02
新しいベッドでも俺は熟睡できた。しすぎた。起きると朝十時だった。いくら春休み中とはいえ、気を抜きすぎである。慌ててリビングに行くと、兄はソファに座ってスマホをいじっていた。
「おはよう朔。よく寝てたね」
「もう……起こしてよ」
「あんまり寝顔が可愛いから、起こすの可哀想になっちゃって」
朝から面食らった。兄は未だに俺が小学生のつもりでいるらしい。可愛いと言われて喜ぶガキではないというのに。兄は俺が寝ている間にコンビニに行ってくれていたようで、クロワッサンがあったので一つ頂いた。
「そういえば望。九階の人たちってどんな人?」
引っ越しの前の挨拶なら、兄が済ませてくれていた。
「ああ……九〇一号室は中年の男の人。一人暮らしみたい。不愛想だったな。九〇三号室はおしゃべりなおばあちゃん。この人も一人暮らし。九〇四号室は空室だね」
ここのマンションは一フロア四室。十一階建て。一階部分は不動産屋と美容院になっており、計算すると住居部分は四十室ということになる。
「朔、もし会ったら愛想よくね? 管理人さんにも挨拶すること」
「もう、ガキじゃないからそのくらいできるって」
何かにつけて兄貴ぶってくるのは前からだったか、どうだったか。いちいち反発してしまいたくなる俺の方が変わってしまったということなのか。大人になった兄弟同士、どんな距離感でいるのが正解なのかまだ掴めない。
昼食の調達ついでに、近所にあるスーパーへ兄と行ってみた。マルゴという湊市ではいくつも展開されている店らしい。俺は真っ先に総菜コーナーに行って、牛焼肉弁当をカゴに入れた。兄はいくつかの調味料や食材を選んでいた。自炊をするのだろうか。そして最後に缶ビール六本セット。
「望、もしかして毎日飲む?」
「そうだけど?」
「健康診断行ってる?」
「……酒とタバコの量はごまかしてる」
「もう」
買い物を終えてマンションのエントランスに入ると、六十代くらいの男性が掃除をしているところに出くわした。彼が管理人らしい。軽く挨拶をした。昼食をとりながら、俺は兄に仕事の話を聞いてみた。
「今は何描いてるの?」
「児童向けのやつだよ。けっこう売れてて。シリーズ化したから仕事には困ってない」
「凄いじゃん」
食べ終わり、兄の部屋に行って本を見せてもらった。「ドラグーンバトル」という、ドラゴンに乗った戦士がバトルをする、マンガと図鑑を組み合わせたようなものだった。兄はドラゴンを描くのが好きで、俺にもよく描いてくれていたのだが、それをとうとう仕事にまでしたのか、と思うと胸にくるものがあった。
「
「ああ、世話になった人たちに僕だってすぐにわかってもらえるようにね」
今度は俺が質問される番だった。
「朔は文学部だよね? 専攻とか決めてるの?」
「うん。二年生から分かれるんだけどさ。英米文学科かな」
「海外小説好きだったもんね」
俺はこの背の高さで勘違いされがちだが、スポーツはしない。もっぱら読書が趣味だ。高校では図書委員になって放課後の当番の時間を本に費やしていた。
「あ、俺トイレ」
「行ってらっしゃい」
トイレに行くと、床がぐっしょり濡れていた。俺は後ずさり、すぐさま兄を呼んだ。
「の……望! きて! トイレきて!」
「ええ? どうしたの?」
俺は濡れた床を指した。
「何もしてないのに、濡れてる!」
「んん? あれかな……一度流してみようか」
兄がトイレを流すと、トイレタンクの手洗い場に置いてあった芳香剤に水があたり、それが飛び散っていた。水の勢いがよすぎたようだ。兄が言った。
「よかれと思って置いたけど、これがダメだったか」
「よかった……心霊現象かと思った……」
「そんなわけないじゃない。対策考えないとなぁ」
兄は洗面所からタオルを取ってきて床を拭いた。芳香剤は一旦撤去だ。こんなことでいちいちビビってしまった自分が情けない。やはり兄と一緒に住むことにしてよかった。一人なら原因も突き止めず親に泣きつくところだ。
夕食なら兄が作ると言い出したので、俺は自分の部屋で本を読んで待っていた。兄も一人暮らしの間にさぞかし腕を上げたのだろう、と期待していたのだが……。
「黒焦げじゃん」
「ご、ごめん……朔……」
キッチンに酷い臭いが充満していた。どうやらハンバーグを作ろうとしたらしく、生肉がこびりついてベチャベチャになったボウルが置いてあった。俺はフライパンの中の真っ黒な物体を箸で割った。火は通っていた。
俺は中身だけほじくり出して、レトルトカレーの上にトッピングとして乗せたらどうかと提案し、そうすることになった。
「もう、料理に自信ないくせになんでハンバーグなんてしようとしたの?」
「朔が喜ぶかと思って……」
「まあ、俺も料理できないし、食事は無理しないで適当にしようよ」
きっと、兄も俺と同じ気持ちだ。近付きたい。いい関係を作りたい。結果は散々だったが、想いは十分伝わった。
二人がかりでキッチンの後片付けをして、その夜は終わった。
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