18 ラグナロク・決

 ヨルムとレイヤは、巨大な神がこちらに走って来るのを見た。

「トール?饗宴で見た時よりも大きくなってる?」

「あれがあいつの本来の姿。あれでも、饗宴に参加する時は小さくなっていたのだぞ」

 それは、人の姿の三倍はありそうな大きな姿だった。しかし、ヨルムの大きさと比べると小さい。ヨルムは威嚇するように体をくねらせて、トールを見た。

「トール。何をしに来た」

「わかってんだろ。お前を倒しに来たんだよ」

「お前が私と戦う理由などないはずだ」

「でもなぁ、オーディンの奴は、俺が行かないと他の神々をお前の土地に差し向けるって言ってんだ」

「私の土地に?」

「お前の体の半分は、その土地に埋まってるんだろ?お前が動けなくなるように、縛るつもりなんだよ」

 あの神は、とことん悪いことしか考えない。

「俺は、お前が他の神に殺されるところなんて見たくもないぞ。だったら、俺がこのミョルニルで一思いに殺してやる」

 ヨルムはため息を吐いた。

 やはり、予見は避けられないのだ。

「仕方ない。相手になってやるとしよう」

「ヨルム?良いの?トールは友達なんだよね?」

「戦場では、友も簡単に敵になる」

「そういうこった」

 トールは、ミョルニルを大きく振りかぶった。ヨルムの頭を狙ったその一撃を、ヨルムは軽くかわした。もちろん、トールもそんなことは見越している。トールが狙ったのは、その先にある蛇の体だった。しかし、そこにはすでに蛇の体はない。柄の短いミョルニルは、強力であっても小回りの利く武器ではなかった。トールはミョルニルの一撃を何もない大地に向かって放つことになった。

 大きな音と共に、大地が揺れ、衝撃の波が辺り一帯に響く。最も、巨大な蛇のヨルムはそんなものには全く動じない。素早くトールの腕に絡みつくと、トールの腕を締め上げた。

「ミョルニルを離せ。そうすれば解いてやっても良い」

「誰が離すものか」

 トールはそう言うと、もう一方の手で蛇の体を掴んで離そうとした。しかし、トールをきつく締め上げる力が弱まることはない。ヨルムはトールのその手を蛇の牙で噛んだ。トールは大声をあげて蛇の頭を振り払う。

「くそっ。いてぇー」

 トールは滅茶苦茶に暴れた。無駄な動きが多いものの、不規則に乱暴に振り回される腕を避けるのにヨルムは苦労した。トールの右腕を締め上げている以上、ヨルムの体はトールの腕が届く範囲にあったのだ。

「馬鹿者。少しは落ち着け」

「いてぇーんだよ!」

 全く話にならない。

 手加減せずに、最初から毒牙で噛んでやれば良かったか。いや、それならこれ以上に暴れたトールから強烈な一撃を食らっていたかもしれない。

 どうにか、トールを屈服させなければ。

 ヨルムは予見に従う気などない。一つでも予見が外れれば、未来は変わるはずだ。

 蛇の体を更に伸ばすと、ヨルムはトールの首を締め上げた。しかし、首までも強靭だったトールは、その程度では大人しくならない。暴れるもう一方の腕も締め上げたいところだが、ヨルムは、これ以上体を伸ばすことは出来なかった。ヨルムが自分の体を大地から出し過ぎれば、彼の土地が崩れてしまう。次に出来る一手は……。

 無茶苦茶に振り回されるトールの腕が、とうとう白い蛇の顔をかすった。

「あっ、」

「レイヤ!」

 かすったと言っても、その衝撃は軽いものではない。強烈な一撃により、体勢を崩したレイヤが蛇の体から落ちかける。ヨルムは繋いでいた手に力を込めたが、レイヤの体を元の場所に戻すだけの力はなかった。二人は、そのまま一緒に蛇の頭から落ちる。

