第8話

                八

                  

 蒼白いLEDランタンの光帯が、ふざけたほど傾いだ電柱を捕らえた。この電柱ばかりでなく、道路沿いに、もう何本もの倒れかかった電柱をみつけていた。送電線が垂れ下がり舗装道を這っているが、ショートして火花が暴れているようなことはない。峠ちかくの変電所が土石流でやられたのだと想像できた。

 盛り上がり、回り込み、削られ落ちてうねる道。舗装道路は巨大な生物の脊柱そのものだ。足もとがおぼつかない。道はわずかに前方へ低く落ちて行く。と、そのとき、雨音に滲む人声がした。そっちかあ、あっちだぁー、とまるで怒鳴りあっているように聞こえてくる。

「長谷川さんたちですね」

 藤岡がうなずきながら言う。すると反射的に北村が駆け出した。藤岡も懸命に後を追う。

 息が荒々しくなってきたころ、忽然と右手前方に、新築とすぐわかる家々が出現してきた。ここが長谷川たちが住む新興住宅地なのだろう。普段ならば窓からこぼれる灯りで、町中がほのぼのと息づいているはずが、今は、すでに住民は避難した後なのか、人気はなく、闇底に沈鬱に沈んでいた。方角からして、すぐ裏手は倉土師山の裾野のはずだ。他にいくらでも住宅地は確保できたろうに、わざわざ危険を求めて斜面地を拓いたとしか思えない。数本の光帯が狂ったように闇空に乱れ飛んでいた。

「カナ! そっちから近寄ってみい! 本田! 土石流の方はどおだ!」

 おそらくその声は長谷川だろう。

「こっちは大きな落石で無理です。犬小屋が潰れて物置小屋に食い込んでいます」

「トウマの家のもんか!」

「わかりません。でも犬はいないようです。みんな避難してくれたようですね」

「クミんちの柱が今にも折れそうだあっ!」

 引きつった声が闇を揺るがした。すばやくそちらへと駆け出す靴音が遠ざかっていく。

「補強はできねえか」

 再び長谷川のひび割れた声だ。

「あかんだぁ。土砂で基礎が埋まってるのと違うか! このまま持ち上げられたら隊長の家に体当たりしてしまうで」

 これは本田の声らしい。こちらへ駆け寄ってくるようだ。

「あんたあー」そこに団員たちの声とは明らかに違う女性の声が走った。「こっから出てもいいけ!」

「馬鹿、すぐにいくで、そのままそこにおれ。二階の屋根は雨で滑るで、ワレは裸足じゃすぐに滑っちまうで」

 声のやりとりだけでも、土砂に潰れそうな家屋に取り残された家人がいることがわかる。きっとそれは長谷川分団長の家ではあるまいか。すぐさま北村と藤岡は声の主を求めて駆けだした。

 ライトに浮かぶ長谷川の姿を見たときは、なぜか胸中にあたたかいものを感じた。だがそのすぐ手前で、北村たちの足が止まった。道の真向かいに、石のようにうずくまる団員の姿を見つけたのだ。

「大丈夫ですか! 遅れてすいません」北村が遠くから声をかけた。「何をどうしたらいいのか、わたしたちに指示をください!」

「……」

 だが団員の耳に、その声は届かないようだ。いや、北村たちの存在そのものも、彼らには、この闇と同じようにしか感じないのだろう。空けた眸は闇しか写しとっていないのだから。

 事態が呑み込めない北村たちは、周囲の状況を把握しようと、団員の背後にライトを向けた。そこへ、

「おうっ、北村さんに藤岡さん! 済まんな、こんな危険なとこまで来てもろうて」

 雨水を撥ね飛ばしながら、長谷川が駆け寄ってきた。右手に真新しいシャベルを握って、険しい顔つきだ。ランタンを向けてみると、それは血なのか泥なのか、あるいはどちらも混ざり合ったものなのか、赤茶色した粘液が頬から首筋にかけて、べったりと光っている。他にも若い団員たち数名が傍寄ってきたが、すぐに闇の向こうへと引き返していった。

