屍体志願

@tomemono

第1話 

            

      

                            能生織成


               一


 梅雨が明けて間もない七月の十六日。名峰市の職員、北村義人は、県庁本館の一階廊下を急いでいた。

 時間厳守のスローガンを守るべく、職員専用通路へ勇んで駆けこんだところまではよかったが、熟知していたはずの本館が、ガラリと様変わりしていたのであった。

 ──おいっ、一体全体、リフォームしたのはいつなんだよ。

 廊下は迷路と化していた。階段は忽然こつぜんと行方をくらました。そればかりか、職員たちも馴染みのない装いだ。みなクールビズで、えらく風通しのよさそうな服装ばかりだ。それに較べて、なんと哀れな格好なんだろう、俺は、と北村は思う。

 ──作業服といってもな、こんなゴワゴワした服地なんか、いまどきどこさがしてもありゃしねえぞ。それとも雑巾とまちがって着てんのか、俺はよ?

 そこまで毒づいてから北村は気づく。県庁の雰囲気が変わったのではなく、さっきはずしたメガネのせいで、妙な違和感を覚えるのではないか、と。そこで北村は立ち止まる。ごわごわの作業服の胸ポケットからロイド眼鏡をとりだして、鷲鼻に乗せてみる。むろん、確かめるまでもなく、迷路はやはり迷路のままだった。

 ──それともすべてがフェイクか。

 北村は、そこで空咳して周囲を見回した。冷静を装ってみた。

 ──そもそもここは県庁本館でも、一階廊下でもないのかしもしれんぞ。あるいは、今日は俺にとっては特別の日であって──いやいや、何の日だろうと今は関係ねえよな。時間厳守の意味が変わっちゃっていればいいけどさ。

 誰に向かって見せたのか、北村は、うっすらと笑みを浮かべた。不気味ではある。不気味ついでに、北村の目ん玉は必死に何かを探しはじめた。頬は鬼のように赤らんで、おでこは濡れた前髪が貼りつき、刈上げのうなじは、じっとりと汗が光っていた。汗で濡れた、彼の言う雑巾みたいな作業服の袖口で、まんべんなく顔を拭きまくる。すると、Gショックがプラスチック製のヘルメットの鍔に「コツンッ」当たって音立てた。

 その拍子に、自分がヘルメットを被っていたことに気づき、驚き、猛烈に痒くなる。吹き出る汗で蒸れて辛抱しんぼうたまらんのだった。

 カッとなって北村は、ヘルメットのあご紐をゆるめた。ずるんとヘルメットは背中の方へと落ちていった。     

 ──ざまあみさらせ! 

 コトンッ、カラカラカラ……とヘルメットが廊下の上で回転した。

 廊下を往き来していた数名の県庁職員たちが、一斉に白いヘルメットを注目した。だが足は止めずに黙認のみ。それがヘルメットでなくて、生首だったら立ち止まってやるぜ、といった風にただ通りすぎた。だが、ここにヘルメットを拾い、奇特にも北村に差し出す人物が一名あった。見ると、北村と同じ格好をした男であった。

 男は、周囲の職員たちに厳しい顔で挨拶すると、北村には、緩んだ表情を見せた。 

「課長、おはようございます」

「おうっ、藤岡、おまえもか」

「なんですか?」

「道に迷ったのか、この馬鹿たれが。いつになったら俺はたどりつけるんだよ」

「どうもすいません。僕もここは初めてなんで」

「俺はちょくちょく来てるがな、こんな廊下で、じゃんじゃん電話が文句を言ってるのは初めてだ」

 確かに振りかえると、館内のいたるところにスチールデスクやキャビネットが無造作に置かれ、PCに液晶パネルとキーボード、そして複合ファクシミリなどが、ルーターなどと電話回線の束でぐるぐる巻きにされて放置されていた。

