20 ラグナロク・終

「すごいね。この服、ヨルムにぴったりだよ」

 ヨルムは、ラシルが彼の為に仕立てた最後の服を身にまとった。

「ラシルは本当に針仕事が上手いからな。それに、レイヤのことを良くわかっている。レイヤの美しさが際立つようだ」

 レイヤは少し頬を染めて頷いた。ラシルがレイヤの為に最後に仕立てた服もまた、レイヤにぴったりだった。

「ヨルム、調子はどう?さっきよりも元気みたい」

 ヨルムは、自分が死へと向かっていたのが嘘のように力が満ちているのを感じた。彼は、生きている。

「人の祈りが私に届いたようだ。私の本体は、まだ死んでいない。それに、レイヤのおかげで、この体にも力が満ちている。私はもう一つ、やらなければいけないことがあるらしい。レイヤ、付き合ってくれるか」

「もちろん」

 ヨルムは、壁に手をついて扉を開いた。


 そこは、何もない大地だった。

 ヨルムは、自分の本体である蛇の頭を自分の傍に呼ぶと、その頭の上にレイヤと共に乗った。その頭からはもう血は流れて居なかったが、乾いた血は、神の美しい白い体を全く違う色に染め上げていた。

 ヨルムは、その体を高いところまで上げた。

 そこから見える東の景色は、凄惨の一言だった。神々の軍勢は既に壊滅し、炎の巨人たちが世界を真っ赤に染めていた。その炎がヨルムの土地を火の海で満たすのも時間の問題だった。

「レイヤ。私はもう、人の神ではない」

「え?」

「私の為に祈りを捧げてくれた人々に出来る最後のことは、これだけだ」

 ヨルムは、その体の全てを彼の大地から引き上げた。


 大地の神に祈りを捧げる人々は、自分たちの神の復活を見た。

 しかし、巨大な蛇の姿は、神々しく輝く白ではなく、毒々しい血によって斑色に染まっていた。

 人々が不思議に感じた瞬間、それは起きた。大地がこれまでにないほど鳴動したのだ。その揺れで大地が砕け、土が隆起し、深い谷が現れた。ヨルムの土地の人々は、何が起こったかわからないまま、一瞬の痛みと共に死者となった。

 ホッドミーミルで守られるリーヴとリーヴスラシルを除いて、すべての人々が。


「ヨルム、どうしてこんなことを?」

「この土地も焼かれる運命にある。私が最後に出来る事は、せめて苦しまないよう、安らかな死を与えることだけだ」

 レイヤは、ヨルムの代わりに涙を流した。優しい神がこんなことを望んでいるわけがなかった。彼は、最後まで土地の人々を守る為に戦った。世界の滅びの運命と戦ったのだ。しかし、混沌は世界を覆い尽くそうと、すぐ目の前まで近づいていた。

「ありがとう。レイヤ」

 ヨルムはレイヤを優しく抱きしめる。

 人として慈しみの感情を強く持つ彼女に、この光景は酷だろう。しかし、それでもすべてを受け入れて彼の為に涙することのできる彼女は、とても強かった。

「フヴェルゲスヴォル、グンスラー、スリーズ、フリーズ、スュルグ、ユルグ、フィンブルスル、ヴィーズ、レイプト」

 ヨルムは、虹の竜たちを呼んだ。虹の竜は、ヨルムの呼びかけに応えて、すぐに集まった。

「私の土地の人々を死者の世界へ導いてくれ。皆が迷うことのないよう、頼む」

「わかりました」

 虹の竜たちは答えると、ヨルムの土地へ向かった。虹の竜の本体は、ヨルムが管理する土地を流れる川である。最終的にヘルの泉へと注ぐ川の化身であれば、死者をヘルの世界へと確実に導ける存在だった。

