第3話

 仕事から帰ると、浩司と玄関で入れ違いになった。

「なんやお父さん、今からどっか出かけるんけ?」

「すまん、今日は飲み会が入ったんや。晩飯いらんわ。急に悪いな」

 浩司が出ていくのを見送ると、花梨は自分と息子二人分の夕食に取り掛かった。今日は慎二も足羽会の練習だとか言っていた。残念ながら家族会議は後日になりそうだ。


 風呂から上がり、ノートパソコンを開いてネットで大学にかかる費用をざっと調べた。国立の入学金、授業料が四年間で約二四〇万、私立の文系が約三九〇万、私立理系が約五二〇万。仕送りの平均は七万らしいけど、これはバイトや奨学金の収入も考えてのこと。七万で生活はかなり厳しい。家賃でほとんど消えてしまう。両全の仕送り十五万は多いにしても、ひと月に十二万程度はいるだろう。あとは大学に入る前の費用も必要。願書、受験、入学準備、住まい探し費用に五十万から百三十万。大学に入る前からこの金額が必要だなんて……この数字だけでもくらくらと眩暈がしそうな金額だ。


 慎二の目指すところが国公立でないのがまた悔しい。国公立でも競技かるたで推薦をやったらいいのに。慎二の学力なら地元の国立へ十分入れるのだからと、花梨はパソコンの前で頭を抱えた。


 浩司は深夜まで帰ってこなかった。布団にもぐり目を閉じるものの、パソコンのブルーライトが脳を刺激してしまったようで、思うように眠りにつくことができない。それでもなんとかして寝ようとする瞼の裏側で、何百枚もの渋沢栄一のお札がひょっこりと現れた。どこからかマイム・マイムの音楽が流れだし、お札たちは音楽に合わせてダンスをするようにくるくると舞いはじめた。栄一の顔に手と足がニョキっと生えてきて、互いに手を繋いでコサックダンスを踊りだす。そのダンスグループは大きな輪になって、足を出したり引っ込めたりと、皆で合わせて軽快なリズムをとっていた。


 珍妙なダンスの群れの輪の中に、花梨は訳も分からずぽつんと一人で立っていた。そのうちお札の一枚(一人?)が花梨の手を取り、栄一がウインクをして「一緒に踊ろっさ」と愉快気に誘ってきた。なぜ栄一が福井弁を話すのか疑問を感じつつも、断ることもできずに花梨も無理やり踊らされた。アラフォーの体にコサックは厳しい。ひいひい呻きながら、イカが火に炙られて体をくねらすような踊りを披露する羽目になり、花梨は次第にひどく惨めな気分になってきた。


 突然ガシャン、という金属音によって曲が途切れる。新聞配達の音だった。花梨はようやく悪夢から解放された。カーテンの隙間から、うっすらと朝もやの光が差し込んでくる。時計を見るとまだ四時半だった。うつらうつらと浅く眠るうちに、いつの間にか夢を見ていたらしい。花梨の脳も一緒にダンスを踊っていたように気怠くて、眠った気がしなかった。今日は仕事が休みで本当によかったと、花梨はしみじみ思った。再び意識を暗闇に落とし、くたびれた脳をゆっくりと休ませた。


 土曜日、慎二は課外授業があるとかで学校に向かった。十時ごろになって、浩司があくびをしながら居間へ降りてきた。

「なんやお母さん、こんなところで寝とるんか」


 ダイニングテーブルで顔を突っ伏している花梨に、浩司は声を掛けた。


「お札がコサックダンス踊っていての、よう眠れんかったんや」

「お札が……なんやって?」

「コサックダンスや。ロシア民謡の踊り。お父さんは知らんのけ」

 浩司はぽかんと口を開け、それから急いで体温計を持ってきた。

「お母さん、体温を測りや。熱があるんとちゃうんか」


 花梨はぼんやりした顔でメガネをかけ、体温計を受け取って脇に挟んだ。額が机に潰されて夕日のように真っ赤になっていた。


「お父さん、もう神頼みしかないわ。宝くじでも買おうかのう。連番とバラ、どっちがいいんやろ」

「バラがいいな。つうか、身体は大丈夫か。どっか調子が悪いんやないんか」

「ちゃうよ、大学や、大学。慎二の推薦や」と、否定するも、

「推薦なんて偉いことやが。俺は感心したで」と、浩司の方はのんびりとしたものだ。

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