(十四)

 意外な再会があったのは、純暦一九二四年。六月初旬のことだった。

 このときのアイはヴァリアブルの研究施設を間借りしていた。ヴァリアブルの都市機能は崩壊していたが、それでも南東の魔素資源鉱山やかろうじて生きている魔導機構によって、都市の人々はいくらか生きながらえていたのだ。しかし、イルフォールへつながる転移魔導門から異形が出てくるために、地上にいるのはアイと同じ研究対策にたずさわる者ばかり。それ以外の者たちは、居住区を地下に移しているのだという。

 アイは積極的に現地の研究者たちとイルフォール島調査計画や魔化対策について協議を進めていた。ヴァリアブルの魔導人形マナ・ドールであれば、瘴素濃度の高い空間で活動ができるのではないかと一縷いちるの望みをかけていたのだが、これにいくらか改良が必要だと開発者たちは首を振る。ほかにも、魔導機器の遠隔操作を可能にする方法や魔種対抗策として魔導武具の改良なども話し合ったが、どれも今すぐに完成するものではなかった。


 焦燥と日々のめぐりが噛みあわないアイのもとへ、ある日、一匹の猫が現れた。その猫は老齢のようだったが、アイを見るなり咽喉を鳴らして、しゃがれた声で「ごきげんよう、アイくん」とはっきりかつ冷静な言葉を発した。ケインだった。いままでどこにいたのかと訊ねると、ケインはただ一枚の封書を手渡した。青いバラの封蝋だった。差出人は不明。どこか妙に懐かしさを感じるが、透かして見てもわかることはない。しかたなく封を切って便箋びんせんをひらく。端正な文書だった。流れるような筆運びは繊細で、しかし文字の形をあまり崩さないような生真面目さがうかがえる。内容はじつに淡々としていて、簡素な時候の挨拶からはじまると、すぐに本題へ移った。まず、此度の白き異形の原因はイルフォール島にあり、それを解決しなければこのさき人類の存続は見込めないだろうということ。それほどまでに、大地も、また人類も疲弊していること。そして解決には禁域の封鎖及び転移魔導門の完全停止が必要であること。さらには、自分はこれらの解決に向かって行動するという旨が記されていた。

「これって、どういう……」

「なにも、書いてある通りさ」

 ケインはくぁ、と大きなあくびをした。

「そうじゃない」

 アイは言った。

「イルフォール島にはバケモノがわんさかいて、奇病――白亜化の原因である、瘴素に満ちている。それも、かなりの濃度だ。踏み入ったら三日ともたずに症状が出る。そのなかで、魔種に対抗しながら調査・原因の解決をするなんて、すぐできることじゃない」

「最後まで読んでみたまえ」

 ケインに言われて、アイはしぶしぶ便箋にまた視線を戻した。「あなたを信じています」という文末が目に留まり、急いで直前の文章に目を通す。アイは注視した。理解がおよばずに、何度も何度も口に出して読みあげる。



   七月に、ディストピア王が死んだことを各所に喧伝し、

   終戦を知らしめなさい。


   すべてはディストピア王の悪逆非道であったこと。

   国民はそれに不満を抱いていたこと。


   人族にあだなそうとする過激な者たちは

   ディストピア王と共にすべて処されたこと。


   これらをじゅうぶんにひろめ、和平へ進みなさい。

   あなたを、信じています。


   追伸 どうか健やかに。



「意味、わかんねぇよ……っあのバカ」

 便箋を握りこむ。本当は投げつけてやりたかった。この手紙の主が目の前にいたら、それこそ殴り倒していただろう。

「ケイン!」テーブルの上で毛づくろいをする老猫に、アイは詰め寄った。

「彼は気を遣いすぎて要点だけになるところが、いささか不器用と言わざるを得ない。まったく難儀なものだね」

「いいから説明しろ。サファイアは、なにをするつもりだ」

 ケインは気だるそうなまぶたをもちあげた。

「簡単なことさ。魔族は白に侵されない。だから彼は元凶を絶ちに向かったのさ」

「死ぬつもりか」

「おそらくは」

「なんで止めなかったんだ!」

「ではキミがいますぐどうにかできるとでも?」

 冷ややかな瞳が、アイを射貫いた。反論すらできなかった。

「これから彼がおこなうことは、じつに途方もないことさ。なにせ、単身でバケモノの楽園へとびこむんだ。転移魔導門の完全停止――つまり、魔種を殺し尽くしたうえで、禁域を閉ざす。魔導術式によって永久的な氷のひつぎをつくるつもりなのさ。もう二度と、禁域がひらかれないようにね」

「けど、〈禁域〉は本大陸にだってある! こんなの時間稼ぎにしか」

「時間稼ぎさ!」

 ケインは目を見ひらいて牙を剥きだしにした。

「このままイルフォールを放っておけば本大陸が滅びる。マゾクだジンゾクだと言っているふざけた戦争で。ヒトの尊厳を侵しつくす、キミがいう魔化とやらで。じつにバカバカしい話さ! だから彼はキミに託した。この一連の現象を調査研究しているキミに。キミなら、いつか必ず救えるはずだと信じて」

「だからって。なら、なんでもっと早く……相談してくれなかったんだよ」

「保険だよ」

 ケインは言った。

「いざというときに、キミがとつながりがあったんじゃ、こまるかもしれないって。そういう保険さ」

「どこまで」

 アイはうなだれた。

「どこまで、お人好しバカなんだよ……」

 そのときだった。

「その話、ほんと?」

 扉からレクサスが顔をのぞかせた。

「レクサス」

 アイはあわてて立ちあがった。

「お前はまだ休んでなきゃ」

「本当?」

 燃えるような赤い瞳が、アイを見据えている。その瞳を見た瞬間、アイは理解した。彼はわかっていて、それでもなお、こうして訊いているのだと。目を伏せて、奥歯を噛む。ここで嘘をつけば、レクサスは思いとどまってくれるだろうか。これから先の未来を、一緒に生きてくれるだろうか。アイはもう一度、レクサスを見た。