 そのうえさっきから、プゥルルルルプゥルルル……と電子機器の大合唱だ。たまらず北村は、その発生源とおぼしい廊下の突き当たりにあるドアへ突進した。

「あっ、課長、そっちじゃなく……」

 ドアは全開だった。といより閉めようにもダンボール箱が邪魔だった。

 覗くと、薄暗い室内では、三基の長テーブルに、それぞれずらりとファクシミリやら携帯電話やらを並べ、十数名もの職員たちが、つぎつぎと掛かってくる電話をモグラ叩きばりに応対しているのである。

 ──まさしく鬼モグラだな。

 北村には、電話の内容が、どんな種類のものなのか、そもそもここは何課の何係の何なんなのか、それさえわからなかった。彼らの声は渾然一体と化し、とても廊下では聞き分けられないのである。いや、そもそも彼らの言葉そのものが、日本語かどうかも怪しいのだった。

 気を取り直して北村は、上司に指示された順路を思いだし、あわてて踵を返すと闇雲に突進を再開。そこへクールビズの女性職員が立ちふさがった。

「おはようございます」北村のしゃがれ声がつづく。「あのう市役所の危機管理は……」

 解体現場のような喧騒の中で、北村の声は届かない。女性職員はシカトしているわけでもないのだが、遂行業務の前では、やはり北村の存在はうとましい。

 この時期の地方公務員は、みなクールビズで爽快な身形をしているはずだった。それが緊急事態発生で、公務員、とくに北村の所属する名峰市危機管理防災室では、簡易ガスマスクと安全長靴、軍手ではなく作業用革手袋をつけるようにと、実に忌々しい命が下ったのだ。

「北村さん、腕章、忘れてまーす」

 ようやく、ダンボール箱の陰から藤岡の声が呼び止めた。北村はそこで立ち止まる。ダンボール箱に気をつけながら、ゆっくりと踵を軸にして振りむいた。藤岡聡がそこに出現した。彼は手を高く掲げて、何かを振っていた。その背後にチラリと見えたのが、二階への階段であった。

 ──くっそあの県庁女子がダンボール箱で塞いでいたんか!

 北村の顔面が歪んだ。そしてその目線は藤岡の手に注がれた。

 彼の手にしていたのは、オレンジ色からして、あの腕章だと北村は推断した。『危機管理防災室』の文字を印刷してあるが、文字面が長過ぎて『管理防』しか読めないシロモノだ、と。

 すぐにずれ落ちるメガネを人差し指で押し上げ、北村は藤岡と目を合わせる。

 同じく藤岡のおでこも、汗がふつふつと玉になっている。緊張しているのか、どこか顔色が冴えないようだ。おそらく自分も似たようなものなのだろうと、北村は思う。だが、ここは上司らしく、冷静さを装って、藤岡の服装を点検する。胸ポケットが妙な格好でふくれあがっているが、これは……。

 ──なにが入ってんの。

 北村が目顔で訊くと、

「あ、さっき半分しか食べられなかった……おにぎりです」

「胸ポケットにおにぎりか。非常識な非常食ってか」

 過度の緊張を和らげるように、冗談めかして言ったつもりだが、藤岡はきっぱりと横滑りする。

「いや、車の中で食べる予定です。北村課長はしっかと朝メシ食べたんですね」

「喰えっかこんな早くに。それに食欲なんかあっか」

「あの、例の健康診断の結果ですか。ご家族には説明するんだと言ってましたもんね……」

 北村だけがここで笑みをつくった。どうして笑ったのか自分でもわからなかった。皮肉を込めて家庭内の光景を、つまびらかに披露してやろうかと思ったが、反射的に口から飛び出したのは、先ほど更衣室で耳にした情報だった。

「──しかし直下型とはいっても天雲川の向こうは被害が少ねえようだぞ」

 北村がGショックを覗くと同時に、二人は階段を昇りはじめた。

「あっ、はい。特に城北地区は無傷の民家ばかりですよ。だからでしょうね、あのお二方にあまり緊迫感がないのは。本震の後で、自宅の門からのんびり出て来たそうです。迎えの運転手に、おはようとニッコリ挨拶しながらですよ」

