第5話

 気まずそうに苦笑いする浩司を、花梨は呆れて見つめる。テーブルに乗り出した花梨の体は、椅子の背もたれにゆっくりと引き戻された。栄一の羽がもがれた気分だ。お父さんに期待なんかした自分があほやったと、花梨は半ば自暴自棄な気分になった。


「なんやの、それ……せめて何が書いてあっただけでも分からんの」

「確かなあ、女の人の名前やったなあ。『としこ』……いや、『としえ』やったかな」

 浩司のはっきりしない態度に花梨は肩を落とした。


「としこ、としえ、どっちなんや」

「うーん……多分、としえやな」

「いい加減やのお。ほんとにそれで合っとるんか? お父さんの記憶は当てにならんからの」

「あほ言うなや、俺の記憶ほど確かなもんはないで。としえや、としえ。確かにほやったで」

「はいはい、よう分かった」


「信じとらんやろ」

「信じとるって」

「ほうけ、ならいい」

「でもなあ……としえなんて、いったい誰や。お義母さんの名前でもねえでえ」

「ほやなあ」

「ほやなあって、呑気やのお。なんでそんなもん、お父さんに見せにきたんやろ」

「さあ、お祖父ちゃんの考えとることはよう分からん。としえって人、お母さんの知り合いにおらんのけ?」


 はてそんな名前の人がいたやろか、と花梨は思案する。

 浩司は「まさか昔の女やったりして」と不謹慎な発言をして、クククと自分でウケていた。その発言の何が面白いのか、花梨にはさっぱり分からなかった。頼りにならない夫を無視して、花梨は天井を見つめながら知り合いの名前を一つ一つ思い出していった。としえさん、としえさんと指を折りながら唱えていく。ふとその中に、よく知る名前があったことに気が付いて、花梨は思わずあっと声を出した。


「そういえば、両全さんとこ、『としえ』って名前やった気がするわ」




 次の日、職場で両全としえに義父のことをそれとなく尋ねるも、「知らない」との返事が返ってきた。予想通りの反応に、花梨はがっくりと肩を落とした。大体、としえの息子は足羽会に所属するものの、としえ自身と義父には接点が全くないのだ。ましてやお金のことなど知る由もないだろう。当然といえば当然である。


 自宅に戻って義父の連絡帳を探し、『としえ』という名前がないかどうかを確認した。親戚の名前も調べた。襖で仕切られた奥の、今では物置となっている義母の小部屋も念のために調べて、義母が使っていた連絡帳へ目を通した。しかしどこを探しても目当ての名前は見つからなかった。


 ふう、とため息をつき、義父の部屋をぐるりと見渡す。布団がしまわれた義父のベッド。トロフィーが並ぶ木製の棚。乱雑に積まれた本。端の擦り切れたカーテンに埃の積もった吊り下げ式の蛍光灯。義父が亡くなってからも、部屋の様子はほとんど変わってない。この部屋で慎二はかるたの練習をよくするため、畳だけが年月を経てぼろぼろに擦り切れていた。飛び出たイ草を払おうと靴下に目をやったとき、ふと、何かがベッドの下にあることに気が付いた。


 陰になっていたので今まで分からなかったらしい。引き出してみると、それは表面にうっすらと埃がかぶっている黒い箱だった。A4の紙が入る程度の菓子缶である。


 蓋を開けて中身を見ると、義父に届いた昔の手紙が何十通と入れられていた。義父は手紙を捨てられない人だったらしく、小学時代のものまである。手紙のほとんどはキャラメル色に変色し、紙が煎餅のように波打ってよれていた。


 何とはなしに義父の交友関係に興味をひかれ、花梨は手紙を一枚、一枚と確かめていった。知らない名前の方が多かったが、昔かるたでお世話になっていた内藤さんからの手紙や、弟の渡野原さん、両全さんといった足羽会関係の人からの年賀状もあった。住所録として保管していたのかもしれない。一越、という名前も見つけた。今は足羽会にいない懐かしい名前で思わず目を細める。確か足羽会を辞めるときにわざわざ家まで来てくれて、泣いていた子だ。彼は今頃どうしているのだろう。彼が帰った後、義父も居間でこっそりと泣いていた。普段見せることのなかった義父の涙は、切ない追慕のかけらとして花梨の胸に残されていた。


 数ある手紙の中に、数通まとめて紐でくくられた封筒の束を見つけた。差出人の名前を見て、花梨は反射的に息を飲む。この偶然に、亡き義父の導きを思わず感じずにはいられなかった。――そこに、探していた名前をとうとう見つけたのである。

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