「すごい出血ですよ、大丈夫なんですか!」

 藤岡が心配そうに言うが、長谷川の耳には入らないようで、 

「こったらもんは毎度のことじゃ。それよか、消防本部に無線したけえが、ちっともうまく伝わんねえ。肝心なときはこったらもんは無力だな」

「彼は……?」北村が、しゃがんでいる団員を目で示した。

「おう、うちの筋向かにの米山んちの長男坊だ。家がなくなっちまっていたんだ」と言いながら、しゃがんでいる団員を見下ろした。「着いたときには、土砂の上にテレビアンテナだけが立っていたんだ。生存者の確認なんかとても出来る状況じゃねえ。悪いが他の団員たちの家を見まわって、救出の優先順位をつけたんだ」

「被災住宅のトリアージということですか」

 藤岡が関心したように言った。

「見殺し……」

 そのとき、うずくまっていた米山弦太がポツリとつぶやいた。

 聞き取った長谷川の表情が激化した。眦がきゅぃっとつり上がる。

「なんだと!」

「もう少しみんなで掘ってくれ。見捨てねえでくれ」

「そったらこと言ってもはじまんねえら。他の人はみんなもう避難したあとだろが。きっとおまえんちも避難したはずだし。それに、素手でどうしろと言うんぢゃあ?」

「いいんや、みんなこの下におる。おらにはわかんだ。あいつにはくどいほど身の護り方を教えこんだ。きっと、柱や壁でできた隙間に聡は身を隠しておるはずだっ! みんなして掘ってみたら助かるかもしれんしっ!」

「そのくらいのことはすぐに考えた。だからみんなして手分けして、まっ先に声掛けしたぢゃねえか。ほんで土砂で埋まったとこを見て回ったじゃねえか。おめえもその目で確かめたんだろうが。そんで、優先順位をつけて……おめえは承諾して……あきらめた──んじゃねえのか……」

 団員の弦太は、そこで長谷川にむしゃぶりついて、

「言ってねえ! 俺はそんなこと言ってねえ。まだ息がある。生きていんだ、聡は! ほらっ聞こえるだろっ。今もこうやって携帯で呼びかけてるんだ。ほらチャイムの音が呼んでる。聞こえるだろう。ほら、よっく聞いてくれえな」

 弦太はひび割れたガラスをピカピカさせて、スマートフオンをこちらに向けた。坊主頭の、いかにもやんちゃな小僧が笑っていた。そのおでこには、ギザギザのひび割れが──最近つけた傷だろうか──情け容赦なく広がっていくのだった。

 おおうっと怒鳴りながら、弦太は長谷川の胸ぐらをひねるようにつかんだ。──よっく見ろと言うのだ。だが、そのスマートフォンごと長谷川は、弦太の腕を跳ね除ける。だが弦太も負けない。またもやスマートフォンを向ける。そこで初老とはいえ、腕におぼえのある長谷川の癇癪玉が小さく弾けた。   

「だったら一人で掘れ! 一人で、気の済むまで掘ってみやがれ」

「長谷川さん、冷静に冷静に。カッとなったら何も見えなくなってしまうよ」北村が長谷川の肩を軽く叩いた。「弦太さんの気持ちも察してあげなくては……」

「そうですよ、落ち着いてください」藤岡も感情が丸出しだ。北村ともども長谷川の肩を押しとどめようとする。そして、米山にむかって「聡さんは、息子さんですか、お父さんなんですか」

「小学にあがったばかりの息子だぁ。あいつはちゃんとわかっているんだ。なっ、助けてくれ。一生の頼みだぁ」

 だが、長谷川の首を縦に振らない。むしろ米山を強く睨み据えながら、北山たちに向かって説きつけようとする。

「こう言ったら人でなしだと言われるんでしょうが、弦太は気が動転してるだけじゃ。後で冷静に思えば、間違ってねえことぐらいわかっていんだ。家族が命より大切なはあったりめえだ。俺にも家族がいて助けを求めているさ。俺だけじゃねえ。ここにいる団員がみんなそうだ。だけえが、人命救助の優先順位を間違うようなことはあってはなんねえだ。間違うことそれ自体が、人殺しみたいなもんだからな」

 それは長谷川の覚悟を決めた言葉だった。

「弦太、そこでわめいてねえで、おめえも役場へ走れ! 走っていって、詰めかけている職員の男たちさ呼んでこいっ。その中に土建の橋本さんちがいれば頼め。いなけりゃ資材置場に走っていってトラックごとユンボを持って来るんだ」

