第10話
*
義父の寝室に入ると、花梨は襖と床の間を念入りに調べ始めた。何かが挟まっているような隙間がないか、指で撫でて確認する。しかし畳はぴったりと収まっていて、不自然に感じられるような場所はなにもなかった。壁や棚、窓などに怪しい隙間がないか、こちらも目で追って確かめた。
「お母さん、何しとんの?」
「あ、慎二、悪いけど、畳を上げるからそっち持って」
訳も分からず慎二は花梨と一緒に畳を持ち上げる。わずかに上がった畳を慎二に支えてもらい、花梨はその下を調べた。しかし埃が舞い上がるだけで、それらしきものは何も見つからなかった。
畳をもとの場所に戻して花梨は座り込んだ。「こぬひとを」の歌がヒントだと思ったのに、やっぱり違うのだろうか。だったら「としえ」とはいったい何だったのか。俊恵の家でも義父の部屋のことでもない。義父は気紛れで浩司に紙を渡したのか。そもそもお金のことなんて、最初から浩司の勘違いだったのか。
訳の分からぬ暗号に振り回され、なんの成果も得られなかった今日一日の疲労感が、花梨の立ちあがる気力を奪う。花梨は座ったまま手を床について、呆けたように項垂れた。
「お母さんどうしたんや。大丈夫か? いったい何探してたんや」
「ああ、慎二……お祖父ちゃんが、お金をどこかに置いてたんかもしれんのやって。慎二が大学行くのに、あったら助かるなって思っとったんやけど。でもやっぱりないみたいや」
「お金……お祖父ちゃんがか?」
普段とはまるで違う母親の弱々しい声をさすがに気にしたようで、慎二は視線を落としてしばらく考えを巡らした。
「お母さん、もしかしてやけど、俺が京都に行くのってほんとはまずいんか?」
花梨はゆるゆると顔を上げ、慎二を見た。慎二は眉間にしわを寄せて不安そうに母親を見つめている。
親の行動を純粋にとらえる息子の眼差しにより、ようやく花梨は我に返った。今自分にとって大切なものは、お金か、それとも大学か。ちゃんと慎二にも目を向けていたのか。慎二の夢をしっかりとこの目で捉えていたのか。愛おしくてたまらない、息子の優しさ。どんなときでも親を思いやる息子の気遣い。目の前にある一番大切なものを、花梨はすっかり見失っていた。母親として失格だ、自分が情けないと、花梨は自らを恥じた。疲れているせいか、熱いものが普段以上に早く胸に込み上げてきた。
「お金のことで大変なんやったら、やっぱり――」
「違うんや、慎二」花梨は手を広げ、慎二の言葉を途中で遮った。「ごめんの、お母さんの勘違いやったわ。お父さんのへそくりがここらへんにあるんかと思ったんやけど、違ったみたいや。面倒なことさせてもうて、悪かったの。もういいから勉強しといで」
花梨は立ち上がって、膝に付いた埃を手で払った。息子の不安を取り払うように、花梨は目いっぱいの笑顔を作った。
「推薦やったかって少しは勉強しなあかんのやろ? せっかくのチャンスなんやし、無駄にしたらあかんよ。余計なことは考えんでいいから、やりたいことを精いっぱいやりや。かるたのことはよう分からんし、お父さんと二人きりになってまうのはキツイんやけど、ほんでも慎二が一生懸命に楽しんでくれるんやったら、それがお母さんの一番の幸せなんやから」
僅かな心の迷いをにじませていた慎二の表情は、花梨の笑顔で徐々に明るさを取り戻していった。安心したように慎二は口元をゆるめた。
「ほうか……なら、もういいんやな。部屋戻るわ」
花梨は頷いた。これでいい。お金のことなんて束の間の夢でいい。としえだとか、義父の隠し財産だとか、そういうわけの分からないことはもう忘れようと、自分に言い聞かせた。大学の資金に余裕がないのは変わりないが、いざとなれば教育ローンだってある。子どもに余計な心配をさせるのだけはダメだ。心の内側に粘りつく不安に負けないように口角をぐいっと上げ、腰を捻ってコリをほぐし、さて洗濯物、洗濯物と元気に声を出した。
「にしてもその俊恵っていう坊さん、心配で夜も眠れんってえらい繊細やのう。まるで女の人みたいや」
「そりゃそうやろう。女の人になりきって詠んでるんやし」
「……え?」と、花梨は慎二に視線を戻した。「これって坊さんのことちゃうの? 女性の歌なんか?」
「ほや、女の人が寝室で恋人を待ってる歌や。『ねや』っていうのは女性の寝室のことやで」
さも当然であるかのように慎二は答えた。
女性の寝室。花梨の頭の豆電球が再び明るさを取り戻す。電球はLED並みの鋭い輝きを放った。黄色いネズミに十万ボルトの電撃をくらったような激しい明かりだった。お祖父ちゃんが言っていた「俊恵を調べろ」とは……
「おばあちゃんの部屋か!」
隣の部屋に続く襖を壊れるほどの勢いで開けて、花梨は襖と畳の境目を調べた。窓の方の畳も確認した――隙間がある! 花梨は手を突っ込んだ。指先に何か固いものが触れる。かさり、と乾いた音がした。指で摘まんで引き上げると、ぺらりと一枚、薄い紙袋が出てきた。
義父が慎二のために掛けていた保険証書だった。
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