 レクサスは、アイを見つめていた。

 澄んだまなざしだった。

「……行くつもりか」

「うん、行くよ」

「止めたら、どうする」

「それでも行く」

 どこまでもまっすぐな、赤色。

 予感は、ずっとあった。アイは手もとで拳を握る。レクサスは真実を知れば、迷わずサファイアの元へ向かうだろうとわかっていたからこそ、ずっと黙っていた。それは、サファイアに望まれたからではない。自分の傍にいてほしいという切望が、この胸へ罪悪感を落としながらも、なおあったからだ。

 だからこそ、口からついて出るのは素直な想いではなく、彼にとって最も有効だろうという打算の言葉だった。

「サファイアが、お前に生きてほしいと願ってもか?」

「行くよ」

 レクサスはうなずいた。

 片腕を失った彼は、つまさきを床にとんとんと打つと、歯を見せて明るく笑った。

「だっておれには、まだ足があるから」



 二週間後。

 アイは本大陸南部の転移魔導門近くへ馬車を寄せた。そこは、アイたちがかつて脱出に使用した門だ。なぜヴァリアヴルから離れて、わざわざ閉じている転移魔導門へ訪れたのかというと、それまで開いていた三つの転移魔導門はすでに閉じていて、どうやっても開かないように機構から破壊されていたからだ。――サファイアの仕業だろう。

「まったく、そのくせ詰めが甘いったら」

 アイはイナサ、ケインと共に、転移魔導門の制御盤を操作した。淡く光る魔導回路が、魔素の供給を喜ぶように明滅した。

「いいか。用意できた魔素は片道一回分。これは、本当に死にに行くって。そういうことだ。しかも、向こうにはバケモノがいて、お前の身体は瘴素に耐えられないかもしれない。つまり、サファイアに会う前に死んじまうことだって、あるんだ。それでも、行くのか?」

「うん」

 レクサスはうなずいた。

「サファイアを、独りにはできないよ」

「そっか」

 アイは目を伏せた。心の中でサファイアに謝る。――ごめん。レクサスを止めることは、もうできない。

 顔をあげて笑ってみせる。肩をすくめながら、冗談めかして言う。

「なぁ、アイツに会えたら伝えといてくれよ――ふざけたこと抜かしやがって。尻ぬぐいぜんぶさせんなバカ。って、さ」

「わかった」

 レクサスは口と片手を使って靴ひもを結びなおすと、いよいよ立ちあがった。

「じゃあ行ってくるね。みんな大好き!」

 彼は、かるく片手をあげて駆けだした。

――ああ。

 なんて明るく笑っているんだろう。あんなにかろやかな足取りで。まるで、子どもが外へ遊びに行くぐらいの調子で。

 自分よりすっかり大きくなったはずの背中は、あっというまに小さくなって、まばゆい光の中へ消えていった。



 天幕を張って一週間が経ったその日も、アイはこの転移魔導門の周辺地域を調べていた。外は今時分にめずらしく、空には灰色が横たわっている。どことなく冷気がにじむようで、肌寒かった。昼を迎えると、決まって魔導門に異変がないかを確認しに行く。今日もまだ、レクサスは帰ってこない。

 アイは考えていた。――レクサスは、サファイアを連れて戻ってくるんじゃないだろうか。あのすました顔をひっぱたいて、なにバカなことしてんだって。イルフォールは三つの転移魔導門をあれだけ長い間稼働させていたのだから、帰りの魔素ぐらいだって、まだあるはずだ。二人が帰ってきたらすぐ魔導門を閉じて、サファイアには文句を言ってやる。みんなで拠点へもどってささやかな祝賀会をひらいて、ゆっくり寝る。これからのことは、起きてからみんなで頭を悩ませればいい。ディストピアが死んだことを周知すれば、サファイアはもう魔王でいる必要なんてないのだから。これからようやくレクサスとサファイアは二人で進んでいける。

 きっと――、

 はら、と白色が降りた。

 雪だった。

 刹那、アイは駆けだして、転移魔導門の制御盤へ向かった。それは光を失っていた。決まった手順をなぞるように、指先でなんども叩く。制御盤は反応を見せない。

 わかっていた。

 それでも、怖くて。

 だからこの一週間ずっと、制御盤に触れることができなかった。触れてしまえば――制御盤がなにも反応しなくなったとしたら、それはすなわち、イルフォールの魔導機構が完全に停止したことに他ならないからだ。

 魔導機構を停止させる必要があったことも。あの〈禁域〉から瘴素が漏れ出ないようにする必要があったことも。これらをひとつの犠牲もなく万全に解決するための手段と時間がなかったことも。

 わかっていた。

 理解したく、なかった。


 はらり。

 はらり。


 冷たく繊細な結晶が、肌に触れて溶けた。

 そのとき、はなにか大切なものが失われたことを、とうとつに実感した。いつのまにか長くなってしまったこの黒髪を抱くように、ここからはけっして見えない安寧の故郷を想う。頬をつたう熱はしばらくそのままにしておいた。つぎつぎとこぼれるその熱を、ただ感じていたかった。

 季節はずれの雪は、まるで戦火を鎮めるかのように、本大陸の全土へそっと降りそそいだ。

 その翌日。それらはなにごともなかったかのように姿を消した。わたしもまた、天幕を畳み拠点へと戻ることにした。生きているわたしには、まだ。やらなければいけないことがあったからだ。

 わたしに託されたのは、白くやわらかな、はかない雪だった。

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