第4話

              四


 フロントガラスにワイパーの描く筋が黒くなっていた。大気中に舞う土埃のせいだ。

 家並みが途絶えると、とたんに雑草が生い茂る林道に入った。地図によると、ここからはカーブの連続だ。助手席側の急斜面が思いなしか膨らんでいるように見える。豪雨の影響だろうか。

 北村は緊張からくる咽喉の乾きを潤すため、ペットボトルを取り出した。少しの量でも人心地がつく。

 チラリと荷台に投げ捨てた新聞紙を見る。今はどうみても、広告写真を刷り込んだ、ただの古新聞にしか見えない。さっきは、これのどこが怖かったんだろう。弾む車の揺れに身体をまかせ、北村はむっつりと考えこむ。車がバウンドして古新聞のボールは転げた。荷台の隅で止まると、ちょうどあの目玉がこちらを見つめていた。

 今一度、その平べったい女の目を見て北村の大脳に「!」が立つ。

 むくんだような一重まぶた、だ。

 だから、それは……早苗の目か。そうだ。そうだ、あれの目だ。

 とはいっても、その早苗と呼ばれる女は、けっして女優のように美麗でもなければ個性豊かでもなかった。ただし十二年前の独身だった北村には、そのように見えたかもしれないが……。

 早苗は現役の「妻」だ。彼女は同い年で、小学六年の息子を一人産んでいる。曰くありげな紹介だが、彼女は翔馬という男子を出産し、遺伝子学的にも北村義人の子供に間違いはない。人から見ればそれなりによく似ていると言われる──褒め言葉になるかは別としても。

「やっぱり私立の付属中学を受験させたほうがいいわよね」

 それは早めの入梅宣言があった日だった。仮想的な団欒の夕食後、受験に関する資料を食卓に広げて並べて、早苗はひとり席に着いていた。「集合」をかけているが、北村はこちらに背を向けたまま。ソファで何やら読んでいるようだ。

「ねえ、あなた、聞こえているんでしょう?」

 息子の進路について相談すべく、さっきから早苗は、二度三度と声をかけていた。北村からは生返事のひとつもない、他所の次元に移り住んでいる。

 北村は、この日も帰宅してからずっと無言だった。なにやらカバンから取り出した紙面を睨むようにして、幾度も読み返し、ぶつぶつと独り言を発していた。

 十分以上も彼の視線は紙面を往復していたが、そのうち面倒くさそうにA4のファイルケースに仕舞うと、カバンの中へ片づけた。だが、頭の中では、ぶつぶつと独り言は続いていた。背後のテレビでもニュースキャスターが、ぶつぶつと独り言のようにプロ野球ニュースを続けている。北村の大脳もおなじように、ぶつぶつとだらだらと同じ文言を垂れ流し続けている。そこに早苗の灰色の肉声など入り込む余地はない。

 部屋中が、北村の大脳から流れ出た独り言で、満たされていく。どこまでもどこまでも独り言が増殖していく。今の北村の世界だ……。

 そのとき、ふっと、北村の世界が消えた。

 見るとテレビには何も写っていなかった。誰が電源スイッチを切ったのだ。

 ブラックアウトしたテレビの大画面。そこにはリモコンを握っている早苗が写り込んでいた。

 北村は振り向きもせず、画面に写りこむ早苗の表情を凝視した。

 照明の角度のせいで、早苗の顔はべったりと黒塗りだ。見た途端、北村の息が止まった。いくら見ても黒い彫像は、骨と皮だけに削ぎ落とされた異形物だった。

 まさか、これは妻か? 

 もしや、これは早苗だったのか?

 これは俺の子を産んだ女なのか?

 恐怖の長い爪が背中を這い下っていく。

 ゆるゆると北村の首振りは止まらない。

 ──いいや、それは断じてありえない! これが早苗のはずがない!