 聞いたとたん、北村はどうして早くそう命じなかったのか、不思議に思えた。すると長谷川はそれを察したのか、北村たちにこう言った。

「この場についたときに、鈴木という若いのを真っ先に走らせたんだ。北の土手を迂回する近道を使えと命じてな。そうすりゃ半時間は早く着く。けどここに現れたのは北村さんたちだけだ。橋本土建の資材置場が無事だったら、当然トラックがあんたらを追い抜いて駆けつけるはずなんだ」

「ということは、そっちの土手も」

「やられたかもしんねえ。けど一番の近道だ」

 そのとき米山が弾かれたように立った。「俺、行きます。行ってみんなを連れてきます」

 何が、彼にこう言わせたのか、とっさに北村には理解できなかった。ただ、さっきまで土砂で完全に埋まってしまった自宅に両手を合わせ、待っていてくれ……とつぶやいていた弦太を見て、彼の頑是無い執着心が、ふっ切れ飛んだのだと思った。このさきで奇蹟というものが彼を待っているとしたら、その奇蹟に、自分の生きざまをしっかりと知らせておかなければならない。なぜなら、奇蹟に過不足というものがないはずだから。

「急げ。想像以上に山体崩壊の規模がでかければ、近いうちに土手の道も呑まれるはずだ。みんなを助けてやれんくなる」

 そう長谷川が喋っている間に弦太は走り出した。

 その背中があっという間に闇に吞み込まれた。もうヘッドライトの弱々しい光帯が、切れ切れとなって見えるだけだ。それもたちまちふつりと消えた。

 わずかな希望の布石を置いた長谷川だが、すぐに踵を返して、他の団員たちの方へ駆け出した。

 三人の団員たちが、その家の門扉のまえで長谷川を待っていた。真新しい表札には「長谷川」とある。居宅のすぐ後ろに斜面が迫っているようで、漆黒の質量が、雨の向こうで蠢いているのがわかる。時おり、ピキャ、ピシッと何が裂けているような音がする。靴底の下で蠕動するのは地面なのか、ただ人の怯懦心が蠢いているだけなのか、それともすべてが虚妄なのか……。

 軽く敬礼のような仕草をして見せた団員が、厳しい表情で首を横に振った。消防団の制服には白文字で「本田」と書かれていた。

「なんか物の怪がいるみたいですね」

 微苦笑もらして本田は長谷川邸を見遣る。

「ああ、動いている。この山がこうなるとはちっとも思ってなかったが、もう押さえは効かねえな」

 長谷川は家の裏山にヘッドライトを向けた。怨念のこもった目つきであった。

「今なら突入して救出できると思います。土砂は台所を呑んで二階への階段を壊していますが、まだ玄関のほうが残ってますのでたどり着けるはずです」

「うちのは足が悪いんだ。リュウマチで膝がやられてんだ。抱きかかえて来なきゃなんねえ」

 そう言いながら、すでに長谷川の足は玄関の敷居を跨いでいた。こんな災害に遭ってなければ……と長谷川は思う。二人の終の住処として、はじめて手に入れた新築住宅だった。まさか土足のまま、真新しい段通絨毯を踏み汚すことになるとは思ってもみなかった。杢目にはこだわった玄関の板材は、すでにささくれ立って撓んでいた。 

 泥だらけの地下足袋で廊下を進む。どこか躊躇われる自分がおかしい。ミシッミシッと階段の悲鳴が聞こえる。押し寄せてくる土砂で側板や蹴込板が膨れ撓み、つられて板壁も抵抗できずに横滑りしはじめていた。

「茜! せめて廊下まで出て来れんか!」

 長谷川が二階に向かって大声を張り上げた。だが二階から即応する声はない。

 ギシャ、ギシャッギギギッッキキキィィィ……

 家が生きたまま引きちぎられていく。撓み、膨らみ、弾け、裂けていく。ぶっすぶっすぶっすと廊下の床板がバラバラに引き裂かれ、角柱が我慢できずに半回転して梁から抜け落ちた。もう二階部が一気に崩落してもおかしくはない状態だ。家全体が泣きながら叫んでいる。うなりながら怒声をあげている。その中に、かすかではあるが、二階から人声が聞こえてきた。

