第2話 

              二


 曇天の下、いくつもの警報が、遠くで、近くで、反響しあっていた。

 土曜の未明ということと、初夏まぢかということもあってか、出火の報告は未だ入っていなかった。消防車とパトカーが出動したのは、城西地区で倒壊家屋が数件発見されたときで、いずれも無人の廃屋然とした空き家ばかりだった。もしや解体中だったのか? 消防隊員は微苦笑うかべた。

 その後は、県庁の駐車場にも、県警のパトカーの出入りが激しくなって、被害報告が届きはじめた。紺色の制服たちがひっきりなし正面玄関へと駆けこみ、ややもしないうちに、再び玄関に現れる。その警官たちに紛れて現れたのは、北村たちの鈍重な姿だった。

 二人は、とりあえずといったふうに駐車場へむかった。

 駐車場の北面は計画どおり、幾つもの大型テントが運びだされ、設営準備にあたって担当職員が手配書を片手に駆けずり回っていた。時間に追われて大童だ。

 さて自分たちに融通してもらった車はいずこに。

 第二駐車場には、車庫から引きずり出された二台の公用車と、派手な色の自家用が四台、赤い三角コーンで仕切られた区域に並べられていた。自家用車は、県庁職員などが公用で使えるよう申請したものだ。すでに十名ほどの職員たちがエンジンをかけたまま、予め決められた職務の確認作業を行なっているのだった。

 北村たちが、仕切りの中でうろうろしていたが、彼らに呼びかける物もなく、次から次へと車は発進し、たちまち駐車場の出口へとカーブを描いて消え去った。

 残された車は、痛々しいまでに使いこまれた軽のワゴン車だった。傷や凹みのない箇所はない。ガラスはすべて無事らしい。ただし、焦げ茶色した汚物を思わせる手形が、べたべたといたるところに付いていた。藤岡は鼻を近づけて臭いを嗅ぎ、渡されたキーを鍵穴に差し込むと、それだけでドアは自然と開いた。唯一、車検ステッカーだけが真新しく、これが偽物でないことを祈るばかりだった。 

 北村は、もうどうとでもなれとばかり、ふてぶてしい素振りで後部席のドアを開けた。予想通り、ホコリとカビの臭いだ。

 と、その北村の脂身の背中を、どんっと叩く者がいた。

「痛ぅ!」

 振り向きざまに、北村は前屈みになりながら右手を拳骨にした。

 藤岡は何事が起きたのか判らず瞠目する。今の北村ならば、無言のまま人に殴りかかってもおかしくない。

 だが、北村は真っ赤になりはしたものの、背中をど突いた者の正体を見るや、たちまち白茶けた。妙な間があってから、うつむき加減でペコリと会釈したではないか。

「ようっ、課長さん。元気そうじゃないか」

 それは、いかにもがさつな感じの男だから、がさつな声だった。男は、紺色の作業服を、着るのか脱ぐのかわからぬ格好で、北村を斜めに見上げていた。双方ともに嫌悪感がむらっと漂う。

「どこのどいつかと思えば、柘植つげじゃねえか」北村の声は突然しゃがれた。「鈍器で殴られたかと思ったぜ。ちょっと見かけなかったな」 

やはり今日の北村さん、やはりどっかおかしい。

 藤岡は痛感した。何があったのか、気になるところではあるが、それよりこの作業着の男は何者なのだ。年格好から推測すれば同期の役人だとは思うが……。

「そういう北も、ここんところドブ板横丁でみかけなかったが。なんかあったか」

「……食えねえ野暮用だよ。おまえみたいに浮気の証拠消しで駆けずり回ってるわけじゃねえさ」

「アホ抜かせ。広域の案件だ。鳥取で馬鹿をみた」

「いつか話していたあれか。やけっぱちの空振りだな」

「うっせえよ。この地震災害の件で呼ばれたんだよ俺は。県警本部のところに鳥取の本部長が泣きついてきたってとこだ。畑違いだっていうのに知事もわかってねえし。それより北村はどこへまたふけるつもりだ? 念願かなって地震が来てくれたんだ、真打ち登場っだろ?」