 振り向きざまに北村は、目をつぶったまま、迫り寄ってくる恐怖に抗って拳を握りしめた。市役所職員として、課長として、男として、人として、異形なるものは駆除しなければならない。確固たる信念と揺らぐことのない確信を武器として、拳を振り上げた。

 実際、不気味な手応えがあったし、悲鳴もあがった。だが、北村は駆除抹殺を中断する気にはなれず、数度にわたって、腕を振り下ろした。手の平や手の甲が、ぐちゃぐちゃと肉の爆ぜる音を生む。

「やめてぇぇぇ」

 ゆっくりと満足のいった思いで目を開くと、やはりテレビの真っ黒い大画面がある。しかし、写り込むものは、強張って立ち尽くす自分の立ち姿だ。その足下には異物の姿を象った、うずくまる早苗の姿があった。いや、妻によく似た異物の人影だと、北村は自己認識を覆さない。どうやって家に入りこんだのだ! 俺の妻はどこにやったんだ! この化け物めが!

 異物が、ばっと顔を上げた。巨大な目玉が動いていた。平たい眼球だった。

「そんなに息子が嫌いなん? あの子があなたに何をしたん? ただ産まれてきただけやないの。違うん? あんた」

「馬鹿なこと言うな

 ふと見ると、早苗が、殴打で膨れあがった顔面を、液晶画面に映していた。平べったい目は、痛烈な非難の矢を放ち、北村の魂の奥底を、どこまでも見抜くように光っていた。しかし、北村の心があるといわれている「意識」までは届かなかったようだ。

 それがいつの出来事なのか、あるいは適当に記憶を捏ねまわして造り上げた虚妄なのか、率直にいって北村にはわからなくなっていた。

 ただし、殴打の事件から北村家の構成員は、長男と母親と、そしてそれに付随する同居人が一人、という内訳に再編成された。ともすると「家庭」を神聖な安らぎの場だと決めかかってしまいがちだが、家族があえてそれを希求しているだけで、砂上の楼閣と家庭はよく似ている。

 家族ってなんだっけ……家庭内に沈殿していた澱ものが、腐臭を放っている。こいつって、なんだっけ。

「北村さん、課長……?」

「おうっ」

 驚いたふうに北村は返事した。

 車は、けっこうな坂道を登攀しているところだった。寝たくとも寝られず、醒めたくとも醒めきらず、その狭間で夢に浸っていた感じだった。北村は相撲取りのように両頬をピシャピシャと叩いた。ずれ落ちるメガネは油膜でぬめぬめの油壺じみている。

「済まんな、ちょっと寝てたな。運転かわろう」

「や、でも、ほら」

 藤岡は減速しながら顎先で前方を示した。もうスモールライトだけでは心もとない暗さだった。きっと本格的な雨のせいもあるのだろうが、山間では夜は早い。藤岡が何を見ろというのか、北村はメガネのレンズを拭いて掛け直した。

 楡の枯木の下だ。赤い光りが左右に揺れていた。おそらく交通誘導で使われる合図灯だろう。藤岡が車のヘッドライトをアップにすると、人陰が、群青色の闇を背にして、くっきりと浮き上がった。思っていた通り、発光帯の縁取りのある雨合羽の男たちが数名、山路に展開しているのであった。すこし後方に赤く塗られたワゴン車が停まっている。道路封鎖と通行止め、そのどちらかだ。

 やられたな……。北村たちの大脳は、すでに来た道を引き返して、別ルートを検索していた。だが、ここまでに迂路や脇道があっただろうか。記憶では一本道だったはずだ。

 運転席側に合図灯を振りながら、男が駆けてきた。藤岡がウィンドウハンドルを巻き下ろすと、湿った大気が車内に流れ込んできた。何やら物が饐えたような臭いがする。雨量はそこそこだが、風は、さっきより弱くなったぶん気分が軽い。

