四 時間
あの日、結局僕は死ねなかった。母が叫ぶ中、兄が咄嗟に救急車を呼んですぐに助かったらしい。まずまずあまり高い距離から落ちたとは言えなかった。自分でも死ねないかもしれないと感じていたが、なんでもいいから飛びたくなったのだった。あの時自分がどんな気持ちだったかなんて二度と思い出せないし、記憶にも残っていない。ただ今は目を覚ました自分のもとで眠っている兄を見つめるだけだった。
やっぱり母はいない、僕のそばにいつもいるのは兄だ。どうしても母は僕を見てくれない、彼女の元にもいけない、なら僕に何ができるっていうんだ。
「恵吾…!!」
慌ててナースコールで僕の意識が戻ったことを知らせると、兄は安心したように僕の手を握った。兄への嫌悪はなかった、ただ自分の気の迷いで迷惑をかけてしまったことを申し訳ないという気持ちでいっぱいだった。
「…お母さんは……?」
そう僕が問いかけると兄は下を向き、言葉を発した。
「死んでないなら大丈夫ね、これで懲りたことでしょう。だってさ…」
僕の予想通りの言葉だった。やはり今まで僕がしてきた努力は母には届いていなかった、何も気づかず、ただ生きてさえいればいいと思っているのだろうか。
母にはもう…二度と会いたくなかった。
兄の連絡で医師が僕の部屋にやってきた、幸いあまり大きな怪我はなかったらしく頭の傷も深くなかった。脚の打ちどころが悪く、折れてしまったが、それ以外は擦り傷や打撲で済んだのだった。入院は一ヶ月ほどでいいとのことだった。あまり長く入院してもまた学校に行きにくくなるだけだと思ったので少し安心した。
本当は学校に行きたいのに彼女がいないと考えると身体が拒否をしているように感じていた。入院の日々は退屈で、いつまでも兄がそばにいてくれるわけでもなかった。兄も自分の仕事のことがあるし、母はもちろん全くと言っていいほど来なかった。
入院から一週間が経った時だった、急に病室に母がやってきた。
「あぁ、久しぶりに顔を見たわ…」
そんな言葉を発する母を僕は拒絶した。何をいうかと思えばそんなこと、なぜ来なかったのかと尋ねると仕事が忙しい、来る暇がない、息子が怪我を負ったのにか?ふと昔のことを思い出した。
昔僕が小学生で兄が中学生だった時に兄が学校の階段から落ちたと連絡が入った。僕はその日小学校がなかったため母と家でご飯を食べていた時間だった。母は心配そうな眼差しで目を泳がせ、僕を抱えて病院へ走った。兄は今の僕と同じで骨折しており、病室のベッドで寝ている状態だった。そんな兄の手を母はぎゅっと握った。小さい頃の記憶はあまりないことが多いのが普通だと思う。
もちろん何もかも覚えている訳じゃないし、鮮明に覚えているわけでもない。ただ、兄に関わる母の顔、兄の手を握る母、母が兄にして僕にしなかったことは全て鮮明に記憶に残っている。兄の方が頭がよく、運動神経も優れていた。だから母は僕なんかはどうでもよくて、兄しか見ていなく、兄のことしか考えていないと思って生きてきた。昔は兄に対して苦手意識をしていて、話すこともあまりしなかった。中学校のいじめがなければ今もあまり話さずにいたと思う。
「帰っていいよ、別に来なくていい」
僕はふと思ったことを口に出した。母は驚いた顔をして僕を見つめた、母の口からはどうして?なんで?など僕への問いかけばかりだった。そんなこともわからないのか、誰のせいで苦しんで生きてきたか、相談できずにいたか、怒りが込み上げてきた僕はベッドから必死に降りて母の目の前に立った。
「見てわからない?逆に僕の何を知ってるの?なんで自殺しようとしたか、なんで 母を避けるのか。わからないの?」
苦しんできた気持ちを初めて母の前に出していた。僕は今まで思ってきたことをズラズラと並べ、話し続けた。
その時の母の顔は見たくもなかった、何も気づいていない顔だった、心あたりのない不満げな顔だった。苛立ちを隠せず、母を押して部屋から出した。
それから母は病室には来なくなった。
ある日兄から連絡があり、内容を読むと、母から病院に行くなと言われて会いにいけないすまないと謝る文章だった。
別に誰かに会いに来て欲しいわけでもなかったし、会いたいわけでもなかった。家族の中でも学校でもずっと一人だったので今更一人になろうとどうでも良かった。
どうも思わなかった…
でも…何もないと気づいていた僕は、この病室が“七階”にあることに気がついた。ラッキーだと思った。神様が彼女の元に行っていいんだと教えてくれているようだった。母は認めてくれなくても、神様はしっかり僕の勇気と努力を見てくれていたんだと。ベッドから降りて部屋の窓を開けてみた。スッと外の心地よい風が入ってきて、風が僕の肌をなぞる。空を見上げると天気も良く、雲一つない快晴だった、ベストコンディションだ。窓から顔を出し、下を覗くとそこは原っぱのようになっていて人が入れないように柵もついていた。ここなら落ちても誰も怪我はしないし巻き込むこともない、今夜、綺麗な星空の下で再び空を舞おう。僕は笑顔でベッドに戻り眠りについた。
目を覚ますとあっという間に夜中になっていて、時間を見ると深夜二時だった。昼間と同じように窓を開け、空を眺める。ここの病院の周りは暗く、海が近くにあるため星空がしっかりと見えた。キラキラと輝く星の中に自分も紛れることができると思い、窓の淵に足を掛ける。グッと足に力を入れた時だった。
