第3話

 三


 確かに直下型地震に襲われた市街地にしては、ド肝を抜くような凄惨な光景に、彼らは出くわさなかった。せいぜい倒れたブロック塀で路地が塞がっていたり、落ちて来た瓦が散乱していたり、腐った支柱の物置小屋がぺしゃんこになっていたぐらいで、被害総額の桁数も他県の大災害とでは比較にならないほどだった。このまま済んでくれれば、財政難に苦しむ市にとっては「物怪の幸い」と言っては罰当たりかもしれないが。

 実際の地震による被害を目の当たりにして、積み重ねてきた訓練と知識が、本来備わっていたはずの責任感を呼び起こしたのだろうか。ようやく北村は落ち着きを取り戻して、周囲の状況把握に目を光らせた。

「気象庁の発表は訂正がありそうですね」

 藤岡が車をバックさせながら言った。

 ロードマップどおりに、セブンイレブンの信号機を右折すると、斜めに傾いだ電柱がバリケードとなっていた。近隣の被害状況では不自然な光景ではあった。いずれにしても、また迂回しなければならない。電柱には支柱から外れかかった変圧器がぶら下がっていた。周囲一帯の停電はこのせいだろうか。

 どの信号機の目玉も黒々として死んでいる。徐行と一時停止で車は恐々と進んだ。

 この地域から地盤が変わっているのが一目でわかった。倉土師山の裾野を横切る県道十八号線が前方を縦にまっすぐ貫いているが、左側つまり小波瀬町の方面は、倒壊した家屋や、瓦が落ちて野地板が剥き出しになった屋根が無数に確認できるのだ。見上げれば、いつ降り出すかわからない雨模様である。

「これでも火災は発生しなかったんですね」

「これから、というのもあるんだ、油断するな」

 そういう意味でもなかろうが、藤岡が路肩に車を停めた。藤岡が周囲をデジカメで撮影、注意深く肉眼で見回すと、

「あそこ。行きましょうか」藤岡は、すでにドアを開けていた。

 住民たちはブルーシートを慌ただしく広げていた。県庁を後にした時はなかった、いやな風が出ていた。紙くずだの土埃が捲き上る。

 徐行から停車した北村たちのワゴン車を見て、救援に駆けつけてくれたと思ったのだろう、住民たちは作業の手を止めた。こちらに手を振る老人たちの顔が真剣だった。

 ペコペコと頭をさげながら、先に降り立った藤岡は、腕章の位置を直す。北村は藤岡と住民たちをカメラに収めてから、手動ウインドウハンドルをぐるぐる回して、窓ガラスをきっちり閉めた。

 大声で「すいません。すぐに救援要請しますので、ご近所の方は最寄りの避難所へ行ってください……」

 藤岡の冷静な声が聞こえてきた。

「水も電気もねえぞ!」

 ガラガラ声の老爺が北村を睨んだ。

「えっ?でもそれって……」

「俺らは栗原学区の自主防災のもんじゃがよ。消防団が一度寄っていったきりで、あとは音信不通もいいとこじゃが。いったい、いつまで待ってらええのんしゃ!」

 長靴とサンダルを交互に履いた老婆が、さきほどの老爺を押しのけて怒鳴ってきた。髪の毛は、どうやったらそうなるのか総毛立ちだ。気づくと、北村ら役人たちを睨みつけてるのは、老婆ばかりではなかった。あちこちの路地から、助けを求めて住民たちが現れたのだ。どこか殺気立っているのがわかる。自主防災訓練は毎年行っており、住民たちはどこに避難すべきか心得ているはずだったが。

「パニクってますね。誰か先導してやらなきゃダメのようです」

 年下の藤岡だが、ともすると上司の北村より指導力がありそうだ。戸惑うことなく一旦車に戻ることにした。すると、山背のような不穏な風が、不意を衝いて吹きつけてきた。あちらこちらで、ブルーシートがめくれ上がり、ゴミくずが吹き飛ぶ。

 北村も、ここは手助けが必要だと察したらしくドアを開けたが、避難誘導には資料も要るぞと気づき、荷台からバックパックを引き寄せた。中に避難路の最新版が数部あるのをさっき見つけていたのだ。

 右手で資料を探しながら、左手で手動でウィンドウを上げる。

 なぜか大した作業でもないのに、北村は手間取ってしまった。

 資料を数部取り出して、さて降りようかした、まさにそのときだ、絵も言えぬ悪寒が、背後からむしゃぶりついて抱きついてきたのだ。軽い目眩と頭痛、気味悪い悪寒に嘔吐感が迫り立つ。

「なにぃ!」

 北村は思わず資料を摑んでいる手で胸元を押さえ、本能的とでもいおうか、反射的に視線を足もとに逃した。

 ──間違いない、ドアのすぐ外だ。何かがいる。何かが凝っとこっちを睨んでいやがる!

 助手席の床を睨みながら、北村の全身は石のように強ばっていった。どうして、どうして、どうして……と自問し、見なければ、見なければ、見なければ……と自らを叱咤するも、硬直していく身体はひくりとも応じない。そのままそっとしていれば恐怖は過ぎ去ってくれるとでも思っているのか、北村の足なぞはあまりにも力んで、靴の中で痙攣しだしたではないか。いや、足ばかりではない。直角に曲がる首筋もブルブルと痙攣し、ガタガタと肩まで小刻みに震え、そのうち舌でも噛みちぎってしまいそうな按配だ。

 ──なんか知らんが、行ってくれぇ! 頼む、消えてくれぇ!

 だが、ドアの外の何かは、一ミリも動くつもりはないようだ。

 ──な、なんなんだ、こいつは! 

