07

 スッキリした気持ちで目覚めた日曜の朝。俺は昨日原田さんに言われた通り、十時に店に行った。俺が任されるのは接客、会計。調理は原田さん一人がする。揚げたてのエビフライを特別に食べさせてもらった。プリプリで美味しい。いい職場に入れたかもしれない。

 お客さんが来ない間、仕事のことを教わりつつ、店の事情も聞いた。平日は、フリーターの男の人が入っているらしい。きっと彼とは会うことはないだろう。俺も兄と住んでいるということを話した。部屋で起こったあれこれについては、さすがに言わなかったが。

 お客さんがきて、注文を聞いて、メモ書きして、原田さんに渡す。会計をする。出来上がった弁当を渡して終わり。自分の人相がそんなによくないことは自覚していたので、せめて丁寧に接した。

 退勤前に、社割だということで半額で弁当を売ってもらった。コロッケ弁当、二人分。


「望、ただいま!」


 兄はベランダにいた。タバコか。しかし、兄は誰かと話していた。笑い声まであげている。電話だろうか。俺はベランダに近寄った。

 兄は、誰もいないベランダの床に向かって話しかけていた。


「望! 何やってんのさ!」

「あれ? 朔? なんで?」

「なんでって……望こそ誰と話してたんだよ?」

「ん? 僕……朔と話してたんじゃなかったの?」


 呆けた様子の兄の腕を引っ張り、部屋の中に入れた。


「俺、バイト行ってたんだよ。外にいたんだよ。望は何やってたんだよ」

「なんか……記憶が曖昧だ。朔がベランダにいたような気がして」

「とにかく、お弁当買ってきたんだ。食べながら話そう」


 美味しいはずの原田さんのコロッケも、ほとんど味がしなかった。発泡スチロールでも食べているみたいだ。


「そっか、今日初バイトだったんだ。お疲れさま」

「望は……何かに憑かれてるよ、絶対。それか、幻覚? 薬とか飲んでた?」

「まさか。でも、ここに越してから自分がおかしいのはわかってるよ……」


 俺は行動を起こすことにした。


「なぁ、ここに前住んでた家族のこと、調べない? 気になるんだよ」

「ええ? どうやって?」

「聞き込み。管理人さんとか九階の人とか」

「管理人さんは……土日は休みだね。まあ、朔がそこまで言うなら、やってみようか」


 弁当のゴミを手早く片付け、まずは口を割ってくれそうな九〇三号室のおばあちゃん、高木さんからあたることにした。


「はぁい?」


 インターホンに高木さんが出た。俺はなるべくゆっくりと言葉を紡いだ。


「九〇二号室の、初原です。前に住んでいたご家族のこと、もっと知りたくて」

「さぁ……見かけたらご挨拶するくらいだったから……」

「子供って、どんな子供だったんですか」

「男の子二人だけど……そろそろいいかしら。買い物に行こうと思っていたのよ」

「あっ、はい。済みません。ありがとうございました」


 次は九〇一号室。インターホンを押したが出なかった。兄が言った。


「まあ、ここの男の人は話してくれなさそうな感じするよ。もういいんじゃないかな」

「うん……」


 さらに、上下。一〇一二号室と八〇二号室。どちらも出てくれなかった。ただ、表札はあり、誰かが住んではいるようだ。

 部屋に戻り、俺はため息をついた。


「結局よくわからなかったな。やっぱり管理人さんに聞くのが確実かな」

「どうだろう。プライバシーのこともあるし、話してくれないかもしれない」


 男の子二人。兄弟。今の俺たちと同じ。


「まあ……朔。今日は初めてのバイトでしんどいでしょ。ゆっくり休みなよ」

「望のベッド行っていい?」

「いいよ」


 俺は兄のベッドに小説を持ち込んで読み始めた。兄はそんな俺を構わずに仕事の続きをした。同じ部屋で別々のことをしている。まさに家族だな、なんて思う。八年間の隔たりが嘘のように、今こうして家族として過ごしていること。それ自体は嬉しいのだ。

 問題は、兄が少しずつおかしくなっているということ。


 ――聞き込みの結果、俺たちと同じように男兄弟が住んでいた、としかわからなかった。だから何だっていうんだ。結局、何も進まなかった……。


 そんなことを考えていたら、小説の内容はほとんど頭に入ってこなかった。諦めて本を閉じ、いい時間になっていたので夕飯を食べに行こうと兄に声をかけた。

 手早く済ませたかったので牛丼屋へ。俺は大盛を頼み、ガツガツとかきこんだ。人間、腹が膨れると気が多少治まるらしい。マンションまで帰ってきて、エレベーターに兄と二人で乗り込んだのだが。


「えっ」


 エレベーターの鏡の中に、小さな男の子の姿があった。

 鏡の中だけ。

 真っ直ぐに俺たちを見上げていた。


「えっ、あっ」


 何度か瞬きをするうちに、その姿は鏡から消えていた。


「朔? どうしたの?」

「い、今、鏡の中に男の子がいた! こっち見てた!」

「見えないよ……?」

「消えたの! でもさっきまでいたの!」

「落ち着いて、朔……」


 鏡に背を向け、俺はガクガクと震えてしまった。兄に手を引かれ、部屋に入った。


「どうしよう、望、おかしいって、絶対この部屋に子供がいるんだって!」

「ねぇ……いっそ、二人で精神科行く? 認知とか、そういうのが、脳の機能のバグでおかしくなってるとかじゃないかな」

「そうなのかな……もう、わかんないよ……」


 俺は一人きりになることができず、風呂まで兄と一緒に入ってもらった。兄は明日、精神科を予約してみると言い、耳栓をして、泥のように眠った。

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