「おふたかたぁ?」

 初手から話しが合わないが、これも非常事態のせいともいえた。北村は部下の頭の中を想像しながら横顔を見つめると、藤岡は軽く首を横に振った。

「あの二人ですよ。市長と知事。県庁で合流した後で、のんびり朝食を摂りながら防災訓練の成果を論じているときまではよかったんですがね、市長が危機管理防災室の仮設置案を持ち出した時点で、またぞろおっぱじめたらしいですよ……」

 藤岡は、自分のしゃべっている内容が、今この場にふさわしいのかどうなのか判断がつかないでいた。冷静に、冷静に、と自らを諌めているのだが、やはり浮き足立っているのは否めない。むろん上司でもある北村とて同様に気が昂っていた。ようやく三階のフロアにたどり着く。

そのときピシッピシッと窓ガラスが軋み、つづいて床が上下に弾んだ。二人は立ち止まる。揺れの度合いを何かで確かめようと天井を見上げる。市役所と違って、そこには天井にぶら下がっているような旧式の照明器具などなかった。

訓練で培ったはずの行動手順がチラリと脳裏をかすめるが、何ひとつとしてアクションを起こせぬうちに、揺れは鎮まっていった。

「震度4です!」どの部屋から出てきたのか、男が怒鳴るように声をあげた。「ただいまの余震の震源地は倉土師山と推定。震度は4。気象庁の発表です  

「それにしてもよ、どうして俺たちの市役所が撃沈しちゃったんだぁ? 市民税あげた怨みか」

「──同感ですね」

 藤岡は率直な感想を口にした。北村は大きくうなずいた。事あるたびに更新される災害予測図で見る限り、名峰市は活断層が確認されたとはいえ、他の地域に較べれば安全区域のはずだった。それがどうして? はじめて二人の思考は共感を得たようだった。

 北村が、そこで両耳の穴に人差し指を抉じ入れた。耳栓のつもりらしい。

「なんかうるさくねえ? 怒鳴りあってるのかあいつら」

「はあ?」

 藤岡はとっさに周囲を見回し、そして小首を傾げる。怒鳴りあっているような職員など、どこにも見当たらなかった。状況が状況だけに、辺りは騒然としてはいるが、けっして常識範囲を超えた騒ぎとは言えまい。この異常事態の最中にあって、お通夜のように、ひっそりと職務に勤しむ職員のほうが異様だろう。

「なんだこいつら、どうかしちゃってんぢゃねえのか」

 どうかしちゃっているのは、あなたのほうでしょうっ  と藤岡はツッコミを入れたかった。だが、北村のおかしな発言は尾を引いてつづいた。

「……奴らよ、火事場泥棒の自己申告を正当評価すべきなんだ。おまえもそう思うだろっ」

 藤岡は薄ら寒いものを感じ、眉を寄せて、何かあったんですか? と訊こうとして振り向いたが、もう声の届くところに北村の姿はなかった。


 気象庁が発表した地震情報では、発生時刻は七月六日の未明三時四十七分。震源地は名峰市の北西二十四キロ地点。福根山地の西端に連なる倉土師山と推定された。深さは約十キロ、震度は六強でマグニチュードは7・3だった。名峰市は、かなり以前から、災害発生予想マップには危険度の低い地域とされていた。それだけに、この地震は〝寝耳に水〟ともいえる。とはいえ、世界的に活動期に入った現時点では、安全な地域など、この世にはないのだろう。

 北村らの勤める名峰市役所は、一昨年耐震改修工事を終えたばかりの本館庁舎にあったが、第一波の縦揺れで、あっけなく一階主柱部分が粉砕、そのうえ液化現象で二階部分までが土中に沈下した。どう考えても手抜き工事としか言いようがないおそまつさだった。しかし、発生時が未明ということもあり、現時点での市内各地における被害者報告は未だに入っていない。その点、積み重なる不運に見舞われた他県の状況を思えば、かすり傷みたようなものだった。