「飛ぶのか?人間は飛べないだろ?」
後ろから声がして驚いた僕は部屋の床に尻餅をついてしまった。振り返るとそこには綺麗な格好をした男の人が立っていた。大学生だろうか…スーツのような執事のような、メガネを掛けていても隠せていないくらいのイケメン具合だった。
「だ、誰ですか……」
自殺しようとするところを見られてしまった僕は何かで誤魔化そうと問いかけた。彼は自分の名前を忘れているかのように悩み、思いついたのか口に出した。
「“案内人”だな」
“案内人”?僕は名前を聞いたつもりだったけれど、彼はそう自信満々に答えたので病院関係の人なのだろうと思った。
誤魔化そうと色々な言い訳を考えて、これは少し好奇心でとか、外の空気を吸いたかっただけだとか思いついたことをそのまま言ってみた。けれど案内人は大爆笑しながら僕を指差し恵吾のことはわかるからとだけ言った。
「なんで名前……」
案内人は僕に向かってどんどん単語をぶつけてきた。
「不安、苦しみ、悲しみ、後悔、罪悪感、幸福、願い。強欲だな〜」
それは今日僕が思っていた感情に近かった。不安や苦しみを兄がいなくなったことで余計に感じ、もう一度自殺をすることで幸福感を得たい。兄への態度や母へ伝えた言葉に後悔と罪悪感を少し残しながら、前とは違ってしっかり彼女の元へ行けるように願っていた。
…恐怖を覚えた、初めて会った人に自分が思ったことを口に出されたと思うと震えが止まらなかった。
「恐怖、俺に恐怖を覚えたか。まぁそうだよなぁ?」
まただ、感情を読み取ってくる。隠しても偽ってもきっと心を見透かしてくるんだ。
「僕に何か用…?」
この時間を早く終わらせたかった僕は、静かな空間になることを恐れた。案内人は少し考えながら口を開いた。
「なぁ、彼女に会ってみない?もう一度、やり直してみない?」
やり…直す…?彼女…何を言っているのかわからなかった。もちろん彼女に会えるのならもう一度再開して、今度は彼女が自殺しない世界で彼女ともっと話して、僕の気持ちを伝えるんだ。そう思っていたけれど、いざ変なことを言われると困惑してしまった。
「俺は悠木恵吾を夢見明輝に会わせる事ができる。いや、夢見明輝が生きている世界に戻すことができる。」
彼女の生きている世界…僕の望む世界だった。僕の中にこいつを信じないという選択肢は残されていなかった。
「信じるよ、馬鹿馬鹿しいけど彼女に会えるならなんでもいい」
僕がそういうと“案内人”はニヤッと不敵な笑みを浮かべて指を鳴らした。その瞬間僕の周りの景色が真っ白に変わった。
「うわっ…!ど、どこ…?」
「ここは俺の世界、今は悠木恵吾、お前の人生に合わせてある。」
周りを見渡すとそこにはたくさんの扉があった。2023年4月、2020年6月、扉には色々な日付が書いてあった。一つの扉のドアノブを回してみたが、扉は開かず、固く閉ざされていた。
「遅くなったが自己紹介をしよう、俺の名はクロノス。」
クロノス…?聞いたことがあるような、なんだっけ?クロノスはこの扉のことを説明してくれた。ここは僕の人生の世界で、扉を開ければその年のその日付から人生をやり直すことができるらしい。ここまできて怪しむ要素など何もない、こんな世界に連れてこられてこれが現実じゃないなんてことはないだろう。扉を開けるには、僕の大切なものを消す、クロノスに渡せば好きな扉の鍵が現れるらしい。自分の大切なもの…何があるかと考えていた。
「別に物じゃなくてもいい、人でも、動物でもなんでもな」
人…大切な人を消すということか…?そんなことをしたらその人はどうなるのだろう、急に行方不明になるのだろうか…
「その人がどうなるか?元々この世界に存在しなかったことになるよ」
口に出していないはずなのに、クロノスは僕の心の中をのぞいて質問に答えてきた。
「もうわかっているだろう?隠しても無駄だよ」
クロノス…こいつに嘘は通じない…
元々存在しなかった、ということはみんなの記憶から消えるのだろう。そんなこと僕にはできないし、勇気もない。
「なら、僕の部屋にあるバドミントンのラケットでどうだい…?」
僕は思い出のラケットをクロノスに渡すことにした。クロノスはニコッと笑い、手を横に振った。するとそこに突然、僕のラケットが現れた。
「ではこれをいただこう、どこに戻りたい?」
僕はじっくり考えて、2023年4月、あの入学式の日に戻ろうと考えた。それを読み取ったクロノスは頷き、ラケットに手をかざした。するとラケットが灰のようにボロボロと崩れていき、灰の中から鍵が現れた。僕に近づき鍵を手渡すと何も言わずに僕の背中を押した。行ってこい、という意味だろうか…?
戻りたい扉の鍵穴に鍵をさすと、キラキラと輝き鍵は消えていった。その
途端目の前の扉が開き、扉に吸い込まれていった。
「いってらっしゃい、悠木恵吾。いつでも待っているよ」
そこで皆さんが見ていることも知っていますよ、彼の人生これからもっと面白くなっていきます。ぜひ見届けてくださいね
選択、道、分岐、皆さんなら違う運命を歩むと思いますか?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます