第9話
*
家に着くと四時を超えていた。鍵を取り出すと定家の封筒が一枚残っているのに気が付いた。カバンの奥の方に落ちてしまっていたらしい。あとで処分しようと机の上に置いて、ベランダの洗濯物を急いで取り込んだ。
ただいま、と声がして、慎二が居間に入ってきた。
「おかえり。学校終わるの早かったんやの」
「うん。今日は四十五分授業やったから」慎二は机の上の封筒に目をやり、手に取った。「えらい古い手紙やな。お母さんのか?」
「あ、それ、お祖父ちゃんに昔来たラブレターや。もうほるから、中身を見たらあかんで」
「ラブレター! お祖父ちゃんへの!」
慎二は手紙を両手で持ち、食い入るように見つめていた。読みたい気持ちをぐっと抑えている様子が、エサを前にしながら「待て」と命令されている子犬のようで可愛らしい。
「名前なんて言うんや? 『
「それ、苗字の読み方違うんやよ。さだいえって書いて『ていか』って読むの。変わってるやろ」
「へえ」
「なんでもかるたに縁があるからって、お祖父ちゃんの弟の康男さん、その人の名前を気に入ってたらしいわ」
「あ、確かにほやな。ていかって読むんなら『こぬひとを』の人やわ。――俊恵もほうやな。これもとしえじゃなくて『しゅんえ』やったら、百人一首の歌人にあるし」
その慎二の一言に何かが引っかかり、浩司の黒いブリーフを畳む手がぴたりと止まった。
「……慎二、そのしゅんえって人、どんな歌詠んだの?」
「俊恵法師やな。『夜もすがら もの思ふ頃は明けやらで ねやのひまさへ つれなかりけり』ってやつや」
「意味は?」
「ええと、なんやったかな……確か、夜通し悩んでいるこの頃、夜が明けきらないから、寝室の板戸の隙間さえも冷たく思えるって意味やったと思う」
「寝室の、板戸の隙間……?」
その瞬間、花梨の頭の中の豆電球にピカピカッと電気が通った。閃きというのは本当に電気が付くものだということを、生まれて初めて体感した気分だった。浩司のブリーフをぽいっと放り投げて、花梨は立ち上がった。
「それや、慎二! お父さん、『俊恵』の読み方間違ってたんや! としえじゃなくて、しゅんえやったんか。ちょっと慎二、悪いけど、着替えたらすぐにお祖父ちゃんの部屋に来て」
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