「ご苦労様です。県庁の方ですか?」

 言いながら男は雨合羽のフードを少しばかり上げた。胡麻の髭面が現れた。が、すぐにフードの影に隠れる。初老なのだろうが、がっしりとした体躯を成していた。

「あっ、わたしたち市役所のものです。危機管理防災室の藤岡と申します。この道は使えないようですね」

「おおっ、市役所の人? 連絡が行ってなかったか。ついさっきだ。栗字川に注ぐ枝川の一本が土石流でやられてな、その土砂が県道十八号線を分断した。きっとこの先はもっと大きくえぐられているでな」

 男は北村の方にも目顔で挨拶した。北村も応じて手を上げる。

「防災室の北村です。ほんとうにご苦労様です。十二分に気をつけてください。するとこの先の小名瀬町には車では無理ですかね。脇道なんかは」 

「車が通れるような道は引き返してもないな。農道の狭いのがあったような気がするが、もう陸の孤島だわな」

「裏手からなら入れるけどな」

 別の若い男が懐中電灯で斜面を注視しながら言った。足もとをコーヒーミルクのような湧水が流れている。

「いったん県道を隣の脇坂まで行って、ぐるりと国道ぞいに回り込めば、今なら行けるはずだけどな」

 若い消防団員は利発な感じで初老の男に言った。

「どのみち、この地震だから難しいがな」と答えておいてから、車内に振り返って「おっ、俺は、第十五分団で団長やってる長谷川という者じゃけど、防災室といったら小此木さんのとこか」

「ええ。その室長から、倉土師山の南西部斜面が崩壊して小名瀬町がやられたと聞いたんですが、もうこのあたりも土砂崩れの現場になるんですかね」

「や、それはもっと先のほうだ。おらたちもそっちへ戻るつもりだったけえが、余震がひでえ。先週から雨で緩んだ倉土師山は、どの斜面が崩落しても不思議ねえ状態だからな」

「なんとか行けませんかね……」

 藤岡が無線機を見つめながら、ぽつりと言った。防災無線で、この情況を小此木に伝えれば、職務遂行は困難を極めるとして、行動予定の変更は充分にある。県庁に戻ったら、ほかに彼らがすべき仕事は山のようにあるのだ。しかし北村はその無線機を手にしなかった。道路の端っこまで歩きだした長谷川分団長の動向を見つめていた。そこはもう崖ぷちになる。分団長は懐中電灯で下方を注視した。

「分岐点まで戻るのに一時間要してしたとしても、そこから小名瀬町へ通じる脇道が見つかればいいけど、この雨と地震では心許ないです。だとすると県道のサブロク使うしかないですが、それには所要時間は三倍になります。それもすべてがうまくいっての計算で」

「この辺の地理は詳しいんですか」

 藤岡が若い消防団にたずねた。同年輩と見たようで、二人はコクリとうなずいた。

「あ、自分は本田といいます。団の副長を去年から務めております。よろしく」

「防災室の藤岡です。ただのヒラをして五年めです。防災のエキスパートとして実力を示せるはずでしたが、なんだか素人じみてすいません」

 すると北村が無表情のまま、首を横に振ってみせた。「これから、これから」

 本田が小鼻に皺を寄せて苦笑いを浮かべる。すると長谷川が、本田と藤岡の間に手刀を挟むようにして言った。

「──このちょっと下に、萩原さんの農道があるはずなんだがな。軽トラを畑まで入れるとかでアスファルトで固めたやつだ。あ、ほら、あれだな。見えるか」

 確かにそれは足もとの斜面を十五メートルほど下ったところにあった。暗くて全体は見えないが、雨に濡れて黒々と光っているのが舗装道路に間違いなかった。県道と並行して西に向かっている。小名瀬町に通じているのだろうが、走っている車はないようだ。そこへ華奢な体つきの団員が駆けつけてくると、