 その〝かすり傷〟にしては巨額な損失を生んだ市役所本館の二階に、北村たちの危機管理防災室はあった。むろん庁舎は立入り禁止、そのうえ倒壊の恐れがあるとして半径五〇メートルが危険指定区域となり、この緊急事態こそ、もっとも活約するはずだった防災室の資料や通信設備が無用の長物と成り果てたのであった。関係者はみな一様に、改修工事の地鎮祭や厄払いを節約したからだと悲痛な面持ちだ。 

 その中でも、とりわけ地団駄を踏んだのは、現市長の滝川修だ。潤沢とはいえない市の予算から、半ば無理やり防災対策費を上乗せし、耐震改修工事や防災備蓄コンテナーの導入などを推進したのは、ひとえに県側の防災の関心の低さに異論を唱える、いわゆる政治的パフォーマンスだったからだ。たしかにそれは功を奏して、自主防災運動の火付け役となり、全国でも防災意識の高い市政として、事あるたびにマスメディアに紹介された。市長本人が直接ディスプレイに登場したことさえ度々あった。

 そんな折り、その試金石とばかり、直下型地震が名峰市を襲った。驀進してきた防災対策の真価が、ここで問われることになったのだ。がしかし、あれほど構造設計士にいくども図面を書き直させた、その挙げ句が、このザマだ。さぞかし滝川市長の腹は煮えたぎって激憤に悶えたことであろう。

 だが逆境こそが人を育てる畑だと、市長の行動は早かった。名峰市市役所から歩いて数分の距離に、東海県県庁本館が聳えており、市長は、そこに市の危機管理防災室を設営させてもらうことを知事本人に要請したのであった。市民を救うためなら、あらゆる可能性を追求する果敢な市長を演じきったわけだ。

 一方、県知事側では、おなじ被災地に二つの災害本部など要らないはずだ。ましてあれほど「防災無知」だと県知事を揶揄っていたのは他でもない市長本人ではないか。それが手のひらを返したように、共同歩調を要請してくるとは虫が良すぎる   そうつっぱねることができた。しかし、ここで県知事も考える。ここは名峰市長の誠意を汲んでやり、疲弊している市側を助力してあげれば、県知事として、政治家として、いや、男として器の違いを見せつけてやったことになるのではないか、と。そのうえ、多忙を極める県庁職員から数名を削り、名峰市危機管理防災室の設営に参画させることで、市側に恩を売ることにもなるのだ、と。

 ──これで二度と市長には減らず口を叩かせない。

 押し切られたように見せておいて、県知事は計算づくで受諾したのだった。


 県の怪しげなロゴマークが入った作業着と、折り紙じみたヘルメットをつけて、北村と藤岡は、名峰市の危機管理防災室を県庁の中に探していた。だが県庁職員に訊いても要領の得ない返事ばかりだ。スマートフォンで調べるにしても、名峰市の危機管理防災室に充てられた新たな電話番号なぞわかるはずがない。

 幸いにも無数のOA機器を運びこむ職員の中に見知った人物を見つけ、無事にそのドアを見つけることができた。

 県庁側が名峰市に用意した部屋は意外と広かった。第二会議室のプレートの上に「名峰市危機管理防災室」と印刷された厚紙がセロテープで貼られていた。

 開放された扉に踏み込む。やはり、天と地をひっくり返した状態だ。一見すると、彼らはなにをしているのか、北村たちには理解できなかった。ただ騒音と戦うようにして、右往左往しているようにしか見えないのだ。

「いつになったら俺たちが市民サマの被災状況を把握できるんだ」

 北村が相変わらず憤懣たらたらで低くつぶやいた。彼のみならず、ここにいる職員はみな同意見だろう。机上では、数台の大型ディスプレイが様々な情報を報じてはいたが、まだ危機管理防災室の本格的運営はいつになるのか、目処がつかないのだ。