 チラリと北村の表情に影が差した。もともとニュートラルな顔つきだったが、むくれてバックギャの雰囲気だ。

「今は冗談が酸っぱいぜ。小波瀬町で発生した土砂崩れの被害調査だ。俺は、死者が出てから動きだすあんたら官憲とわけが違うんだ」

 北村は、そう言いながら藤岡の様子に目をやった。藤岡は苦笑いの下で、バリケードを用意すべきか迷っているところだった。

「へっ、言ってくれるね。同じ公務員といっても、おまえたち事務員さんたちにはわからんだろう。まっ、なんとかあんじょう乗り切ってくれや」

「ああ、そっちもな」

 ほんの数分たらずの対話だったが、管理職の役人が見せる、訳知り顔の応酬といったところか。

 

 作業服と別れて数分後、彼らは配車に積まれた用具とご対面となった。県庁のネームがなければ、間違いなくただの廃車だ。荷台には登山用りュックが準備されていたが、どうも個人の物らしく〝スズキ〟と〝岸田〟とマジックで書き込みがあった。

 藤岡に運転を頼み、北村は積荷と装備品を確認した。

「おい、このカーナビはどう使うんだ?」

 北村がいじっているのは昔なつかしいカーオーディオだった。むろん、どこのスイッチを押してもディスプレイが飛び出てくるはずもない。国営放送の地方局がようやく流れ出したぐらいだ。リュックの中身もお粗末なものだった。思ったとおり、ペットボトルのお茶が二本あるだけで、空腹を紛らわせられるような代物はなかった。災害無線機が二機と充電器。他に懐中電灯やロープに各種工具。こんな用具で俺たちに何をさせようというんだ。北村は溜息をもらす。

「さきほどの方は県警に勤めていらっしゃるんですか?」

 藤岡が気を利かしたつもりで話題を振ったが、やぶ蛇だった。

「うっせえよ。児童ポルノしか興味ない刑事さ。そんなことよりよ、溜息のガス元はクソの室長だろがよ」語気も荒く言う。「なんであんときもっとごねなかったんだ。ただの厄介払いだとわかんねえのか」

「わかってました」

「だったらどうして唯々諾々いいだくだくと受けたんだ」

「ご存知のとおり、僕は以前、東北のほうで災害に遭いました。その後、両親の親戚が長野にいたので、一家そろって身を寄せたんです。着いた当初は、人の情けというものが沁みてありがたく思えたんですが、ひと月もしたら、手のひら返したように、えげつない差別を受けました。ずいぶんと家族みんなへこみましたよ。『福島に残って、なんでおまえたちも頑張らないんだ。卑怯だろう』と、彼らもいじめてるつもりじゃなくて、真剣に言ってるんですよ。私たち家族は逃げているようにしか見えなかったんでしょうね」

「逃げてる? 冗談じゃねえ、自然災害から逃げられるとこなんかあっか」

 そこへ無線機がブリリリッと着信音をともなって震えた。

「はい、北村です、どうぞ」

 ──こちら室長だ。ごくろうさん。もう見ていると思うが、そのロードマップも県庁側からくすねたものだ。赤ペンで書き込んでおいたルートを使ってくれ。そこは警察の封鎖がまだ完了されていない箇所だ。どうぞ。

「もし通行止めになっていたら? ところでこの車はなんですか。目的地まで動いてくれるんですかね。どうぞ」

 ──そんときは迷わずに迂回だ。徒歩でもなんでいい、強行突破だよ。さっき梶原町のバス通りの信号機が停電になったと連絡があった。この先もっと深刻な状況がわかってくるだろう。なっ、北村君、今ここに防災訓練のスケージュル表なんてないんだよ。全部が全部アドリブで対処していかなきゃならんのだよ。──どうぞ。

