第7話

                七


 隧道を抜けてからというもの、彼らは何よりもまず街明かりを求めた。しかし、農道の周囲が依然として杉林に囲まれているせいか、右も左も濃い闇だ。長谷川は携帯電話をさっきからかけているが、やはりつながらない。大規模な土砂崩れが山体崩壊を引き起こしているのならば、幾つかの無線基地をも道連れにした可能性が高い。携帯電話が使えないのはそのせいだろう。

 半時間も歩いたところで、ようやく農道はゆるやかにくだりはじめた。杉の囲いが途切れた農道の先に広がる街並が小名瀬町なのだろう。低く垂れ込める雨雲が街明かりに炙られたように赤黒い。

 遠くに緊急自動車のサイレンが脈搏っている。これは火事か! と消防団たちは色めき立つが、すぐに救急車のサイレンだとわかった。

「救急車ですよね」

 藤岡が確かめると、

「花木が運転してるはずだ」長谷川が答えた。「救急車が分団の屯所に一台だけある。千堂総合病院が機能していれば救急外来も診てくれているはずなんだが……」

「それではこのまま町役場へ向かいましょう」

 なけなしの元気を振り絞って北村が歩を早めた。だが、点滅している信号機の前で長谷川が待てと合図する。

「北村さんたちが役場に行くなら、ここを右折して行くといい、三キロほどで着く。だが俺たちが行くのはこっちなんだ」

 そう長谷川が話している最中にも、他の団員たちはすでにコースをはずれ、左折していった。

「えっ、なんで……。ともかく町役場に行かなきゃ……」

 驚いて北村は立ち尽くした。

 役場の方角は街明かりでぼんやりと明るいが、団員たちの行く手は、墨を流したように辺りが知れない。大規模な停電のせいだ。それを見てとって、団員たちは行き先を変えた。土砂崩れで自宅が呑まれたかもしれない  そう団員たちが言っていたが、たった今、それが憶測ではなく事実だとわかったのだ。

 さっきまでは、確実に、しっかりと歩を運ぶ団員たちだったが、堰を切ったように彼らは駆けだした。安全靴がアスファルトを踏み叩く。バッチバッチと水音が耳に痛い。懐中電灯の何本もの光帯が、あっちこっちと闇に飛ぶ。気づくと北村たちも走っていた。団員たちが自宅に駆けつけ家族を助けようとしているのに、傍に居ながら、それをほうっておける人がいるものだろうか。とはいえ、団員たちの体力に北村たちがついていけるはずもなく、どんどん彼らの後姿は遠ざかっていった。 

 追走することに意味がなくなり、北村たちは歩くことにした。というより、もう走れなかった。北村はもらった地図を取り出し、現在位置を藤岡に告げた。すると藤岡は周囲をライトで照らし出し、状況を音声で語りはじめた。

「──ああ、今現在、七月六日午後六時時四十七分、記録者、藤岡。場所は北小名瀬町二丁目のおそらく十五番地あたり。この辺りは停電で真っ暗です。夕刻から降り出した雨は勢いを増しています。南東北部の斜面から流失した土砂はこのあたりまで進出しているようです。家屋の被害は全壊した農機具小屋が一戸を確認。なお前方の三丁目あたりの集合住宅地に土石流による被害が発生した模様。消防団の方々が救助に向かっています。以上」

 二人とも胸ポケットのICレコーダーを作動させていた。後で編集し被害マップ作成時に活用するつもりなのだ。

 そのスイッチをオフにして藤岡が北村を見た。そろそろ定期連絡を入れたほうがいいのではと思ったのだ。もう充分に小名瀬町の周辺の酷さはわかっている。もし被害の少なかった城北地区のように軽視しているなら、認識をあらためるべきだと言わねばならない。だが、「北村さん、無線機は?」と遠回しに言っても、北村は何を考えているのか、闇の底を睨んでいるだけだった。

 確かに北村はこの自然災害の脅威を肌で感じていた。災害救助隊の派遣要請は当然すべきだと。だが、夜闇を幾重にも斬りこむ雨の薄刃が、またもや彼の背筋を粟立たせたのだ。何かがそこにいる。何かが歩いている。雨の薄刃に斬り苛まれながらも、ひたひたと確実にそれは北村のほうへ向かっている、と。

 その気配は北村の雨合羽を貫いて頭皮を直に叩いているのだった。

「北村さん! 大丈夫ですかぁ」

 いくら雨脚がすごいとはいえ、これだけ近くで話せば聞こえぬはずがない。藤岡は話しかけながらそう実感していた。だが、北村はまだ闇の底を凝視しているばかりだ。どうしたらよいのか、部下は思案する。いっそ怒鳴ってやって、肩でも揺さぶってやろうか!

