第5話
五
これが二次災害の範疇に入るか否かは別として、実際に副次的な被害はたやすく起きるものだ。北村は舗装農道に降り、徒歩で小名瀬町に向かおうとしたが、まず雑木林の斜面を下っただけで転倒し、泥だらけの棒杭となって、ごろりごろと転がり落ちながら、あちこちを打撲すると、そのたびに悲鳴をあげた。おなじように斜面を滑り降りる藤岡を見るや、すがりつくように飛びかかり、引っぱった雨合羽の左袖は無惨にも千切れてしまった。
わずか歩き出して数分の出来事だった。息も絶え絶えになって、麓の農道に着くには着いたが、落石で路面はあふれかえっており、当然のごとく北村は、すぐに足を取られて再びすっころんだのであった。
時間ばかりが確実に過ぎていった。北村たちは雨合羽に懐中電灯を握りしめ、ようやく消防団員に挟まれるようにして小名瀬町へ歩きだした。途中、相変わらずの余震があり、そのたびにパラパラと落石音が舗装道路に谺した。一キロも進んだ地点で、土砂崩れで崩壊した県道の残骸を長谷川がライトで照ら出した。ぐずぐずの竹林の中で、ガードレールと鉄骨が、腐敗した鯨の肋骨のようだった。復旧するのに二ヶ月以上はかかるだろうと長谷川は言う。それも余震が鎮まってからの概算だが。
「この先にトンネルがあるんだ。トンネルというよりは隧道みてえなもんだが、そこで小休止をとろうと思う。よければ非常食なら持ってきてるんでな、今のうちに食べておいたほうがええ」
長谷川がそう言って北村の肩をポンポンッと叩いた。きっと同行してくれたことへの謝意がこもっているのだろう。だが、北村が背負ったリュックの肩紐は、もう充分に肩や背中に食い込んでおり、刺激はそのまま激痛となっていた。
前を行く藤岡は他の団員たちと同様、リズムよく歩を運ぶ。それにくらべて北村は、もうなんども体勢が崩れ、そのたびに若い団員が見かねて手を貸していた。思えば昨夜の夕飯から口にしたものといえば、菓子パン二つだけだ。踏ん張りがきかないのはそのせいか。北村は、空腹感そのものを感じなくなっている自分に愕然とし、ついでぞっとした。自分の身体が、まるで借り物のようで、ふわふわしているのだ。
そのうちとっぷりと日は落ちて、あたりは漆黒の闇と化した。LEDライトが見るものは、銀色の斜線となった雨足だが、その背後には五色の墨が渦を巻いて大気を染めていた。墨の五色、清、淡、重、濃、焦が遠近をともない、夜闇に住み分けている。
千変万化の墨絵だ。
しかし、北村は、けっして美しいなどとは毛ほども思わない。面倒臭そうに周囲の状況を睨むだけだ。
「さっき室長に無線をいれていたようですが、災害派遣の件はどうなったか何か言ってませんでしたか」
藤岡が闇の底に目を据えて言った。それは隊列を組んで舗装道路を歩き出してから、最初の現状報告のことだろうと北村は思った。小此木は「定時報告はどうした!」と激怒したが、「遅延=異変発生」だと気づき、「どうした大丈夫か、説明しろ」と慌てて自分でフォローしていた。だが防災管理室では、結局のところ市長に新たな動きはなく、自衛隊への派遣要請はまだ出していない様子だ。ヘリコプターの数機でも飛ばしてくれれば、こんな原始的な徒歩による現場調査などせずともよいのだ。温厚なはずの藤岡でも、チッと露骨に舌を鳴らしたものだ。
唐突に農道は板塀によって前方を封鎖してあった。近寄って見ると、板塀は観音開きになっており、そこが分団長が言っていた小さな隧道の入口だとわかった。運良く施錠されてはいない。開けてライトを向けると、ほんの数メートルばかり先で隧道は終わっていた。もとは太平洋戦争に使っていた防空壕の生残りだということだった。
ここで小休止だと言われたが、北村はなかなか座ろうとしなかった。いや身体が思うように動いてくれないのだ。関節という関節が塑像のように硬くなり、腱も筋肉も痺れ、自分の身体はとうに木偶人形と入れ代わっていたのだった。若い団員が見かねて、背中のリュックを引き剥がすようにして降ろしてくれた。その手を借りて、長ーい溜息を吐きながら、北村は地べたにしゃがんだ。ポキポキポキッ……と関節という関節が悲鳴をあげる。
速やかに藤岡がリュックからタオルを取り出した。一枚を北村に手渡すと、汗と雨でぐしょぬれの顔を念入りに拭った。北村はペットボトルのキャップを開けて、まずは一口だ。タオルを渡されたが、何処を拭けというのだ、もう身体で乾いている箇所はない。それより、ランタン式のライトを高く掲げて、隧道の天井だの壁だの安全確認に余念がない。決定的な破損箇所はないが、耐久性には問題ありだとつぶやく。そこへ、
「疲れたろっ。まだ六時を回ったばかりだというのにくたくただろが」
それは長谷川の声だった。ライトを向けると、ほとんど白髪の初老男がこちらを見下ろしていた。思っていたより老体だ。手にはプラ容器とペットボトルを、それぞれ両手に二つずつ持っていた。
「班長の本田君が食料品の中に握り飯を見つけたんでよ。どうだ、今朝こさえた物だと言っておるから、大丈夫だろ。これよか胃液のほうが劇物だしよ。それともカンパンにしておくかい」
「胃液……?」一瞬その意味を、どこにあずけていいのかわからない。「でも衛生面だったら、カンパンと言いたいですが、できれば人の手で作ったものがいいですね」
聞いたとたん長谷川がくしゃっと顔で笑った。深い味わいのある笑い皺だった。
「シャケと梅干しらしいぞ。それとお茶だ。今は呑まなくても、持っていくといい。それと小名瀬町の地図だ。A四でコピーしたものらしい。ビニール袋に入れてあるんで、使うといい」
「これは助かります」北村は受けとると藤岡にも渡した。「雨の中ではスマートフォンは使いにくいし、あっ、それとさっき団員さんが、住宅地を土砂崩れにやられたらしいとおっしゃってましたが、長谷川さんの家も、まさか……」
長谷川が無言でうなずく。
「県民銀行さんが面倒みてくれるというんでな、何人かの団員で建売りを買ったんだ。住宅地は結構広いんで、まだうちがやられたかどうかわかってねえ」
「そ、そうですよね」
「……足の悪い古女房がひとりぼっちで、おらの帰りを待ってんだ。早う帰ってやりたいんだがな」
「みなさんご心配で休んでなんかいられないすね」
「いや、かえって今休んでおかねえと後がなっくなる」
それだけ言うと長谷川は他の団員のところへと去って行った。藤岡もその背中に「ありがとうございます」と声をかけた。長谷川は小さく「おうっ」と一言。
「ともかく小名瀬町で被害状況を確認したら室長に連絡だ。もし県庁に戻るとしてもここを通ることになるが、大丈夫だろうか」北村がプラ容器に入った握り飯を藤岡に差し出す。
「亀裂から雨水がすごいものな」
「補修跡が見えますね。ところで、ここで小休止というのはどういうことなんでしょうね?休んでなんかいないで、どんどん町へ行けばいいのに」
藤岡はそう言うなり握り飯にかぶりつく。
「それは、現場に着けばわかることかもな」
「このあと……飯なんか喰ってられないってことですか」
北村は無言のまま握り飯を頬張った。
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