「さて。あの狼藉者を何とかしなければな」

 アングルボダの予見書になかった部分。スルトはフレイに勝ったが、その後どうなったかは書いていなかった。しかし、スルトが居ては地上が再生されないのは確かだ。

 ヨルムは、大地から完全に出たその身体で、スルトの方へ向かった。

 ヨルムが動いたことで、炎の巨人たちはすぐにヨルムの土地へ入り込んだ。そして、その土地を火の海にする為に炎を放った。

 しかし、そこには砕けた岩があるだけだった。


 スルトは、自分の前に来たヨルムに気付いた。

「おぉ。お前はロキの子供。ロキは死んだ。フェンリルも死んだ。お前は強い。だから残ったのだろう」

「強いから残るとは限らない。スルトよ。地上はすべて炎で覆われた。もう満足しただろう。ムスペルへ帰れ」

「帰る?ここは最早、我々の土地となったのだ。帰れと言われる筋合いはない。あの大きな木を燃やし尽くせば、ここもムスペルと同じ世界になろう」

 スルトが見た先には、世界樹ユグドラシルの姿があった。古代より地上のシンボルとして君臨し続けた美しい大樹は、炎に焼かれても簡単にその姿を失ったりしない。

 しかし、スルトが炎の剣で斬りかかれば無事では済まないだろう。

 あの木の根はホッドミーミルとも繋がっている。ヨルムは、ユグドラシルを守らなければならなかった。

「お前の好きにはさせない」

「ほぅ。フェンリルの弟よ。お前は私の敵となると言うのか」

「そうだ」

「武器を持つ手もないお前が?」

 スルトは笑った。ヨルムがどれだけ大きな姿をしていようとも、巨大なスルトが恐怖を感じる相手ではなかった。

「お前など、すぐに私の力で火炙りにしてくれよう」

 スルトは炎の剣でヨルムに斬りかかった。ヨルムはその攻撃を避ける。大地に体の全てを出したヨルムは素早い移動が出来た。トールよりも素早い攻撃を繰り出すスルトを、その体をくねらせて翻弄する。

「どうした。火炙りにするのではなかったか」

 スルトは、これまで縦に振り降ろしていた炎の剣を、横に薙ぎ払った。これなら、ヨルムは避けられないと考えたのだ。しかし、ヨルムはスルトが全く予想しない方向に避けた。いや、避けたのではない。ヨルムは、スルトの内側に体を伸ばすと、一気にスルトの胴体に巻きつき、その体を締め上げた。

