落ちた天井や庇の総重量は、この雨水と泥流も加われば途方もないはずだ。その破壊力に耐えうるとは、不破の肉体の強靭さは巨像以上であろうか。驚愕の北村たちだが、倒壊していく家屋の断末魔の叫び声が大地を轟いた。

「もう持たんぞ! 屋根が後ろから潰れてる、大丈夫か!」

 誰やら叫ぶと、不破がひとつ身震いした。ありったけの力を奮おうというのか、ガギリと奥歯を噛み締める。すると、泥にまみれた巨像が、だしぬけに二本足で直立した。と同時に、不破のあの異様な体臭が、どうっと北村たちを押し包んでくるのだった。

 不破が右腕に抱えていたものを差し出してきた。泥だらけだが確かに人の腕が見えた。

「また助けたんだ!」

 藤岡の声がまたぞろ裏返った。

 だが、ライトに浮かぶ不破の表情が苦痛でゆがんで苦しそうだ。足もともおぼつかなく、かなり疲れているのが伝わってきた。

 北村の足が勝手に走り出す。藤岡も奇声を発して飛び出した。それより早く不破から被災者を受けとったのは南明であった。

「生きているんぜ」

 南明は投光器を背中に回し、泥人形のような被災者を抱き上げた。

 とんたに不破の背後で、八つ裂きとなった家屋が押しつぶされて横死を遂げた。

 間一髪の間合いで南明たちが空地まで下がると、さっそく藤岡が首に巻いていたタオルで顔の泥を拭きとると、老爺の顔が現れた。北村が自分が着ていた合羽を脱いで、かけてやろうとする。と、その手がピタッと止まった。ゴクリと唾を呑む北村。

「き、北村さん!」

 蒼ざめた藤岡に北村は大きくうなずいて見せた。

 不破が遅れて来ると、ぬっとなにやら差し出してきたのである。

 それは泥だらけの枝木に見えた。だが雨が洗い流さぬとも、枝木は人の腕、おそらくは老爺本人の細腕であることがわかった。切断部分のささくれた形状から、腕は左肩から千切れたものらしい。

 不破は北村を睨みながら、その左腕を手渡し、「出血がひどい。死ぬぞ。荒縄で腕の付根を縛り上げてあるが、だめかもしれん──」  

 それだけ言うと、だしぬけに不破は走り出した。

 北村たちも電気に打たれたように後につづいた。

 南明のライトが不意に消えて、あたりはポンッと音がしたように闇と化した。心細い藤岡のライトだけが道案内だ。

 一同は、またもや雨に打たれながらも、遭難者の搬送をはじめた。

 必死に走る北村たちに、なぜか南明が怒鳴るようにしゃべりだした。

「──爺さん、は落ちてきた梁と倒れた柱に挟まれていたのさ。不破がそこを引きずりだそうとしたんが、左腕が完全に挟まれて、びくともしないと言っていたのさ! きっと不破は、あんたたちを呼びに行ってる間に腕をひき千切ったんだろうよ、爺さんを助けるためにな」  

 途中で半壊していた民家の戸板を失敬すると老爺を臥かせ、そこからは四人でもって千堂医院へ運ぶことにした。両手を確保するため北村は、不破から渡された老爺の片腕を雨合羽の襟ぐりに差し込み、気合いを込めて力んで走って、走って、走った。

 極限状態といえなくもない出来事の連続だが、不思議と北村は持ちこたえていた。口先だけの軟弱官吏を絵に描いたような男が、自分もまんざら捨てたもんじゃないと勘違いしたくなるほどだ。それほど北村は、いつもの北村でないのは確かだった。

 ──なんだか知んねえが、ここまで、てめえの身体がやれるとは思ってもみなかったな。まるで馬車馬そのまんまだぜ。背中を掻こうと腕を反らせただけでもこぐらがえていたのによ。こぐらがえっただけでも、涙流しながら悲鳴を上げてよ、自分で自分が哀れと言うより、単に馬鹿バカしく思えたもんだったぜ。

 彼らが医院に着くころには、もう合羽の下は、雨だか汗だかでぐしょぐしょになっていた。人生の肉体労働の大半を、たった今、ここで消費している感じだった。

 飛び込むように千堂医院の玄関に駆け込むと、待ってましたとばかり椿婦長がタオルを手渡してきた。

「お疲れ様です。今度の方は……」

「大変です」

 北村は婦長からのタオルと引き換えに、老爺の片腕を背中からズルリと引き抜き差し出した。ヒッと婦長は驚きの声を漏らしたが、すぐに別のタオルで腕を包みながら、戸板の上の老爺を一瞥した。

「なんという生命力なんでしょう! さぞかし痛かったでしょうに。すぐに手術室の用意をします」

 電気が走ったように暴力的な速さで、椿婦長の身体が手術室へと翻った。

 そこへ白衣の青年が廊下を駆けてきた。やはり戸板の上を一目見るなり、さあっと血の気が引いていくのがわかった。北村は、その視線に疑問を感じて戸板の下に目をやった。すると、戸板から土間にポトポトと滴る雨水は、蛍光灯の蒼白い光りをもってしても、おぞましいほどに赤黒いのだった。その流れでる血の量は、とても老爺一人のものとは思えぬほどだった。

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