 ただひたすら、消えろ、消えろと願う北村だった。それが今度は、逃げたい、逃げたいに変わった。だからといって逃げ出す勇気なぞはない。そもそも彼に勇気などといった高尚なものには縁がない。ただひたすら「逃げなければ! 逃げるのだ! 逃げる」のみで今まで世界を築きあげてきたといってもいい御仁だ。

 そのため、一秒が永遠のながさに伸びていくのは必然的な結果だった。

 恐怖には人を惹きつける得体のしれない重力がある。それに囚われると、なかなか逃げ出せないよう、人の身体には、種族保存の力がはたらくのである。

 もう北村の眼球は、恐怖でひくりとも動かない。一ミリでも動いたが最期、取り憑かれて殺されるぞとばかり、眼球は六本の外限筋にしがみついているのだった。そうなると呼吸器官も見捨ててはいない。肺腑もしばし機能不全にしがみつき、隣近所のよしみで胃袋もぐるぐると自己回転しはじめた。

 ──ガアッ。

 強烈な嘔吐感が、屈み込んでいた上半身を下から突き上げた。これまた必然的に上半分は起き上がり、肺に新鮮な空気を取り込もうと口腔がガバッと開く。その瞬間、視野の最果てに、それがうすぼんやりと写り込んだ。

 北村は見てしまったのだった、巨大な目を。それは、そいつの顔の半分以上もあり、とろけそうな粘液を垂れながして止まぬ眼球だった。あまりの巨大さで、鼻梁は左右から押しやられてひしゃげ、たよりない肉棒と成り果てていた。強固だった頬骨さえも万里の長城のごとく、今では顔面の縁を飾るだけとなっていた。まぶたは折り重なった肉襞で、あふれ出る粘液が、たっぷりと棘状のまつげに滴っていた。

 ミンチと化した恐怖が、むき出し状態で北村にのしかかってくる。

 怖さで視力が滲んでいく。だが、わずかにそいつの輪郭と明暗だけが視認できた。

 わかる。ぬらぬらと濡れ光る眼球が、ぐるぐるぐると蠕動していることを。わかる。巨大な眼球たちは、間違いなく、俺の顔そのものをたいらげようとしていることを。わかる。虹彩に、瞳孔に、毛細血管に、それにそれに……わかる。わかる。わかる。

 ──何があっ  ! 

 誰の叫び声かわからない。眼球だとすれば、どちらか片方だ。

 次の瞬間、眼球たちのおぞましさは、車内どころか北村自身の裡側にも飛び火してきた。伝染というよりは共振的に、いやそれより跳躍伝導と描写すべきだろうか。恐怖は精神世界に転位してするのだ。それはたちまち自己存在の圧力を高め、北村の確固たる意識をものともせずに、彼の肉体をも侵食しはじめた。北村の意識が、ミンチ状の恐怖でがんじがらめとなっていくのであった。

 ──なぜ動く! どうしてそっちを見るんだ! 気でも触れたのかおまえは! 

 首ふり機能が壊れた扇風機のように、北村の首は行ったり来たり、ギックギックと小刻みに痙攣しはじめた。そのたびに視神経は、ぬらりとした映像を大脳へ送信した。

「あれは……あれは……」 

 ドアの外、目を上げると、窓の外には、それがいる。巨大な女の平べったい顔がいる。

 その女には水底の黒曜石じみた瞳孔があった。誇らしげに瞬間で、北村の脳裏に貼りついてきた。

 北村は思わず「ッヘッ」と奇声をあげた。目をこすることで、自分には瞼があることに気づいた。目をつぶった。精神恐慌が一拍おいて襲ってきた。少しばかりの理性を打ちのめす音が……ギジャッ! と舌を噛んでいた。パニックと狂気が入り乱れ、あらぬ旋風が意識に吹き荒れた。

 この後どうなるのかと、北村の意識は途方にくれる。どうしたらよいのか、意識は舌を噛み続ける。

 激痛だけは彼にとって妙薬だった。意識が意識を抱きしめた。互いに抱きしめ合うことで恐怖は薄らいでいくと錯覚して。

 ……ゆっくりと瞼がもちあがる、もちあがる……ゆっくりと。

 だがはたせるかな、北村の見たものは、錯覚でもなければ幻覚でもなく、実際に、そこに貼りついていたのだった。

 溜め込んでいた半年分の溜息が全身から溶け出ていく──そんな感じだった。

 それは顔でもなければ女でもなく、ただの濡れた古新聞だった。

 自分でどうしたらいいのか、北村の思考は途方にくれた。まずは、ぐったりした照れ笑いがお似合いか。北村はドアを開けると、震える手で古新聞の端を鷲掴みにしてウィンドウから引っぺがした。古新聞には、馬鹿でかく、女優の顔が印刷されていた。このまえ離婚した人気女優だった。裂けて皺くちゃになった女優だった。くしゃくしゃにして投げ捨てようとしたが、そこに藤岡が戻ってきた。タイミングが悪かった。酷い間があった。

「避難所に消防団さんたちがいるはずだから、彼らに頼むといいと言っておきました」

「あ──すまんな、君だけに仕事をさせて……」北村は女優の平たい顔をソフトボール大に丸けて荷台に投げ捨てた。

「急ぎましょう。なんか雨が本降りになってきそうですよ」

 こんなときに、まさしく〝泣きっ面に蜂〟だな。北村は胃の腑が苦くなるのを感じた。まだパニックと狂気の入り乱れの余韻が、精神のどこかでドクッ、ドクッとする。

 今日の俺はなんなんだ……。

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