 スルトの体はすべて炎で燃え盛っている。しかし、ムスペルの巨人の流れを汲むロキの血を引き、更に大地を司るヨルムの体を焼き焦がすことは出来ない。

 一方で、スルトもヨルムが巻き付いたところで、大きなダメージを受けてはいなかった。

「これで私に勝ったつもりか。身動きが取れなくなったところで、私は滅びはしない」

「浅はかだな。私が何の神であるか、お前に思い知らせてやるとしよう」

「神?お前は神なのか」

「そうだ。私は人々に豊穣を約束する大地の神。それは土地に力を与えるだけではない」

 ヨルムが呼んだ雲が、地上に雨をもたらす。

「実りに必要な雨を降らせるのもまた、私の務めだ」

 その雨はどんどん勢いを増すと、スルトの体の火を消していく。

「何だこれは」

 スルトは逃げようとしたが、スルトの体を完全に絡め取ったヨルムは、スルトを逃がしはしない。

「やめろ、このままでは凍える」

「残念だが、ここはムスペルほど熱くないのだ。この地にお前たちの住処などない」

 大地に降り注いだ雨が、地上の炎も消し去って行く。自分たちの王が敗北を喫しているのを見た炎の巨人たちは、慌てて自分たちの故郷へ繋がる火山へ向かって走り出した。

「ロキの子供よ。お前は強い。しかし、私はこの世界を燃やし尽くすのだ」

 スルトはそう言うと、自分の持っていた炎の剣をユグドラシルに向かって投げた。

「ヨルム!ユグドラシルが!」

 スルトの放った炎の剣によって、ユグドラシルは一気に燃え上がった。

「まさか……」

 ヨルムがスルトの拘束を解くと、炎の消えた巨人は、その場に倒れ伏した。

 ヨルムは自分が呼んだ雲をユグドラシルの方へ向かわせる。しかし、彼の呼ぶ雨が燃え盛るユグドラシルの火を消すことはない。

「ムスペルの火が簡単に消えると思わないことだ」

「まだ生きていたか」

「私は死なない。炎の巨人の王たる私は不滅だ」

「ならば、ムスペルへ帰れ」

 ヨルムはスルトを咥えると、火山に向かって放り投げた。火山へ向かっていた炎の巨人たちが、スルトの巨体を受け止める。そして、スルトの体を火山の中へと連れて行った。

「私は必ず戻ってくる。地上をムスペルの国とする為に」

 スルトは火山の中に消えた。炎の巨人たちが消え、ヨルムの雨によって地上から炎が消えた。ただ一つ、燃え盛るユグドラシルの炎を残して。

「あの火は簡単には消えないな」

「どうするの?スルトも、また来るの?」

「そちらを先に解決するとしよう」

 ヨルムは周囲を見渡した。そして、落ちたヴァルハラの黄金に混ざって、フェンリルが横たわっているのを見つけた。

「フェンリル」

 ヨルムはフェンリルの顔に自分の顔をつけたが、フェンリルが反応をすることはない。彼の兄はオーディンに勝利し、ヴィーザルに敗北したはずだった。

 ヨルムはフェンリルを咥えると、火山を目指した。そして、フェンリルの口を火山の火口に押し付けた。フェンリルの口からは大量の涎が零れ落ちる。腹の中にヴァルハラの最高神を持つフェンリルの口からは、清い水が流れ落ちていた。それは川のように大地に流れて行く。

「これでもうスルトは出て来れないだろう」

 出て来たとしても、フェンリルの腹の中に入るだけだ。

 ヨルムは振り返ると、燃え盛るユグドラシルを見た。

「このままでは焼け落ちる」

 ヨルムは自分の尾をユグドラシルとホッドミーミルの森の間に置くと、それを地面へと潜らせた。この二つの繋がりを断たなければならなかった。ヨルムは二つの繋がりを見つけると、それに自分の体を巻きつけた。これで、ユグドラシルからの炎は断てるはずだった。

 ヨルムは自分の体を、ユグドラシルを目指して進める。

「何もなくなっちゃったね」

「そうだな」

 戦場には、炎の巨人であった岩が溢れかえっている。

 もともと死人であったエインヘリヤルが死体となることはない。死ねばまたオーディンの待つヴァルハラへ帰るはずであったが、それが消えた今は、ヘルの待つ死者の世界へ向かっているはずだ。

「あ。あそこに誰かいる」

 ヨルムとレイヤは、地上で生き残った二人の神を見つけた。

「ヴァーリ、ヴィーザル。生き残ったか」

 オーディンの子・ヴァーリとヴィーザル。

「ヨルム。お前は何故、スルトと戦ったんだ。神々の敵であるはずのお前が……」

「若い神よ。ラグナロクの真実について語ろう」

「ラグナロクの真実?」

 意味が解らずに、二人の神は顔を見合わせた。

「これはすべて予見されていたことだ。オーディンとロキはすべてを知っていた。ラグナロクは古い世界の終焉だ」

「オーディンが聞いた、アングルボダの予言か」

「そうだ。しかし、オーディンもロキも、その本質には気づかなかった。お前たちは、饗宴で怠惰に過ごす神々を見て何を想った?ヴィーザル。お前は意見があるはずだろう」

「私はあんな怠惰な饗宴に興味はない」

「そうだ。それこそが正しい判断。神々は自分の務めの全てを放棄した。役割を失い、信仰を集めることもなく怠惰に傲慢に過ごしていたのだ」

「しかし、人々は戦争をしなくなった。戦神が働かないのは、人々が戦争をしないからだ」

 ヴァーリの言葉に、ヨルムは頷く。

「そうだ。人々は、もう戦争を望まなくなったのだ。新しい神々は人の希望という役割を持って生まれる。新しい神々が光や法を司る存在として生まれてくるのは、人々が平和で秩序のある世界を望んでいるからだ」

「しかし、オーディンは……」

「オーディンは、その席を新しい神に譲るべきだったのだ。しかし、常若の林檎があれば神々は滅びたりしない。そして戦の神・オーディンは、人は戦なしには生きられないと言い放ち、戦争の種を撒き続ける。お前たちは、どう思う」

「オーディンは、必要のない争いまで引き起こす。私は、必要のない争いはするべきではないと思う」

「ヴィーザル!なんて臆病なことを。お前は戦の神だろう」

「静かに過ごせるのなら、それに越したことはないはずだ」

 ヴィーザルが隠遁生活を送った理由はここにあった。力を持っていたとしても、それを振るう場所は戦争ではないと考えていたのだ。誰かを救うために、その力を使いたいと。

 ヴィーザルは自分の信念に従い、オーディンを救うためにその力を使おうと考えた。それがフェンリルとの戦いだ。しかし、オーディンを救うことは叶わなかったのだった。

「ヴァーリ。お前はどうだ。話し合いで解決出来る場に戦いを持ち込むのが良いと考えるか。裁きを与える際に、感情で決めごとをするか。皆が憤れば、その場の勢いで考え得る限り最高の罰を与えるか」