「おーい、こっちだ、こっち。北村ぁ」

 その声はかなり小さかった。というより聞きづらかった。声そのものが雑音とさして変わりないのだ。だが北村の反応は迅速だった。そればかりか、声の主が誰であるのかさえも瞬時でわかったようだ。苦い表情が露骨につぶれ、いっそうまずくなっていく。

「あれっ、市長も一緒じゃなかったんですね。室長だけとは……」

 藤岡がそう言ってヘルメットを外し、ホワイトボードのほうへ向かって挨拶した。気後れした様子で北村も頭を下げる。確かに市長の姿はここにはないようだ。ホワイトボードの真ん前には、北村たちとは違うタイプの派手な作業着姿の小男が、ジタバタとせわしく動いているだけだ。それは北村の直属の上司、危機管理室の室長、小此木貞男だった。

 北村はスピーカーから発せられる緊急連絡や周知連絡のアナウンスに耳を傾けつつも、他の職員たちの邪魔にならぬようホワイトボードへと急いだ。

「遅いぞ君たち」

 ──だからなんだ!

 咽喉のどを突いてきた言葉をかろうじて呑み下し、ともかく北村は、半自動的に頭を下げた。

「他の職員たちも余震対策ができていなかったので、対応が遅れがちになるのではないでしょうか」

 藤岡が責任の所在をぼかして言い繕った。

 ぶそっと北村が生返事した。

 今朝の室長が不機嫌なのは、この進捗状況の悪さに違いない。北村は改めて室内を見回した。県庁側がてきぱきと災害本部を立ち上げ、その機動力と統率力を誇示できたのに対して、名峰市はただただバタバタと手際の悪さばかりが目立つ。

「余震の規模の想像がつかん。いつかの熊本みたいに、余震も本震ばりにでかいのがこなきゃいいがな」

 そう言ってるうちに小さく部屋が揺れた。

 瞬間、職員たちの手が、足が、表情が凍りつく。すると間髪入れずに小此木室長が声を大にして叱咤した。

「地鳴りがなけりゃ大丈夫だ。恐れんでいい。どんどんやっていくぞぅ  

 そういう自分も天井を仰ぎ見、その手はホワイトボードの縁を摑んでいた。

 小さな余震はすぐに納まった。ふんっとひとつ鼻息ついて、小此木室長は、二人を鮫のようにぎょろりとした。

「……」

 室長の声が、スピーカーのアナウンスに邪魔されたふりをして、北村たちは小首をひねった。うるさくて聞こえねえよ。

「よく聞け。裏の駐車場に市のワゴン車がある。さっき県庁の職員に頼んで満タンにしてもらった。車内には備蓄庫から集めた品々を詰めた背嚢がある。後で内容物を確認してくれ。鍵はこれだ」

「はいのうってリュックのことか」北村がつぶやく。「いや、そのう、僕たち避難係は、予知情報が出たときは市民の避難活動を援助し、地震発生後には備蓄庫の管理にあたることになっていたはずですが。え、はい、防災訓練でも実際になんども訓練をやってきてます」

 小此木はホワイトボードを無言のまま指さした。それはいいが、小此木の身体が遮蔽物となって、二人は死角にいる。それを察したのか、小此木は「おうっ」と一言うめいて、ホワイトボードの前から横移動した。

 読んでいるうちに、またぞろ北村のメガネが、暑さと脂でずり落ちる。

 三度目の余震──推定発生時刻は午前五時二十七分──によって、倉土師山の南西部斜面が崩壊した。地震が発生する二日前に降った豪雨で、すでに土壌雨量指数が警戒値を超えていたのだ。山体崩壊で発生した土石流は麓を東西に広がる小波瀬町を直撃。午後二時現在、土砂崩れによって寸断されたライフラインのため、被害の詳細は不明。無線基地局が土石流に呑まれたため、町民との通話も一部不能状態になっている。

