第6話


               六


 ほんの十分たらずの小休止だったが、雨に打たれていないだけでも身体は休まったようだ。疲労感が違うのだ。それが証拠に、長谷川の合図で一同は気合いをこめて立ち上がった。だが、いざライトで周囲の状況を捉えると、気合いはたちまち萎えた。

 農道は杉の並木で両脇を囲い、防風林の体を成していた。しかしこの篠突く雨の妨げにはならない。きつい雨のなかに一歩踏み入る。雨合羽を叩く雨の音で、一気に聴覚が圧迫された。だが聴覚は、囂々たる雨音の中に、もっと不吉なものを捉える。そこに居並ぶ男たちを、怖気立たせるにあまりあるほど大きい。

「走れ! 走るんだ!」

 叫ぶなり長谷川が走り出した。

 だが北村には一秒が目に見えるほど、身体の動きが鈍かった。何故、どうして? 間髪を容れずに、藤岡のひきつった一声が、彼の思考力を粉砕した。

「北村さん! 走って! 死にますよ!」

 もう何がなんだか北村には理解できなかった。理解したくてただ大気ばかりを吸いこんでいた。吸って、吸って、二つの肺がパンパンに膨れ上がって、胃袋と一緒にばあぁぁんっと裂けそうな按配になっていた。

 地面を蹴ろ!

 転ぶなっ!

 走れ!

 踏んばれ!

 死ぬぞ。

 単発で、誰かの言葉が脳内のどこかで発生し、言葉それ自体が死にたくないとばかり脳内を駆けずり回る。だが、それだけだ。当の北村に理路整然とした理解力は見当たらない。。ないが、

 転ぶな!

 脳内の絶叫に咽喉が干涸び、引き攣る

 転ぶな!

 人生で初めて転んだときの痛みが脳内で爆竹となる。

 転ぶな!

 揺れ動く大地と格闘するように男たちはつんのめる。

 転ぶな!

 転ぶな!

 防衛本能にむしゃぶりつく男たち。アドレナリンは警鐘を鳴らしっぱなしだ。

 だが、たったの二〇秒たらずで、北村の本能は、血液中の酸素を使い果たした。かすんでいく意識は我慢できずに露と消え、もうどこにもいない。すると胃液の混じった白い泡を噴き出しながら、北村の脂肪だらけの体躯は、だらりと弛緩して、前のめりに路上に頽れたのだった。

 無様な物音の気配を首筋あたりで感じとった消防団員たちは、これまた訓練どおりに急停止をかけた。

 気を失った北村を、藤岡と団員の本田が死刑囚のように両脇から抱えた。さながら処刑場へと歩くように力強く引きずっていく。杉林道の近くに木造建造物を長谷川が発見。小屋は半壊状態の農機具小屋だったが、それでも屋根のようなものはありがたかった。

 長谷川が手慣れた様子で、白眼をむき出す北村を診た。

「気を失っただけだと思うが、持病みたいなものはあるのかね」

 藤岡は首を振った。

「課長は先週、健康診断で再診勧告があったので県立で診てもらってます。結果は知りませんが、家族に説明するとかしなといか……で、何か……?」

「なんか精神的に脆いとこがあるんじゃなかろうか」

「それは疲れているだけと思いますが」

「これからは疲労とも戦うはめになる。生きている間はな」

 まだ地響きの余韻があたりをざわつかせていた。

 他の団員たちが顔色をなくして小屋に引き返して来た。拡大した土砂崩れは、あの防空壕の隧道を呑みこんでしまったらしい。もうこれで、こちら側から市街地に通じる道路はなくなったことになる。

 藤岡が北村の合羽の中に手を突き入れ、無線機を取り出した。

 小此木はなかなか出てこなかった。もうスイッチを切ろうとしたとき、応答があった。だがそれは室長ではなかった。市長の富田林だった。

 このまま北村が意識を取り戻さなかったら……。そんなことを考えながら藤岡は現状報告をつづけた。市長の受け答えに如才はないが、話しているだけで、この人物は、『決断』する大脳を持ってはいるが、『創造』する大脳は学生時代に失っているんだ、と感じた。具体的な措置案など、この市長にひねり出すことができるのだろうか。今この状況こそ、北村がぼやくように口にしていた言葉〝二次災害〟そのものではないか。

 その後、小此木室長が持ち場に帰ってきたらしい。市長のだらだらぐだぐだの堂々巡りは切り上げとなった。無線のスイッチは切らずに、少し離れたところで、市長たちは話し合いをはじめたようだ。北村たち二人の今後の活動はどう推移させるべきなのか。おそらく消防団と行動を供にして、救助活動に尽力してくれとかとなんとか……。ただし、北村が何事もなく意識を取り戻したらばのハナシだが。

 ようやく市長と室長の話し合いが終ったころ、偶然の予定調和めいて、北村の意識が戻った。このタイミングで気がつくとは、見事なものだと藤岡は感心した。すぐに無線機を北村に渡す。すると北村は「ご心配なく。職務は完遂できます」とだけ言って、すぐにスイッチを切った。

 ──あの、あれ。もっと話すことがあるんじゃないの? 

 藤岡は怪訝そうに北村を見つめた。どうにかしちゃったよ、この人。

 北村の間延びした声を聞きつけて、飼い犬ように長谷川がやってきた。

「よかったな。どうだ大丈夫か」言うなり北村の双眸を覗き込む。「俺の指先を見て。動かすから追ってみろ」

 どの程度の医学的知識を有しているのかわからないが、長谷川は基本的な触診を行った。素人判断だと前置きして、言葉遣いや、手足の末端まで、北村の運動機能に異常や損傷はないと診たてを述べた。ただし、今後どこまで消防団たちと行動を共にできるかは確信が持てない。いずれにせよ、一刻も早く小名瀬町にたどり着くことが、すべてにおいて最優先だ。

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