「あーんた。そっちには行けねえよ。箪笥がひっくり返って、わたし一人じゃむりだわっ」

「おっ、今行くで、おめえはそこ動くなよ」

 もうそのときの長谷川は第十五分団を率いる長ではなかった。無防備な、ただの老爺だった。長年連れ添ってきた妻に、さしたる幸福の用意もできず、代わりに様々な苦悩と痛みだけを喰わせてしまった。その後悔の念が、今この瞬間に、爆発的に膨張して四肢を突き動かしているのだった。そのぶん自分の命は木っ端のように軽くなっただろうが。

 長谷川の頭の中には、妻の茜の姿しかなかった。さっきから後ろで団員の本田が呼び止めている大声も、台所のほうで、祭りのようにドンヂャカドンヂャカと砕ける食器の音も耳には届いていなかった。階段の踏板が枠から外れて、足を乗せるたびにずれ落ちていった。

 長谷川は無意識に四つん這いになって階段を登ろうとした。その肩を、これでもかといわんばかりの力で摑む者がいた。

「長谷川さん! もう家は終わりだ」

 それは北村のひっくり返った奇声だった。藤岡も、わけのわからない言葉を発しながら、長谷川の身体を階段からひっぺがすように引っぱった。幼稚園児のように、二度三度と長谷川は抗った。仕舞いには、北村たちを盗賊のように蹴飛ばし、人非人のように怒鳴り散らし、鬼のように忿怒して睨みつけた。

 団員たちがその隙に、邪魔な板材などを剝ぎとり、自分たちの踏みこめるだけのスペースを確保していた。団員たちは冷静だ。今ぞっ! のタイミングで、二人して長谷川の足をそれぞれが持ち上げると、北村たちは、長谷川の胴体を丸太ん棒のように抱え、一気に家の外へと運び出した。

「馬鹿たれめが!」

 長谷川が本田の頬を殴り、ついで藤岡の肩のあたりを蹴りつけた。わずかに怯んだ団員たちの隙を突いて長谷川が四つん這いとなって自宅へ戻ろうかした。その背中に本田が覆いかぶさり、他の団員が「すんません!」と声をかけて長谷川の首を絞りあげた。

 さすがに若い団員を相手に長谷川は息も絶え絶えとなり、忿怒でかたくなった筋肉が緩んだ。なんとか長谷川の動きを封じたように思えた。北村は長谷川の横でへたりこんだ。藤岡は小指を強くひねったようで顔が歪んでいる。二人は長谷川が目の前で、ぜえぜえと生きているのを見ると、妙な幸福感を覚え、それが不思議でならなかった。

 見回すと、団員たちも同じように、安堵感を味わっているようだ。長谷川の首を締めていた団員も「すいません、すんません」と謝りながら腕を外した。その瞬間だった。長谷川は虚をついて、団員たちの肩口を蹴り飛ばし、その弾みで長谷川は地面に転げ、すぐさま板バネの勢いで身を起こすと、

「てめえらはすっこんでいろ! 俺の家のことだ。俺の命を家族のためにどうしようと構うだぁ!」

 言い捨てて、頭から猪突の勢いで玄関へ突進していった。

 団員たちの体力や俊敏さをもってすれば、このときの長谷川を取り押さえることは可能だった。事の次第では、手足を縛り上げてでも、力づくで長谷川の身柄確保はありえた。

 だが、このとき、二人の団員たちは動かなかった。ひしゃげていく玄関の黒々とした闇底を凝視しているばかりで、身じろぎひとつしなかった。北村は反射的に後じさり、二階の窓をライトで照らした。そこに長谷川の奇跡的な救出劇が見えるぞと言わんばかりだ。藤岡も横に並んでヘッドライトを投射する。団員たちも奥歯を噛みしめて、開け放たれた二階の窓に、妻を抱きかかえた団長の勇姿が現れるのを待ち望んだ。しかし、その緊迫した双眸が、やがて苦悶に歪み、悔し涙で潤んでいくのだった。

 二階のベランダを下支えしていた柱が、瓦とともに雪崩落ちていく様子が、実際より間延びして見えた。必死になって、自然の剛力に抗っていた長谷川邸だったが、圧倒的な土砂の質量と圧力の前ではマッチ箱も同然だった。ベキンッと激しい炸裂音がひとつして、それを合図に山手側からゆっくりと土砂に喰われていったのだ。ペチャペチャとベランダの窓ガラスが眼球のように破れ砕け、アルミサッシが肋骨のようにベキベキと音をたてて湾曲に成り果てる。もう二階の屋根の下に空間と呼べるようなものはない。勢いを増して潰れた一階の屋根は、自身の胴体でもある漆喰壁を押しつぶし、たちまち長谷川邸は、禍々しい土砂の質量の餌食となっていった。

