06
アラームで飛び起きた。兄もくわぁと大きなあくび。朝食をとりながら、兄と話した。
「今度は足音だよ、望……」
「僕には聞こえなかったけどなぁ。どんなのだった?」
「小さくて……まるで子供みたいな……」
「うーん、上の階じゃない?」
「それにしては近くで聞こえたんだよなぁ……」
考えても仕方がない。俺は今日やると決めたことをこなすことにした。まずはスーツに着替えて洗面所で髪型を入念にチェック。エレベーターの中の鏡でも確認。駅前まで行って、機械で証明写真を撮影。どう頑張っても悪人ヅラになってしまったのだが、五回目くらいで妥協した。
その後コンビニで履歴書と、ちょっといいプリンを二つ買った。生クリームがたっぷり。兄はこういうのが好きなはず。
帰宅すると、リビングに兄の姿はなかった。冷蔵庫にプリンを入れて、兄の部屋の扉をノックするも反応なし。開けるとまた寝ていた。
「……ん?」
床にスケッチブックが落ちていた。中が開いた状態だ。ページの片方には、兄が描いたのだろう、うろこまでびっちり描きこまれた迫力のあるドラゴン。もう片方は……なぐり描きに見えた。四角形にギザギザがついていただけのもの。とても兄が描いたとは思えなかった。
「の、望、起きてよ。これ、なんだよ」
兄はのっそりと起き上がると、スケッチブックを見て首をひねった。
「あれ……? 今日って朔、外行ってたよね?」
「そうだよ、さっき帰ってきたんだよ」
「なんか、一緒にドラゴン描いてた記憶が……」
俺は声を荒げた。
「いい加減にしてよ! こんなものまで用意して! 俺をこわがらせるのやめて!」
「違うって、落ち着いて、朔」
「じゃあ、なんなんだよ! なんなんだよこれ!」
「僕にもわかんないんだよ……」
兄は目をうるませた。俺も我に返り、兄に詫びた。
「ごめん……怒鳴ったりして……」
「一旦、整理しようか。何か飲む?」
「あっ、プリン買ってきたよ」
「プリン? 嬉しいな」
ダイニングテーブルを挟んで向かい合い、プリンを食べながらこれまであったことをまとめた。
トイレの水……は解決。ただの水跳ね。むすんでひらいての曲。小さな足音。どちらも夜中のこと。兄は言った。
「どっちも僕、聞いてないからなぁ。このマンションって人通りの多いところに建ってるし、やっぱり外の音だったんじゃ?」
「それだけじゃないよ。望の態度がおかしい。最初の違和感は卵ボーロ。まるで俺のことを幼児だと勘違いしてるんだよ」
兄は自分の毛先をくるくると指に絡ませた。
「あれ、朔に言われてから、やっとおかしいって気付いた。買い物してた時は無意識でカゴに入れてたよ」
「前にここに子供が住んでたって高木のおばあちゃんから聞いた。まさか……それ?」
「ええ? 言ったでしょ、ここ事故物件なんかじゃないよ」
話し合ってみたものの、結局釈然としない。俺と兄はもう一度スケッチブックを見た。
「こっちは望の絵で間違いない?」
「うん。描いてた時の記憶もある。これは僕」
「じゃあこっちは?」
「僕じゃない。四歳くらいの絵かな……朔もこういうの描いてた」
気味が悪いが、スケッチブックはそのまましまっておくことにした。俺はスーツから着替え、履歴書を書いた。そうこうしていると昼だ。兄と冷凍のパスタを食べた。
「望、もう一回外出るから、ついでにマルゴ寄って惣菜でも買ってくるよ」
「うん、お願い」
まずはキッチンはらだに履歴書を持って行った。早速明日、短時間だけでも入ってみないか、ということになり、俺は承諾した。次は、百円均一の店に行って耳栓を買った。これで少しは気休めになるだろう。最後にマルゴ。揚げ物をいくつか買った。
買い物袋を提げて帰ると、兄は自分の部屋で仕事をしていた。
「望、色々買ってきた」
「ありがとう」
「今は何描いてるの?」
「リヴァイアサン」
「知ってる。旧約聖書のやつだ」
俺はパソコンの画面を見た。これはラフ、というのだろうか。白黒の線画だった。長い身体で、大きく口を開けていた。
冷蔵庫に惣菜を詰め、自分の部屋で小説の続きを読んで過ごした。物語はいい。現実を忘れさせてくれるから。読んでいる間だけは、自分と兄に起きている「何か」のことを考えずに済んだ。
しかし、夕飯を食べ終え、風呂に入った後だ。今夜も何か起こるかもしれない。そう思うと、やはり一人では寝られない。兄が風呂から出てくるのをリビングで待って、兄におずおずと頼み込んだ。
「今日も一緒に寝ちゃダメかな……?」
「ん? いいに決まってるじゃない。朔が不安にならなくなるまで、こっちにおいで」
兄は引き続き仕事。俺は耳栓をして兄のベッドに横たわった。兄の枕。二人とも同じシャンプーやボディーソープを使っているというのに、やはり兄自身の匂いというものがする。本人にバレないようにそれをかぎながら目を閉じた。
その日は、何も起こらなかった。
いや……起こっていて、聞こえなかっただけかもしれないが。
ともかく、二日ぶりによく眠れた。
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