「それほど機転の効くタイプじゃないですよ、自分は。どうぞ」

 ──おいおい、『地震に襲われても優等生!』なんていやしないぞ。せいぜいわかったふうな顔して走っているのが関の山なんだ。やっていくしかないんだ、俺たちは  どうぞ。

 そのとき藤岡が、独り言のようにつぶやいた。

「それにしても空は静かですね。東日本のときなんかヘリコプターが凄かったですよ」

 彼はさっきから、フロントグラス越しに雨雲の垂れ込める空を睨んでいた。北村も助手席から曇天を見渡した。

「そういえば少ないな。熊本や鳥取も、すぐにヘリが飛び回っていたが、あれは地方テレビ局のヘリだよな」

「自衛隊や消防署の救難隊はどうなってんでしょう?」

 藤岡の疑問に北村が反応した。無線機を摑み直す。

「こちら北村です」

 ──おっ、なんだ。どうぞ。

「ここは中部管区なんだ、けっこう到着は早いはずだ。自衛隊への災害派遣は申請済みですか、どうぞ」

 ……。

「室長、聞こえているんでしょうか、どうぞ」

 ……。まだだ。どうぞ。

「MADADA──って? あっ、『まだだ』のことか。えっ、どうしてまだ。災害規模の確認が、だからですか? どうぞ」

 ──それもある。ただ福島や熊本より今回の直下型地震は規模が小さい──そんな気はするんだ。このまま鎮まればだがな。今後、被害の実態があきらかになっていけば、行政側の対処も即応していくだろうがな……

「まるで人ごとみたいですね。原発もなければ津波の海もない名峰市だからですか? 後手後手にならないようにと言ったのは室長じゃないですか。それで知事は? どうぞ」

 ──わかっていんだろう? 君たちも。その件に関しては彼らは共同戦線を引くんだ。全国首長会議でも自衛隊をこけおろしたからな。俺には、どうして自衛隊を蛇蝎のごとく嫌うのかわかんないがな。というより自然災害が発生するたびに、諸手あげて救済を拝み込む地方自治体の脆弱性を呪っているのかもな。自分たちの安全は自分たちの手で。どっかの首相の口癖だったろ。どうぞ……。

「あれですか市長の新年の挨拶ですね。耳タコの訓話。現実離れしすぎてませんか。市民の生活ばかりか生命が危険に晒されているんですよ。どうぞ!」

 ──わたしが首長たちに物言いしてどうする。ただでも災害活動の統率はとれてないんだ。そのうえ防対室の信頼までも崩壊させようといのうか。すべて市長と知事が決めたことなんだ。そんなに災害救助隊の出動を申請させたいのなら、一刻も早く、君たちがだ、災害現場の酷さをつぶさに報告することだ。目が醒めるような災害現場こそが、彼らを突き動かすハンマーになるんだ。──どうぞ。

 ……目が醒めるような殺害現場?

 北村は口パクでマイクに向かって怒鳴っていた。

 ……そのハンマーでやるとしたら、まずあんたの頭をかち割ることだな。あんたは、そんな危険極まりないところへ俺たちを送り出したんだぞ! 中間管理職の芸人めが。 

 実際に聞こえたわけでもないのに、タイミングよく小此木が咳をした。

 ──まっ、とにかく連絡は定期的にな。安全を第一に、だ。どうぞ。

 どうぞ……の後、しばらく北村は黙ってしまった。下唇を噛みしめて、吐くに吐けない胸苦しいほどの怒り、そして恐怖を嚥下していたのだった。

「はい。無事に帰還できることを祈ってください」

 それは北村に代わって無線機を握る藤岡の声だった。

「その無線機はおまえが持っていたほうがいいかもな」

「いえ、北村さんが使ってください。もう一機は予備としてリュックに入れておきます」

「なるほど。それで用が足されればいいけどな」

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