 ヴァーリは首を横に振った。

「それは違う。私は学んだ。裁きを与えることがどれだけ難しいことか。自分の感情で決めてはいけないことも。……私が行ったことが、どれだけ恐ろしい事であったかも」

 ヴァーリは、ロキに行ったことを反省していた。フォルセティから教わったのだ。法とは何か。公平とは何かを。

「良く言った。では、私はお前との約束を果たそう」

 ヨルムは蛇の頭から降りてヴァーリの前に立つと、その手を頭に乗せた。

「裁きの神・ヴァーリよ。お前は、誤った判断においてヘズを殺した罪と、倫理から逸脱した裁きを与えた罪を持っている。しかし、それは幼さ故の過ちだ。私は、法を守る契約の神の名においてお前の罪を許そう。ヴァーリよ。新しい神として生まれ変わるのだ」

「……はい」

 ヴァーリは、厳かに返事をした。ヴァーリはヨルムの言葉が正しかったことを認めたのだ。

「お前たちに私の力を託そう。光のない世界では大地は冷え切り、凍える冬を迎える。しかし、私の力があれば新しい世界が訪れるまで生き延びることが出来るはずだ」

「新しい世界?」

「そうだ。世界は再生する。裁きの神、ヴァーリよ。司法の神・フォルセティと共に、地上に生き残るべき神を選定するのだ」

「フォルセティも生きているのか?」

「私の眷属に探させている。フォルは必ず生きているはずだ。良いか、ヴァーリ。新しい世界に必要な神には力を分け、残せないと判断した神は死者の国へ向かうよう指示するのだ。ヴィーザル。法によって下された決定に異議を唱える者が居たら、お前が断罪して構わない。二人の救けとなってくれ」

「良いだろう。傲慢で怠惰な神など、この地には不要だ」

「頼んだぞ。お前たちは、これから死者の世界の入口に行き、光の神・バルドルを待て」

「バルドルを?」

「ヘルは地上に光の神・バルドルを返すと約束した」

「まさか」

「私の言葉が信じられないか?」

 二人の神は首を横に振った。契約の神であるヨルムが嘘を吐くなどあり得なかった。

「信じます」

「信じよう」

「ありがとう。お前たちは新しい世界に必要だ。新しい世界が始まるまで、何としてでも生き残れ」

「はい」

「はい」

 二人の返事を聞いてヨルムは満足した。そして、二人の頭に手を置くと、その力を分け与えた。彼が最後に得た人々の祈りと信仰の力を。


 二人の神と別れ、ヨルムはレイヤと共に再びユグドラシルを目指した。

 ユグドラシルは、その身体で世界を繋ぐ存在だ。地上だけではなく、他の世界にも繋がっている。あの木が焼け落ちれば、世界はぐらつき、混沌が押し寄せてくるだろう。

 生命の象徴でもあるあの木が燃えることはないと思っていたが。あの木の炎を放っておくわけにはいかない。

 ヨルムは最後の力を振り絞って、豪雨をもたらした。しかし、スルトの放った炎の剣は、ユグドラシルの芯を貫いていた。すでにユグドラシルは、その役目を終えていたのだ。ヨルムの努力もむなしく、ユグドラシルはその体を倒す。

「ユグドラシルが……」

「まずい。このままでは、」

 世界が混ざる。

 地面が砕け、体勢を崩した蛇の体ごと、ヨルムとレイヤはその中に落ちた。

「レイヤ」

「ヨルム」

 二人は手を取り、抱き合った。木の根に尾を絡みつけていた白い蛇は大地の上に留まったが、ヨルムとレイヤは底の見えない裂け目に落ちて行った。

 地上は、あっという間に遠くなり、二人は深い闇に覆われる。

「今って落ちてるのかな」

 相変わらず暢気に話すレイヤに、ヨルムは笑う。

 けれど、確かに落下しているのか浮遊しているのか、それとも留まっているのか、全くわからない不思議な感覚だった。

「怖くはないか?」

「大丈夫。暗くないから」

 暗闇の中で、ヨルムとレイヤは輝いていた。

「何か見える」

 ヨルムは、レイヤを離さないようにしっかりと抱いた。

「これは……」

 二人は、世界が混ざるのを見た。

 神の国・アースガルズとヴァナヘイム、妖精の国・アルフヘイム、小人の国・ニザヴェッリル、巨人の国・ヨトゥンヘイム、黒妖精の国・スヴァルトアルフヘイム、氷の国・ニブルヘイム、死者の国・ヘルヘイム、炎の国・ムスペルヘイム、そして、地上のミズガルズ。

 そして、世界は再構成された。

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