08

 月曜日が来た。今日から大学では講義が始まる。英語のクラスが瞬くんと一緒だった。これ幸いと声をかけて、昼食も誘った。


「なぁ瞬くん。変な話するんだけどさ……」


 俺は、この土日に起こったことを話した。兄弟揃って精神がおかしくなっていると切り捨てられればそれで終わる内容だ。しかし、瞬くんは真剣に考えてくれた。


「ねぇ朔くん、知ってる? 告知義務が発生しない死亡のケースもあるって」

「……というと?」

「僕もさ、部屋借りるときに、事故物件とかこわかったから、調べたんだよ」


 俺は瞬くんと、告知義務について詳しく調べた。病死や、一般家庭で起こりうる事故の場合、事故物件にならないケースもあるのだという。瞬くんがスマホの画面を指した。


「例えばほら、転落死とか」

「転落……!」


 兄はタバコを吸うために、ベランダにしょっちゅう出ていた。そして、そのベランダで、誰かに話しかけていた。


「ありがとう瞬くん。俺、もう少し調べてみる」

「あまり思い詰めないようにね……?」


 次は一般教養の授業であり、大教室だった。俺は後ろの方の席に座り、コソコソとスマホをいじった。


 ――湊市、子供、転落事故。


 そして、とうとう見つけてしまったのだ。それと思われる記事を。今年の二月、四歳の男の子が、マンションの九階から転落死している。

 俺は授業が終わると同時に駆け出した。まずは裏付けだ。九〇三号室のインターホンを押した。


「初原です!」

「あら……どうしたの?」

「確かめたいんです。九〇二号室。子供が死んでますよね!」


 ためらいがちに扉が開かれた。高木さんは困ったように眉を下げていた。


「そう……知っちゃったのね。入って。詳しく話してあげる」


 リビングに通され、俺はダイニングテーブルを挟んで高木さんと向き合った。


「亡くなったのは、あの家の弟さん。可愛い子だったのよ……」


 なんでも、母親が家事で目を離していた時に、子供が自分でベランダへの鍵を開け、エアコンの室外機によじ登ってベランダの手すりをしまったようだ、というのが真相らしい。


「サクちゃんって子だったんだけどね」

「サク……?」

「花が咲く、のさく。本当に、可哀想な事故だった……」


 心拍数が高まる。今も兄はあそこにいる。九〇二号室に。俺は立ち上がった。


「ありがとうございます!」


 九〇三号室を飛び出し、鍵を取り出して開けようとするが、手が震えて上手くいかない。深呼吸。両手で鍵を回す。玄関には兄の靴。外には出ていない。真っ先に確認したのは、ベランダ。


「望!」


 兄は、そこにいた。俺に背を向け、暮れかかった空を見上げていた。

 そして、それもいた。

 子供の顔。手すりにアゴを乗せた、子供の顔。エレベーターで見たのと同じ男の子。

 ベランダへのガラス戸は開いていた。俺はつかつかと兄に寄っていった。


「望ってば!」


 すると、子供の口が動いた。


「オ……ニイ……チャン……」


 兄は上半身をぐらりと手すりから乗り出そうとした!


「やめろ! お前のお兄ちゃんじゃない! 望は俺のお兄ちゃんだ!」


 俺は必死で兄に抱きつき、兄を手すりから引き剥がした。兄の体重がかかってきて、俺は背中をベランダの床に打ち付けた。さらに、兄の身体が腹に乗ってきた。


「ぐっ……!」


 子供の顔は、消えていた。

 兄を横に転がすと、目を閉じていたので、激しく揺さぶった。


「望! しっかりしろよ望!」

「ん……あれ……朔……?」


 兄は状況に気付いたのか、さっと顔を白くした。


「僕……飛び降りようとした?」

「そうだよ! ここ、子供が転落死してる! ヤバいって! もうここ住んじゃダメだって!」


 俺と兄は、最低限の荷物だけを持ってファミレスに行った。今すぐ落ち着ける場所といえばそこしか思いつかなかったのだ。

 俺はスマホで事故の記事を見せ、高木さんからの証言も話した。死んだ弟の名前が、俺と同じサクだったことも。


「僕さ、あまりこういうのは信じてなかったけど……さすがに引っ越そう」

「そうしよう。絶対そうしよう」


 ギリギリ、近所の不動産屋は空いている時間だった。何件か物件を紹介されたが、さすがに今から内見はできないということで、明日になった。

 そして、俺たちはビジネスホテルに泊まることにした。しかし、ホテルにもこわい話はつきものである。また一緒に風呂に入らせてもらった。

 それぞれベッドに寝転んだ。電気が消せない。兄はそれでいいと言ってくれた。


「ねぇ……望。俺が望のこと看取るけどさ。それは、もう何十年か後にしてくれない?」

「ははっ、そうだよね。朔が僕のこと助けてくれたんだよね。ありがとう」

「俺は望の弟だからね。これから先も、ずっと、ずっと」


 兄が眠ってしまってから、やっぱり心細くなってしまった俺は、もそもそと兄のベッドにもぐりこんだ。

 胸にあたる兄の体温。

 よかった、兄は生きている。生きてくれている。

 俺は、兄をもう少しで奪われるところだったのだ。

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