 眼前で展開した光景を、いくら言辞に置き換えても、北村たちにはなんだったのか理解できなかった。もう一度、もう一度と、そのときの光景を遡及してみるのだが、あまりにも非現実的すぎて、すべてが嘘のように思えてくるのだった。

 そこへ、大きめの余震が大地を波立たせた。ただでも疲労でふらつく足もとが、うねうねと頼りない。闇の底を地鳴りが這いまわり、山体崩壊の土砂崩れと余震の爪牙は、おまえたちも食い尽くしてやろうかと手薬煉を引く。

「ひとまずここは撤退しましょう!」

 気づくと北村は、本田に腕を引っぱられ、ずるずるとゴミ袋のように引きずられていた。生気の失せた両目の奥では、つい今しがた長谷川を強く批難した弦太の言葉「見殺し……」が、フラッシュバックしているのだ。

 ──たすけようと思えば出来たんじゃねえのか? ほんとうに俺たちは長谷川さんを救えなかったのかよ? 二次災害を避けるためと口実を付けただけで、ただ見捨てたんじゃないのかよ!

 その言葉は、誰が誰に向かって叫んでいるのか、北村本人にもわからなかった。

 日常が惨劇などで崩壊すると、感情や思考は、逆に非現実的な世界に逃げ込もうとする。現実が非現実的であれば、ここで展開している惨劇も非現実にすぎない──と自己を制御するのだ。感情や思考を安全圏に確保するためだが、社会的あるいは倫理的責任から逃れるという手段でもある。だが、北村の脳内でわめきたてる声は、どこか違っていた。

 ──市民を護ることを使命とする市職員がこれでいいのか! まして危機管理防災室の避難誘導課課長なんだぞおまえは! 矜持というものを知れ、矜持というものを! 様々な事柄において、市民の幸せを願うことこそ市職員の矜持だろうが。法に則り、もっとも最善と思われる行為を遂行していれば、それでいいというのか! 本当にそれでいいのか……。

 北村は脳内で響き渡る〟声〝に身震いした。こいつは誰の〟声〝なのか、その出どころを見つけようと、大脳をふるいにかけて、首を横に、縦に振った。激しく激しく首を振り続けた。その肩を団員のひとりがとっさに抱きしめた。またもや痙攣発作かと思ったのだ。だが北村は抵抗した。団員を振り払い、自分の大脳の中から〟声〝を除去しようと懸命だった。ぐいっと団員の膂力が増した。

 本田たち団員に安全と思われる位置まで後退を余儀なくされると、痙攣していた北村の首は観念したように大人しくなった。すると今度は、ぶつぶつとつぶやきがはじまった。詛呪の鬼言じみていた。団員たちは背筋に寒いものを感じ怯んだ。その隙に、団員の腕を振り払って北村が立ちあがった。

「まだ遅くねえ! いくぞォォォォ」

 一歩、二歩と引き返そうとする。

「はあ?」

 だが本田たちが首を横に振って押し止めにかかった。

「無謀な行為はなんの足しにもなりません。ただ私たちの仕事を無駄に増やすだけです」

 そう言われると、確かその文言は、あのとき北村自身が上司の小此木に言ったものと同じだった。だがこの場合はどうなんだ。応援が駆けつけてくるまで、自分たちは、ここで彫像のように立ち尽くすしかないのか、と納得がいかない。いや、納得がいかないのではなく、すべてにおいて北村は、自分は何をどうしたらいいのかわからなくなっているのだ。極度の疲労で正常な感覚が麻痺し、論理的思考も揺らぐことはままあるだろう。だが、北村の横顔は、どこか惚けて、もう狂乱の淵に溺れた亡者にさえ見えた。

 どれほど、彼らはそうして佇んでいただろう。雨音だけの世界に、彼らの存在は、まさしく棒杭のようだった。

 その棒杭の頭を、これでもかとハンマーで打ち込むように、

「そこで何をしている!」

 雷鳴のごとく人声が落ちてきた。耳のすぐ後ろだ。女の声だと気づいたのは後の事で、同時に強烈な白い光りが背後から照射され、男たちは、身体の表面積がきゅいっと縮こまるのを感じた。とっさに振り向いたが顔を顰めただけでは足りず、両手で目を覆い隠した。