「われわれがここでやるべきことは、被災者たちをいち早く救助することだ。そのためにはなんといっても正確な情報だ。情報なしでは救助活動そのものの効率が悪くなり、すべてが後手後手になる」

「といっても県道が封鎖されたんじゃ、行きたくても行けないのでは? それに情報ならば、消防や警察、そして役場の災害無線があるじゃないですか。それにわたしたちが現場に乗り込んでも……」

 藤岡がめずらしく反抗的な口ぶりだ。実のところ、実質的な訓練を受けてもいない市の職員が、むやみやたらに乗り込んでいっても、せいぜい足手まといか、悪くすれば二次災害に遭遇してしまうのがおちだろう。

 だが小此木は、待ってましたとばかり、北村たちに鮫眼を照射した。これが彼の得意技でもあった。

「確かに無線で幾ばくかの情報は得た……と県庁が言ってきたが、具体的な対策の会議には市長だけが出ている始末でな。いわゆるツンボ桟敷なんだよ、おれたちは。それにだ封鎖された道もあるが、すべてじゃないらしいんだ。県庁に勤めている小名瀬町の人が、ついさっき出勤してきたのを俺は見つけたんだ」

「それはいつごろのことなんですか、何処の課の誰方なんでしょうか。ルートを聞き出してくれたんですか?」

 藤岡の数倍、北村の不満面は険悪だった。

「なんだその非難めいた言い方は。では何かね、君たちはここで、この設備の整った県庁の一室で、のほほんと座ってな、対策本部にも出れずに、そのうち恢復するだろうライフラインをただ待っているつもりかね」

「そんな、のほほんなんてしてませんよ。全身全霊で被災者たちの救助活動に向かうつもりです」

 じゃなくてな、向かうんだよ、実際に。それもたった今だ。すぐに現場に向かうんだ、その二本の足でな。そして、そこの目とそっちの耳とで被災現場の生の情報を的確に……」小此木は床を指さして「ここに伝えるんだ。それがどれほど市民にとって力となるのか君たちならわかるはずだ」

「ですが、災害救助隊の広報官が二次災害だけは、絶対回避しなければならないと、おっしゃっていたじゃないですか。それと本当に道路は使えるんですか。警察や消防署との連絡はどうなっているんですか」

「それも含めて現地で対応するんだ。現時点で使用できる通信機器のほとんどは県側で抑えられているといっても過言ではない。ええか、我々にはな、機動力しかのこっていないんだよ。なっ、頼む。陸の孤島になってしまった小波瀬町の住民たちの安否だけでもいい。県側より先に危機管理室が摑みたいんだ、メンツにかけても」

「市長の命令でもあるんですね」

 そうつぶやく北村の視線の先には、こちらをさっきから凝視する姿があった。ミドルグレーのオールバックをテカらせて、その長身男だけがスーツ姿だった。革靴もテカテカと黒光りして、まるで今にもテレビ局に行きそうな出立ちだ。

 小此木は、北村が〝市長〟と言ったその瞬間、振り向きざまにドアに向かって会釈していた。だがテカテカ男はあきらかに不機嫌ツラだ。

 小此木は素早く視線を二人に戻した。

「北村君、それに藤岡君、危機管理室の職員として救助活動計画の一翼を担うことがそんなに不服なのかね。あえて市長から直接の指示が欲しいのかね」

 むろん北村とて一端の地方公務員だ。上司からの職務上の命令には忠実に従う覚悟はできている。だがそれは心身とも万全の状態でのことだろう。

「なんだどうした北村君、顔色が悪いんじゃないか?……」

 この非常時で顔色が悪い職員などそこいらにいる。みな不安と疲労と緊張とで頬を刮げ落としている。ただ、小此木は、それとは違う次元で、北村の様子が、いつもと違うことに気づいていた。とくに小名瀬町の被害調査を命じたあたりからだ。

