九〇二号室

惣山沙樹

01

 九〇二号室。

 俺と兄の新居だ。

 引っ越し当日、兄と久しぶりに顔を合わせたものの、呼びかけに戸惑ってしまった。


「お……えっと……その……」

「ん? さく……お兄ちゃんって呼ぶの恥ずかしくなった?」

「うん……」


 兄のメガネの奥の目がすうっと細くなった。


「呼び捨てでいいよ」

「じゃあ……のぞむ、よろしくね」


 兄と暮らすのは八年ぶりだ。兄は就職を機に実家を出ていた。

 それが、二人で暮らすことになったのは、俺の両親がシンガポールに転勤になったから。俺は日本の大学に合格しており、着いていく気はさらさらなかった。そして、俺を一人にさせるのを心配した両親が、ならば兄と一緒に住めばどうか、と提案してきて、兄もそれに乗った形である。

 大学生になるんだから、別に一人暮らしをしても、と世間では思われるかもしれない。しかし、俺は家事が大の苦手。虫も殺せない。ゴミ出しの日も忘れそうだ。

 そして何より一人きりになるのがこわかった。俺はビビりなくせに怪談話が好き。引っ越した先が事故物件だった、なんていう定番の話を想像してしまい、一人暮らしは踏み切れなかったのだ。


「望、何からすればいい?」

「とにかく寝られるようにしよう。自分の部屋から荷ほどきしておいで」


 そう言うと、兄は肩までおろしていた髪を前髪ごと後ろで一つに束ねた。いつだったか、実家に帰ってきた時、なぜ髪を伸ばしているのか聞くと、美容院に行くのが面倒だからと言われた。兄は今はフリーのイラストレーターをしており在宅仕事。それで髪型も住む場所も融通が利くというわけである。

 俺はまず、言われた通りにベッドを整え始めた。シーツを替えるのなんて母に任せっきりだったので、呆れるくらいの時間がかかった。それから服。本。細々とした筆記用具など。段ボールの中身がなくなった頃、兄に声をかけられた。


「お昼どうする? 何か買ってくるけど。それとも一緒に行く?」

「あっ、うん……」

「じゃあ外で食べてもいいかもね」


 俺たちが越してきたのは湊市という政令指定都市。俺が合格した大学が近くにある。駅前はそこそこ栄えており、飲食店がいくつかあった。俺と兄はファストフード店に入った。俺がセットドリンクにアイスコーヒーを頼むと、兄はこんなことを言ってきた。


「朔、コーヒー飲めたんだ?」

「もう……とっくに飲めるよ。俺もう十八歳だよ? いつまでもガキじゃない」

「ごめんごめん」


 俺と兄は十二歳離れている。兄は三十歳だ。ここまで年の差がある理由の一つに、俺と兄は母親が違う、というのがある。兄の母は病死していて、父が再婚、それから生まれたのが俺だ。小さな頃は兄にずいぶんと可愛がられたし、俺も懐いていたが……八年の溝は大きかった。何をどう話せばいいものやら、少し戸惑いがある。

 小さなテーブル席に向かい合って座り、トレイの真ん中にポテトを出して兄とつまんだ。俺はハンバーガー三個。兄は一個。俺はよく食べるせいか身長が百八十センチまで伸びたが、兄は小柄で華奢。顔も似ていない。異母兄弟だからそんなものかもしれないが、多少は兄との共通点が欲しかったな、というのが正直なところだ。


「なぁ、望……確認したいんだけど。あそこ、事故物件とかじゃないよな? 大丈夫だよな?」

「大丈夫だって。何かあった部屋なら告知義務ってやつがある。僕、ネットのそういうサイトまで調べたよ?」


 今回、物件の選定は兄に一任した。リビングの他に二つ部屋があり、比較的新しい建物。築十年らしい。オートロックではないことだけ母は気にしていたが、兄は不要だと考えたようだ。


「それより僕は朔が朝起きれるか心配。毎朝起こしてあげようか?」

「別に、そこまでは……いや……助かる」


 腹ごしらえを済ませて、今度はリビングや風呂、洗面所といった共用部分の整理をした。俺が来たときはすでに家具や家電の搬入は終わっており、兄と相談しながら日用品を置いていった。


「ふぅ……こんなものかな、朔」


 すっかり俺たちの空間となったリビング。二人用の小さなダイニングテーブルと椅子、テレビに向かって置かれたソファ。兄が部屋干しの方が天気を気にしなくていいからと言うので、突っ張り棒でできた物干しも設置されたのだが、それで一気に生活感が出た。最後に兄はベランダに行った。


「あ、ごめん、ちょっと一服するから窓閉めるね」

「ええ? まだ吸ってたの?」


 兄は美大生時代にタバコを覚えた。慣れた様子で火をつける様子も、くわえる横顔も様になっていたが、健康が心配だ。戻ってきた兄に釘を刺しておいた。


「もう……ほどほどにしなよ? 父さんと母さんに叱られるよ?」

「はいはい」


 洗濯で外に出ることはないから、あのベランダは兄専用の喫煙所となるわけだ。

 その夜はもう一度駅前に行って、今度はファミレスで夕食。帰宅して兄に先にシャワーを浴びてもらい、その後俺が入ったのだが、出てくると兄は缶ビールを飲んでいた。


 ――タバコ臭くて酒臭くてオッサン臭くなっちゃって。


 それでも兄は、俺が幼い頃憧れていた人。いや、今も、永遠に追いつけない存在。

 新居で初めて迎える夜は、静かに、とまではいかなかった。ここは幹線道路沿いにあり、時折パトカーだか救急車だかのサイレンが聞こえてくるのだ。兄はまだ作業をしているのだろう。隣から物音がしていた。だが、その音こそが「一人じゃない」のだということを確認できるものであり、俺は安心して眠りについた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る