「ああ、あれならさっき、ここまで車で来る途中でやられているのを見ましたよ。私道の方の入口が倒木や落石で入れんようになってました!」

 なるほど、だから誰も利用していないわけだ。みないっせいに溜息をついた。

 重々しい足取りで長谷川が北村たちの車まで戻ってきた。さっきは気づかなかったが、彼らは一様に高濃度の焦燥感に包まれていた。それもかなり深刻で切羽詰まったやつだ。

「わたしらもここでぐずぐずしてられんのです」

「長谷川さんたちも小名瀬町に何か急用でも?」

 分団長は急くように答えた。「わたしらは地震が発生してから、みぃなして中央消防署に馳せ参じたんだ。警察署からも招集依頼があったもんでな。そしたら、いまんところは、運良く大きな火事は発生してないから、持場に帰って、それぞれ救助活動に専念してくれと指令が変更された。んでもって、とんぼ返りで引き返してきたけえが、行きはよいよい帰りはなんとやらだ。つい二時間ほどまえまで、ここはこんなじゃなかったんだぜ──」そこに若い団員が後をつづけた。「実を言うと、ここにいるほとんどの団員が、北斜面の造成地に家を持っているんです。そこがどうも土砂崩れに呑まれたらしいとさっきわかったんです。無線で、本部から」

「徒歩でも帰るつもりなんだ、おれたち」

 本田が怒ったように言葉を継いだ。他の団員も深くうなづく。みないっせいに北村たちを意味ありげに見つめた。

 北村は、彼らの思いが何かがすぐにわかった。彼らは北村たちに小名瀬町へ同行しないかと言いたいのだ。危険なのはわかりきっているが、こんな最悪な状況下では、人手はいくらでも必要になる。だからといって北村たちに、現場へ同行してくれとは頼めない。彼ら消防団員としては、ここは安全を第一優先と考え、北村たちには避難勧告すべきなのだ。

 何がそうさせたのか、このときの雰囲気を、北村は正常に嗅ぎとることができた。冷静な口ぶりで藤岡に言う。

「藤岡君、防災室から預かった荷物には合羽が入っていないがどうするね」

「ヤバイ。持ってきてないんだ。残念ですね」

 二人はいかにも、ここに合羽さえあれば、みなと同行して災害救助に助力するとでも言いたげだ。しかし、あいにくと、ここに合羽はない。考えてみれば、防災管理室の職員が、ずぶ濡れになってまで土砂崩れの危険に身を晒さなければならない事由はないのだ。二次災害は極力避けるべし。北村の持論でもある。まして雨脚がさきほどより強くなってきた。この状況では、安全のためには引き返すべきだ  と声高に思われたが。

「とにかくいったんここは、出直すしかあるまい」

 どこか、してやったりといった感じで北村が言った。なるほど、これはお役御免の手形になる。小此木に無線をつなぎ、分団長から直接「危険回避のためにも北村と藤岡の両名は県庁へいったん帰還させたほうがいい」と助言してもらえれば万事片がつく。だが、 

「もしよければ予備の合羽が車にあります。警備用のものですがお貸ししても構いませんが」

「あ……え、はい」長谷川たちにしてみれば純然たる好意だが、北村にしてみれば最悪の好意だった。「合羽の予備が? よかった。あるんでしたら、ああ、お借りしてもよろしいでしょうか」

「それでは、お二方は御同行して下さるんですね、感謝します……」

 若い団員が力強く言うと、長谷川は何度もうなずいた。

「もちろんですとも。もともと小名瀬町の被災状況を調査するのがわたしたちの仕事ですから。こんなときに消防団の方々と同行できて目的地にたどり着けるのでしたら、これはもうラッキーというべきですよ」

 北村は毎度のことながら、あからさまに誠実な職員になりきって答えた。しかし、上司の言葉とは裏腹に、その胸奥では、きっと恨み節が、ぐるぐると渦巻いているのだろうと藤岡は想像した。たとえば、

 ──このままいけば二次災害の餌食ぢゃねえか。おい、おい、俺たちを巻き込んでどうするつもりなんだぁ? 俺たちになんかあったら、どう責任とるってえんだよ。てめえたちだけでやるこったろうが。

 きっとこんなものだったろう。

 雨音の中に、嫌悪感まるだしの舌打ち音が、幾度も幾度も露骨に響いていた。

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