 凄まじい光量だった。それは工事現場でみかけるLED投光器のようだ。とすると待ち望んだ町役場からの応援が到着したのだろうか。

「お疲れさまです! ご協力ありがとうございます。自分は市役所の危機管理防災室の北村という者です」

 と即座に北村が調子っぱずれに自己紹介をする。だが投光器の人物は無言に付して微動だにしない。なぜか北村は焦ったように後をつづけた。

「えっ、こ、この裏で、分団長の、消防第五分団長の長谷川さんが、家もろとも土砂に呑まれたようなのです。その際、自宅には奥さんも二階にいた模様で、他に家人の確認は」 

 しどろもどろとなって北村が喋っているところへ、本田が付け加えた。

「長谷川団長は奥さんと二人生活でした」  

 だが、投光器の人物は、やはり無言のままだ。テレビ撮影の照明係りでもあるまいに、相変わらず白い光芒で、舐るように彼らを照射しつづける。

「すいません! 明りを落としてくれますか! 眩しすぎて目がやられてしまいますよ」

 藤岡が怒鳴る調子で言うと、ようやくカチリと音がして、怒濤の光りはふっと失せた。

 ポワンッと鼓膜が裏返る音がして、瞬時に周囲は闇に落ちた。

 北村たちの視力は麻痺状態に陥り、眼前に人が立っているというのに、まるでわからない。力を込めて、まばたきをぎゅいぎゅいと繰りかえす数秒間。次第に視力が恢復してくると、まず視認できたものは、骨が二本ばかり折れたビニール傘、そしてその白い柄を両手でがっちりと握る、異様に骨張った手だった。ついで灰色の雨合羽をまとった女の上半身。そして胸もとには、あのLED投光器が、骨箱のように重そうにぶら下がっているのであった。

「地蔵みてえに立ちつくしたまんまで、なんかの助けを待っているつもりなんだか!」

 フードに隠れてよく顔は見えないが、声は、華奢な身体つきには似合わず強かった。全身が過度の緊張感で上気しているようだ。この近辺に住んでいる者なのだろうか。もしや長谷川団長とはなんらかの関係があって、それで激昂しているのかもしれない。

 その鼻息も荒い女とは対照的なのが北村たちだった。こんな近くに、こんな女がいること自体が、今もって信じられないといった怪訝な様子で、狐につままれるとでもいうか、非現実的な唐突さに言葉を失っているのである。

「失礼ですがどちらさまですか。小名瀬町役場の職員さんじゃないようですが」

 ようやく本田が女をしっかと見据えて質問した。

 女は干からびていた。「老女」と呼ぶのも違和感があるほど、異様な老け方をしていた。だが、小型投光器を引っさげて災害現場に参じるのだから、たんなる一市民とは思えない。それなりの理由があってここに立っているはずだ。もしや、別の交通手段で災害現場へ乗り込んできた、他県からの災害救助派遣団かもしれない。とも考えたのだが、

「なんでもいいだろがっ! 土砂に生き埋めになっている人をほっといて、他にすべきことがあんですか! 掘り出すのよ。素手でもいい、なんでもいい、掘り出して助けてやんのよ。消防団員と市の職員がこれだけいて、なんで何もしないのか、わたしには信じられんことだわ!」

 唾を飛ばしながら、老女は本田に食ってかかった。その勢いに気押されたのか、強面で逞しいはずの本田の姿勢が、へっぴり腰になった。北村も藤岡も同様に逃げ腰だ。この妙な雰囲気はなんなのだ。どうしてこんな痩せ女一人に、怯んでいるんだ。市職員たちはチラリと互いに顔を見合わせた。そこへ老女は威丈高と胸を反らして凛と言い放つ。

「さあっ、腕の一本でも拾ってくるつもりで掘るんだっ!」

 老女はビシリッと暗黒の虚空を指さす。その鋼鉄のような態度に、反対意見を突き返せる者はいなかった。そのときの威圧的な雰囲気が、冷静沈着な本田の太い首を小さくうなづかせた。それが伝染したのか、若い消防団員も大げさに深くうなづくと、一時は放り出したスコップを掴み、いまや巨大な墳墓となった長谷川邸に向かって歩き出した。