 気づくとそのふたつを同時に部下は実行していた。

 しかしガクッ、ガクンッと力任せに揺さぶられても、北村の意識は彼方に飛んでしまっている。もうこうなったら──つい弾みで藤岡は、上司の頬を平手打ちした。

 北村の首がガクンッとのけぞり、その衝撃で雨粒が合羽から派手に弾け飛ぶ。その反動で首が手前へ跳ね返ってくると、合羽のフードがめくれてずれた。

 その瞬間、べったり前額に貼りつく髪の毛の下で、北村の眼球はおぞましくも、また裏返った。

 みるみる濡れそぼつ髪と顔皮。あんぐりと開けた口へ雨水が流れ込む。LEDランタンの蒼白い光りに照らされて、むき出す白眼の異様さに、藤岡はゴクリッと唾を呑み込んだ。

 ──また失神したんだ北村さんは! もうこれで二度目だぞ。おかしいよ、この人。「精神的に脆いとこがあるんじゃなかろうか……」と長谷川分団長が言っていたけど、もうこれは職務から解放すべきだ。

 そのとき、げぼっと北村が嘔吐した。きっと自然嚥下していた雨水だろう。それを引き金に意識がもどってくると、四つん這いになって白い液体を吐きつづけた。

「大丈夫ですか! 大丈夫ですか!」

 ほかに掛けてあげる言葉が思いつかない。さりとてほうってはおけず、しばらくのあいだ、藤岡は北村の背中をさすりつづけていた。

「わ、わるい。なんか俺、変だな。済まん……」

 北村はアスファルトの路面を見つめながらいった。吐き戻した汚物は、長谷川からもらった握り飯だった。路面には傾斜があるのだろう、いっぱいの白い粒は、たちまち雨水に押し流されていく。視線を転じて北村は前方を見遣った。ぬめるような闇を切り苛む雨の弾幕。その向こうで長谷川たちは今、懸命に救出作業を繰り広げているはずだ。

「病気……なんですか?」

 やるせない雰囲気で藤岡が訊いた。

 返事のないまま、ふうらりと北村は立ち上がった。その痛ましい姿を見つめながら藤岡は思う。被災者たちの救出より、まずはこの上司をどうにしかしなければ、と。長谷川が言っていた千堂総合病院がどこにあるのかわからないが、今は町役場へ行って救急車の手配をすべきだろう。分団員たちを手伝うのは、それからでも遅くはないはずだ。

 藤岡は後ろを振り返って、闇夜の奥底に役場のある街明かりを探した。それらしいものが雨の弾幕を透いてチラチラと見える。すぐに北村のほうへ手を差し伸べ、歩き出すよう促した。だが、その手を北村は振り払った。

「違うよ藤岡。みんなを見捨ててはいけねえ」

 言うなり、北村の足は、夜闇の底へ向かって動きはじめた。

「か、課長……」

 その後の言葉が続かなかった。藤岡はこのとき、なんともいえぬ違和感を上司から感じ取っていた。上司の背中といわず肩といわず、違和感は立ちのぼっている。これはなんだ? と。藤岡は北村を止めることもせず、その違和感の正体を凝視した。もしかしたら、ただ自分の感覚が疲労と緊張に歪んでいるだけではないのか、と自己分析めいて考えたりもした。だがそれより、上司の北村のほうが毀れていると考えたほうが論理的だろう。どこまでもつづく雨と闇。北村の今にも壊れそうな足取りを後ろで見守りながら、藤岡は苦々しく舌打ちした。

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