03

 黒焦げのハンバーグ事件の翌日。大学の入学式だった。別に着いてこなくていい、と言ったのに、写真を撮って両親に送りたいからと、兄も一緒にきた。


「うんうん、朔のスーツ姿、カッコいい。大きくなったねぇ」


 俺は笑うのが苦手だ。妙に取り繕って不自然な笑顔になるよりはいいか、と思って、入学式の看板の横に真顔で突っ立ってスマホのカメラを向けられた。

 兄は入学式も見たいと言い出したので、講堂まで二人で行った。学生席と保護者席は別れていたのでホッとした。年の差のある似ていない兄弟。外から見れば関係がよくわからないはずだ。

 退屈な式典を上の空で聞き流し、次は学部ごとの大教室に別れてオリエンテーション。さすがにここで兄には帰ってもらった。さっそく会話を交わす学生たちもいたが、俺は端の方に隠れるようにして座った。

 大学生活。特にサークルに入る気はないし、どこかのグループに入りたいとも思わない。好きな本を好きなだけ読んで、大卒の学歴を得て、それなりの会社に就職する。それまでの四年間のモラトリアムだと俺は考えていた。

 帰宅すると、兄が弁当を用意してくれていた。俺は鬱陶しいネクタイをさっさと外し、椅子に座った。腹が減っていたので着替えるのは後だ。俺は弁当のフタを外した。


「おっ、唐揚げ弁当?」

「そうだよ、美味しそうだったから」


 割り箸の袋には「キッチンはらだ」と書かれていた。個人経営の弁当屋だろうか。食べてみると、唐揚げは衣がサクサクしていてなかなかの味だった。下に敷かれていた添え物のパスタは、期待せずに食べたのだが、これで一食欲しいくらい絶品だった。


「望、ここのお弁当いいね。リピートしよう」

「うん。他にも種類あったから、今度は別の買ってみるよ」


 食後、トイレに行くと、蛇口にはカバーがつけられていた。兄に聞くと、百円均一の店で買ったという。これで水が跳ねなくなった。

 部屋着に着替えてベッドに寝転がり、スマホを開くと、メールが来ていた。好きな作家の新刊を予約していたのだが、それが届いたのだ。おそらく一階の集合ポストに入っている。俺は一応兄の部屋の前で声をかけ、取りに行くことにした。

 エレベーターを待っていると、九階の他の部屋から女性が出てきた。六十代くらい。兄が言っていた「おしゃべりなおばあちゃん」だろう。


「あっ……こんにちは」

「こんにちは! もしかして九〇二号室の方? 弟さん?」

「はい、そうです。これからお世話になります」

「わたし、九〇三号室の高木たかぎ。背が高いのねぇ」

「あはは……」


 エレベーターがきた。乗り込んで以降も、高木さんは話し続けた。


「今年の桜は早めに散っちゃったわねぇ。開花したと思ったら雨続きで全然見られないうちに終わっちゃったわ」

「そうでしたね。俺、今日大学の入学式だったんですけど、風情はなかったですよ」


 エレベーターホールのごく近くに集合ポストがある。困ったらお互いさま、ということだけ言い合って、高木さんとは別れた。お目当ての茶色い包みを抜き取り、リビングに行くと兄がコーヒーを作っていた。


「朔もいる?」

「いる!」


 兄が俺の分を作っている間、包みをはがして本を取り出した。ネットで何度も見ていた書影。それを今、手に取っている。やっぱり俺は紙の本が好き。ずっしりとした重みもたまらない。兄がマグカップを二つ、ダイニングテーブルに置いた。俺は言った。


「あっ、九〇三号室の高木さんに会ったよ。人の良さそうなおばあちゃんだったね」

「だねぇ。旦那さんを亡くされてて、離れて暮らすお子さんとお孫さんがいるってさ。その話の流れで僕たちが兄弟だってことは伝えてた」

「ああ、だから弟さん、って言われたんだ」


 それから、夕飯の話になり、今度は中華はどうかということになった。兄が駅前に比較的新しそうな中華屋があるのを見つけたらしい。

 夜になるまで、兄は仕事、俺は読書。没頭していたらあっという間に時間が過ぎ、兄に部屋の扉をノックされるまで意識が本の中にすっぽりと入ってしまっていた。


「朔、ここだよ」

「へぇ、美味しそう」


 どうやら四川料理らしい。俺の大好きな辛いメニューだらけだ。俺が麻婆豆腐やエビチリを注文するとまた兄がこんなことを言った。


「辛いもの、食べられるんだ……」

「もう。十八歳だよ? 選挙権あるんだよ?」

「タバコとお酒はまだだね」

「望いつからやってた?」

「うーん、覚えてない!」


 味はかなり本格派。しっかりとした辛さだった。ここも気に入った。昼のお弁当といい、この辺りは食べ物の当たりが多い。

 帰宅するとすぐに、兄はベランダに行ってタバコを吸い始めた。手元をよく見ると、フタつきのコーヒーの缶を灰皿代わりにしていた。

 兄は十年以上喫煙していると考えた方がいい。癖は抜けることがないだろう。それならせめて量は減らしてほしいな、というのが弟心だ。

 この日はそれくらいで終わった。新しい学生生活。新しい隣人。兄との食事。

 しかし、翌日からゆっくりと「何か」が変わり始めたのだ。

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