「落ち着け本田さん。危険だ。土砂がまた動きだしている!」

 それは北村のひきつった声だった。藤岡の投射したライトに照らされて、確かに長谷川邸の墳墓は、ゆっくりとだが確実に、斜面地を滑っていくのがわかる。あの四十五度に傾いていた電柱が、今では真横に倒れて、そのまま土砂に頭を沈めているのだ。

「どぉっちなんですか!」本田がそこでひきつった怒声をあげた。「さっきは助けろ、今度は危険だからやめろって、ころころ変わってばかりで、それこそみんな土砂に喰われちまいますよ」

「だ……だから臨機応変に即時対応に状況把握を……」北村はわずかにたじろいだが、すぐに本田を見かえして「冷静に考えるんだ! い、いや、考えるまでもなく、ここにいる男たちの腕力でどうにかなるもんじゃないだろう? 家一軒、滑っていく土砂から引き上げるなんて不可能なんてもんじゃあない。他にも呑まれた家があるんだ。被害はここだけじゃないんだ  

「だから、どうしろってんです! そこの女の人が言うとおり、俺らが助けてやらなきゃ誰がやるんですか。今、現場にいるのは俺たちだけなんですよ」

「そう、そうだが、見ろ、もう市道も半分はもってかれている。アスファルトがめくれて車が入ってこれない状態ですよっ。今までに降った雨の土壌雨量指数は、すぐに計算できないが、高いレベルで危険なのはこうして実証済みというもんでしょ。二次や三次災害は何としてでも避けなければならないんだ。救出活動は、まず作業者の安全を確保したうえで  

「そんなこと言っていたから団長は命を落としたんでしょうがっ! 災害時には多少の危険はあって当然なんですよ! 俺はやりますよ。団長を助けるんです」

「でも、待ってください」若い団員がキョロキョロと周囲を見回して言った。「その女ひとって、どこに行ったんでしょうか?」

 北村も藤岡も、あっちこっちとライトを向けたが、危険な斜面地は木立が邪魔してよく見えない。とはいえ確かに光りの届く範囲内に人の姿はなかった。

「そんな……。今の今までここにいたよな!」

 若い団員はぶるぶると犬のように顔を振る。

「すいませーん、灰色の合羽の人、危険ですから出てきてください」

 本田がくるくると全方向にライトを向けて呼びかけた。藤岡も、おーいっおーいっと声を出す。

「現れたときも異様なんだ、立ち去るときも普通じゃないかもな」

 若い団員はマジックショーでも観たようにウキウキしている。

「そんなことがあるか!」

 目を剥いて本田が怒鳴った。それは、若い団員に向かって発せられた激情ではなく、みずから想像した絵図に向かって発せられたものであった。

「もしあの女のひとも土砂崩れにやられたなら、俺たちは一体何してたってことになるよな。分団長は家ごといなくなって、助けに来た女のひとも見失っちまって。まったく俺たちは何してんだ!」

 歯嚙みしい思いで、本田は長谷川邸が建っていた方を見つめた。この後、分団員として何をどうしたらいいのか、正直なところ見当もつかなかった。指揮命令があれば、それを達成するために最大限の努力は惜しまないが、自らが現状を把握したうえで、最良の行動計画をたてることは、彼にしてみれば経験不足過ぎた。それは北村たち市役所の職員もそうだった。せいぜい本部に連絡して、まずは現状報告を入れること、そして指示を仰ぐこと。それぐらいが関の山なのだろう。

「いくらここで待っていても役場からの応援は来そうにありませんね」藤岡が腕時計にライトをあてて言った。「みんなでいったんここは町役場に行きませんか? 長谷川さんのことも報告しなければなりませんし」

「このままここをほっといて行くと言うのか」

 やはり本田は憤懣顔だ。

「だから、素手では無力でしょっ。こんな狂気の土砂雪崩に、人が素手で太刀打ちできるはずがない!」」北村の能弁は、どこか投げやりな口振りだった。「とにかく一刻もはやく長谷川さんを掘り出してあげるには、町役場に行くしかないんだ」

 もうそれ以上の話し合いはなかった。北村と藤岡は町役場へと歩き出した。しかし、本田は長谷川邸のあった暗闇をじっと見つめて動かない。だが数分もそうしていたろうか、その夜闇に命じられたか、何かに指示されたのか、ペコリと一つ頭を下げると、北村たちの後に続いて歩き出していた。

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