第12話

 寂しさ――そう、きっと自分は寂しかったのだ。従順な慎二だったら、ずっと親元で暮らしてくれるんじゃないかという淡い期待を寄せていた。義父の墓の前で慎二の夢を聞いたとき、花梨の胸が不穏に騒めいたのは、愛する慎二と離れてしまう一抹の寂しさを覚えたからだ。


 お金とか、寂しさとか、様々な理由に振り回されて、浩司と花梨はつい自分のことばかりを考えてしまう癖がある。親の都合で息子の夢を潰していては元も子もない。義父は、目先に囚われて大事なことを見失いがちな自分たちの欠点をよく知っていた。『俊恵』はそれを自覚するきっかけにもなった。


「お祖父ちゃん、うちらに伝えたかったんは、そういうことやったんか……?」


 花梨はもう一度墓に話しかけた。どちらにせよ本当のことはもう分からない。保険の満期がきたとき、義父は真実を伝えようとしたかったのかもしれないが、それを成す前に急死してしまった。真相はすべて墓の下で静かに眠っている。


 出勤までにあと半時間ほど余裕がある。花梨は墓地を出て少しだけ散歩した。朝からじりじりと照り付ける太陽に肌を焼かれるようで、花梨は顔をしかめて手をかざした。目的の場所まではそれほど遠くないのに、すでに花梨の顔からじわりと汗が噴き出していた。


 俊恵の家にたどり着いて、庭を覗き込んだ。連日真夏日を更新する記録的な暑さの中では、さすがの自慢の庭も花が少なく随分と錆びれているようだ。玄関にはマリーゴールドとトレニアの寄せ植えが飾られていて、庭の寂しさを幾らか紛らわせていた。


 花梨が見たかったのはアーチに咲く花だ。真夏に咲く粉雪、夏雪カズラという花がどういうものか、一度この目で確かめてみたいと思っていた。


 そのアーチを前にして、花梨は息を飲む。緑の枝で作り上げていたトンネルは、この猛暑をものともせず、見事な白い花々を青い空に浮かび上がらせていた。


 白い炎が天へと駆けのぼるかのように、幾枝もの無数の小花がアーチに咲き誇る。風が吹くと白い炎はゆらりと揺らめいて、火の粉のような粉雪を辺りにちらちらと散らしていた。真夏に降る雪、まさに「夏雪カズラ」の名にふさわしい花だった。


 しばし時を忘れて、花梨の視線は花の美しさに吸い込まれていた。雪の冷気などあるはずもないのに、涼やかな花の色がうだるような暑さを吹き飛ばすようだ。花の粉雪は幾千もの花びらを絶え間なく降らし続けている。地面には雪の結晶のような小さな花びらが白い絨毯となって広がっていた。先日の礼を兼ねて俊恵に挨拶しようと思ったのだが、真夏の幻景に心を奪われてしまい、しばらくその場を動くことができなかった。


 ぶるる、と低く唸るような音が聞こえた。遠くに一台の車の影が見えた。花梨は道の端へ体をよけた。程なくタクシーが家の前に止まり、一組の家族がドアを開けて降りてきた。父親と、母親と、中学生ほどの子どもが一人。何とはなしにその家族が気になって、花梨は彼らの様子を目で追った。父親と思われる男性がインターホンを押し、俊恵が出てくる。二人は一言、二言会話をして、涙を流して抱き合っていた。


 ああ、と花梨はため息を零した。信じられぬ思いに、肌が粟立つ。鼓動が高まり、身震いするような感動が足元から湧き上がってくる。こんなときに、このタイミングで、こんな偶然が他にあるだろうか? これは夏雪カズラがもたらした奇跡なのだろうか? それともこれもまた、義父の導きなのだろうか? 


 花の吹雪は一組の家族と一人の老女を優しく抱き込み、小さなつむじを描いていた。彼らが家の中へ消えた後も、花梨はしばらくの間その場に立ち尽くして、ぼんやりとその吹雪を眺めていた。花びらは途絶えることなく、たった一人の観客のために可憐な舞いを披露し続けていた。


 俊恵と会うのは今度にしよう、と花梨は思った。今の大切な時間を邪魔するわけにはいかない。花に願いを込めながら十五年も待っていた、貴重な時間なのだから。いつかまたこの再会の喜びを、自分にもほんの少しだけおすそ分けしてもらおう。


 夏雪カズラは遠く離れた親子の絆だ。俊恵の思いに応え、福井とはるか遠くの地を結ぶ役割を立派に果たした。それじゃあ自分と慎二は何で繋がっているのだろうかと、花梨はふと考え込む。かるたか、親心か、それとも……


 海から一陣の風が吹き荒れて、瞳の渇きで花梨は一瞬目を閉じた。その刹那、確かに花梨は見た――大事そうに一枚の札を抱えて風の中に立つ、義父の姿を。


 それはきっと幻。白昼の夢。けれど義父は確かにそこにいる。彼が愛してやまない孫を夢へと導くために。そして、自分たちに大切なものを見失わせないために。


 花梨は込み上げる思いに耐えるようにぎゅっと目を閉じてひとりごちた。

「ほうか……慎二があんなに輝いていられるのは、お祖父ちゃんのお陰やったんやな。全く、お祖父ちゃんにはやっぱ敵わんわ。いつもありがとの、お祖父ちゃん。これからも、うちらと慎二をよろしく頼むでの」


 幸せな思いに満足するように微笑みを浮かべて、花梨は踵を返し軽い足取りで寺へと戻った。数枚の花びらがあとを追うようについていく。花梨の姿を見失った花びらは、しばらく迷うようにその場で彷徨っていたが、やがて波の寄せる音の方へと行き先を変え、ふわりと飛んでいった。遠くで奏でられる潮騒の音色が、厳しい夏がようやく終わりに向かうことを、爽やかな風の調べにのせて伝えていた。


《完》

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏雪かずらのアーチ nishimori-y @nishimori-y

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画