「車で現地を見てこいと言ってるんだ。地獄へ堕ちろなどとは言っておらんぞ」

「……」

 このときの北村は、なんともいえない吐気をこらえていた。精神的バイアスからくる嘔吐感だ。神経の昂りから空気嚥下を繰りかえして、胃袋が空気枕のように膨れている。そんな不快感で膏汗がより酷くなっていたのだ。

 失礼と手で示し、後ろを振り向いて嘔吐くと、牛を思わせる、大きく長いゲップが出た。

「体調が優れんようだな」

「緊張してるだけです。そのうち治まると思います」

 真っ赤な涙目して、北村が首を振った。振ったぶんだけ、めまいがして、吐き気は倍加した。

 北村はもう一度、ホワイトボードから離れて空気を吐いた。吐いた直後に、すぐまた空気を呑み込んでいた。

 そこへまたもや、小さな余震が来た。

 北村は足もとから吐気が這い上がってくるような錯覚に陥った。この室内に溢れる物音に、人の叫び声に、わめき声に、泣声に、うめき声に、脈を打って、吐気がともなっているように彼には感じるのだった。

 吐いては呑み、呑んでは吐く。北村は、その後、ありもしない内容物を嘔きつづけていた。

「大丈夫ですか……」

 藤岡が見ていられずに、北村の背中を優しくさする。しかし、げっぷまじりの嘔吐感は引く気配はない。

 小此木がチラリと腕時計に目を落とした。

 その途端、北村は眦に涙を溢れさせながら背筋を伸ばし、真っ赤に充血した目を剥いた。

「市長のご意向はわかりましたよ。また危機管理防災室の長としての志しもわかりました。では、小此木氏という、飽くまでも一職員としての胸中をお聞かせください。グゥゥゥェェェ……わたしたちは市の職員でもありますが、一市民でもあるんです。子も妻も親もある身なんです。ウグゥゥゥゥゥ……自衛隊が安全確認をした後でオエ……ウウウウ……現地に向かっても遅くはないんじゃありませんかァ  

 力み過ぎて裏声になっても北村はわめきつづけた。口角に白い泡まじりの唾液が糸を引く。他の職員のなかには、作業の手を止めて、怪訝そうに北村を見つめる者や、露骨に嫌悪感を漂わす者もいた。

「おい、おい、神経過敏なんだよ、北村君は。高校生でもあるまいに、ガキみたいに甘えて被災者たちにどう言い訳するつもりなんだ。防災室の避難課長としてそれで責務を果たせるのかね」

「だったら室長が先陣を切ってくださいよ。土砂崩れの路で土石流に流されてから助けをもとめても誰も行きませんからね」

「どうしたんだおまえは! いつもの北村君じゃないぞ。大人げなさすぎるぞ」

 軽く首をひねる北村は、藤岡に照準を合わせた。

「藤岡、おまえだって理不尽だと思うだろう!」北村は関節的に反駁した。そのまま小此木を無視して後をつづける。「他の職員は安全なここで情報収集と非常物資の管理にあたるんだぞ。それにたいして俺たちは」  

 北村は唾とばして藤岡に同意を迫った。しかし、部下のほうは上司とは違うタイプらしい。神秘的な湖面のように、冷静な観察眼で北村を見つめ、あの芝居がかった空気嚥下は、さっきからおさまっていることを確認した。すると、ふいに室長のほうへ近寄り、その手から車のキーを摘まみ取った。では  とペコリと頭を下げて、ひとり、ずんずんドアに向かって歩き出したのであった。

 呆気にとられたのは北村だけではなかった。小此木も市長も、ひとり部屋を出ていく藤岡を注視していた。すると残された北村はばつが悪くなる。さっきまでの派手な嘔吐、あれはたんなる仮病か? 演技か? 他の職員たちの、鉛のような視線が全身にべたついてくる。永ーい溜息を吐いてから、北村はチッと小さく舌を打鳴らし、面倒くさそうに藤岡の跡を追って廊下に消えたのだった。

 皮肉な笑い声がクスクスと室内に流れたのは言うまでもない。


               





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