第9話


 家に着くと四時を超えていた。鍵を取り出すと定家の封筒が一枚残っているのに気が付いた。カバンの奥の方に落ちてしまっていたらしい。あとで処分しようと机の上に置いて、ベランダの洗濯物を急いで取り込んだ。


 ただいま、と声がして、慎二が居間に入ってきた。

「おかえり。学校終わるの早かったんやの」

「うん。今日は四十五分授業やったから」慎二は机の上の封筒に目をやり、手に取った。「えらい古い手紙やな。お母さんのか?」

「あ、それ、お祖父ちゃんに昔来たラブレターや。もうほるから、中身を見たらあかんで」

「ラブレター! お祖父ちゃんへの!」


 慎二は手紙を両手で持ち、食い入るように見つめていた。読みたい気持ちをぐっと抑えている様子が、エサを前にしながら「待て」と命令されている子犬のようで可愛らしい。


「名前なんて言うんや? 『定家さだいえ俊恵』さん?」

「それ、苗字の読み方違うんやよ。さだいえって書いて『ていか』って読むの。変わってるやろ」

「へえ」

「なんでもかるたに縁があるからって、お祖父ちゃんの弟の康男さん、その人の名前を気に入ってたらしいわ」

「あ、確かにほやな。ていかって読むんなら『こぬひとを』の人やわ。――俊恵もほうやな。これもとしえじゃなくて『しゅんえ』やったら、百人一首の歌人にあるし」


 その慎二の一言に何かが引っかかり、浩司の黒いブリーフを畳む手がぴたりと止まった。俊恵としえじゃなくて、俊恵しゅんえ。としえじゃなくて、しゅんえ。今まで思いもしなかった呼び名が、頭の中で疾風のように駆け巡っていく。


「……慎二、そのしゅんえって人、どんな歌詠んだの?」

「俊恵法師やな。『夜もすがら もの思ふ頃は明けやらで ねやのひまさへ つれなかりけり』ってやつや」

「意味は?」

「ええと、なんやったかな……確か、夜通し悩んでいるこの頃、夜が明けきらないから、寝室の板戸の隙間さえも冷たく思えるって意味やったと思う」

「寝室の、板戸の隙間……?」


 その瞬間、花梨の頭の中の豆電球にピカピカッと電気が通った。閃きというのは本当に電気が付くものだということを、生まれて初めて体感した気分だった。浩司のブリーフをぽいっと放り投げて、花梨は立ち上がった。


「それや、慎二! お父さん、『俊恵』の読み方間違ってたんや! としえじゃなくて、しゅんえやったんか。ちょっと慎二、悪いけど、着替えたらすぐにお祖父ちゃんの部屋に来て」

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