05

 目覚めると、兄の笑顔がすぐそこにあった。


「おはよう朔。一緒に寝てたからびっくりしちゃった」

「おはよ……望は昨日のこと、覚えてない?」

「ええ? 何のこと?」


 兄はベッドから出て、パソコンデスクの上に置いてあったメガネをかけた。そして、リビングに移動して、朝食のパンを二人でかじりながら俺は説明した。


「曲が聞こえてきたんだ。むすんでひらいて」

「ごめん、全然わかんない。外からだったんじゃないの?」

「いや……望の部屋からだったよ」


 身体がだるい。寝られたようで疲れはとれなかったらしい。


「それにしても、朔が小さい時のこと思い出しちゃった。よく僕のベッドにもぐりこんできたよね」

「ああ、うん、そうだったね」

「大きくなってもこわがりなのは変わらないね。また不安になったら僕の部屋に来るといいよ」

「……うん」


 身支度をしているうちに、昨夜のアレは夢だったのではないかと思うようになった。夢遊病のように兄の部屋に入ってしまったのではないかと。環境の変化でストレスがかかっているのかもしれない。

 部屋を出ると、高木さんと出くわした。


「あら! おはようございます。大学?」

「はい、そうです」


 不安要素は一つずつ潰しておくにこしたことはない。俺は高木さんに尋ねた。


「あの……九〇二号室って、前はどんな方が住んでいたのかご存じですか?」

「ああ、ご両親と小さい子供さん二人、四人家族よ」

「どうして引っ越したのか、とかは」

「戸建てを建てたらしいの」

「なるほど……ありがとうございます」


 納得できる理由だ。ここで四人が暮らすには手狭だろうから。しかし、小さい子供、というのが気にかかった。

 大学はまだオリエンテーション期間。健康診断もあった。瞬くんの姿が見えたので、声をかけて昼食を共にした。まだ彼とは出会ったばかりだが、一人で抱えておくのはしんどい。変な夢を見た、という形で昨夜の曲のことを話してみた。


「ふぅん……それは確かに気になるね」

「俺、ビビりでさぁ。この年になって兄貴と一緒に寝てもらったよ」

「お兄ちゃんいいなぁ。僕一人っ子だから」


 そのくらいで流しておき、今度はバイトの話をした。瞬くんは昨日ファミレスの面接をしてその場で受かったらしい。彼は少しおっとりしていそうだが、愛想がいいので接客業は向いているだろう。俺も弁当屋のキッチンはらだに行ってみることにした。

 店に行くと、ちょうど客はおらず、店主だけだった。原田はらださん。五十代くらいのほんわかとした雰囲気の男性だ。バイトのことを尋ねると、土日は大歓迎とのことで、手続き上、履歴書は持ってきて欲しいと言われたが、つまりは採用ということだ。

 帰宅すると、兄の姿はリビングになく、部屋をノックしても返事がなかった。靴は玄関にあったのでいるはずだ、と思って扉を開けると、メガネをかけたままベッドで眠っていた。夕飯の相談もしたいし、俺は兄を起こした。


「望。起きてよ。こんな時間に寝ちゃってさ」

「あれ……朔? 保育園は?」

「はっ?」

「あっ、そうか、もう大学生か……僕、どうしたんだろう……」


 兄も妙な夢でも見ていたのだろうか。それについては追及しないことにした。


「なぁ望、夕飯何食べる?」

「あまりお腹空いてないんだよね……」

「もうカップ麺とかでいい?」

「うん、それでいいか」


 新しい生活で兄にも疲労が出ているのかもしれない。俺はカップ麺に湯を注いで待ちながら兄に尋ねた。


「寝てたけど、仕事大変なの?」

「それなりにね。まあ、ありがたいことだよ。暇なのよりはいい」

「身体、気をつけてよ?」


 それから、俺はバイトのことを言っておいた。


「お弁当屋さん受かった。明日、履歴書持って行くよ」

「へぇ、よかったね。まあ、学生の本分は勉強だから。無理しないようにね」


 夕食後、もはや恒例となった兄の喫煙。タバコの臭いにも慣れてしまった。俺はゴミを片付け、先にシャワーを浴びた。

 そして、一人で自分の部屋に入ったのだが……気になるのは、昨夜の曲だ。また、聞こえてきたら、今度こそ夢ではない。それを認めてしまうのが嫌だった。俺は兄の部屋に行った。兄はパソコンで作業をしていた。


「ん? どうしたの、朔」

「その……一人で部屋にいたくなくて。仕事中だよね、ごめん」

「いいんだよ。別にこっちの部屋にいても」


 俺はその言葉に甘えて兄のベッドに寝転んだ。兄はそんな俺を見て微笑んだ。


「うん。やっぱりいいなぁ。朔とまた一緒に暮らせるって」

「……そう?」

「兄弟は、親より付き合い長くなるでしょ……僕って結婚願望とかないし、朔に看取ってもらう気でいるよ」

「やめてよ、今からそんな話」


 明日は土曜日で大学はないが、いつも通りの時間に起きて、履歴書を買ったり証明写真を撮ったりしたい。まだ兄は作業中だったが目を閉じた。

 気付くと俺の隣には兄がいて、静かな寝息をたてていた。電気は消えていた。深夜なのだろう、カーテンの隙間からも光は漏れていなかった。

 みし、みし、みし。

 俺はびくりと肩を震わせた。

 みし、みし。

 小さな足音。廊下から聞こえてくる。

 みし、みし……。


「望! 望っ!」


 俺は兄の肩を揺さぶった。


「ん……どうしたの?」

「あ、あ、足音が」

「……へっ?」


 足音は、止んでいた。


「朔、また変な夢見ちゃった? よしよし」

「なぁ……やっぱりこの部屋、変じゃない? 望の態度だって違和感あるし」

「大丈夫だってば……ほら、寝るよ……」


 とん、とん、と赤子をあやすかのように兄は僕の背中を叩いてきて、俺はそれに身を任せて無理矢理眠った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る