 すぐにヨルムは蛇の頭を使って、レイヤの体をその口の中に受け止めた。

「ありがとう、ヨルム」

「無事で良かった」

 ヨルムは口の中からレイヤと共に地面に降り立つ。

「ここは危ない。レイヤ、向こうに逃げ……」

 しかしそれは、トールの戒めを解いたことを意味した。

「この、甘ちゃんめ!これでも喰らえ!」

 トールはヨルムの頭を狙ってミョルニルを高く振り上げた。

 ミョルニルを振り回すしか能のないトールの単純な攻撃を避けることは、ヨルムにとって造作もない事だ。しかし、今は避けることは出来ない。

「レイヤ」

 ヨルムは自分の腕にレイヤを抱きかかえ、その衝撃に備えた。

 ミョルニルの攻撃が直撃した白い蛇は、その強烈な一打によってトールに傅いたが、その頭を完全に地面に落とすことなく耐えた。ヨルムとレイヤの頭上で、白い蛇は止まったのだ。

 蛇の頭から、彼の血が噴き出す。

「やった!俺は勝ったぞ!」

 しかし、彼の血を全身に浴びたトールは、苦痛の悲鳴を上げながら一歩、二歩と下がった。

「愚か者め。とっとと逃げれば良いものを」

 トールは、地面に仰向けに倒れた。

 白い蛇の血は、あらゆる毒の素。この世で最も強力な毒なのだ。

 レイヤは、トールの巨体が倒れた際に起きた揺れに耐えると、ヨルムの方を見た。

「ヨルム?」

 彼の顔面は蒼白で、その表情は苦痛にゆがむ。レイヤはすぐに彼の体を抱いたが、いつものように彼が癒されていく気配はない。

 レイヤの上で、白い蛇がトールの方に向かって頭を倒した。その頭からは、彼の血がどんどん流れていく。トールが放った一撃は、白い蛇に致命傷となる一撃を与えていたのだ。

「レイヤ、頼みがある」

「何?」

「私を、私の土地まで連れて行ってくれ」

「いつもの扉は使えないの?」

「あれが使えるのは、私の土地のみだ。ここでは使えない」

 ヨルムは自分の呼吸を整える。自分が、急激に力を失っていくのを感じた。

「ヨルム、大丈夫?」

「まだ平気だ。この体の尾を目指して走れば、いずれ私の土地に辿り着く。おそらく、それが一番安全で早い」

「わかった。ヨルム、私に捕まって」

 レイヤはヨルムの体をその背に乗せた。そして、持っていた長いリボンで自分とヨルムの体を縛った。

「レイヤ。私の血に触れてはいけない。まずは、私の体に登ると良い」

「うん」

 彼の血が猛毒であることをレイヤは知っている。レイヤは蛇の鱗に捕まって巨大な蛇によじ登った。


 ヴァルハラでは、オーディンとフェンリルが戦っていた。しかし、それは戦いと言うには少し奇妙なものだった。

「どうした、臆病な狼よ。私を殺しに来たのではないのか」

「お前のようなあざとい神に誰が近寄るものか」

 オーディンは魔法を使ってフェンリルに攻撃したが、素早いフェンリルにその術が当たることはなかった。

 フェンリルは、オーディンがいつも自分を騙してきたことを知っている。戦いにおいて、フェンリルはオーディンに近づきすぎないよう、細心の注意を払っていた。

 一方、オーディンは、戦況が自分にとって有利にならないことに焦っていた。オーディンは魔法によって決着をつけようとしているわけではない。魔法でフェンリルを翻弄した後、ドヴェルグによって創られた魔法の槍・グングニルで一突きにしようと考えていたのだ。獰猛なフェンリルは、軽い傷を負ったぐらいではその勢いを止めることが無いのは明らかだ。機を見て最も重い一撃を与えるのが最良の選択だとオーディンは考えていた。

「まだ縛られていたことを根に持っているというのか?今の状況を見れば、お前が自分が縛られるべきだったのだとわかるはずだろう。お前は私の予想通り神々に仇名す存在となっているのだぞ」

「お前が私を縛ったりしなければ、私は神々の側についてやっても良かったのだぞ。善良な神々が一声かけてくれさえすればな」

「恐ろしい狼の言うことなど誰が信じる者か」

「見た目で相手を判断することしかできない無能な神め。お前なんぞより、テュールの方が余程、最高神に相応しい」

「お前のような化け物が神を語るなど笑止。だいたい、お前が置いて来たガルムはテュールを殺すのだぞ」

「まさか」

「これでは、お前が殺したも同じだな」

 フェンリルは怒りに震えた。オーディンが善良なあの神の死を語るなど、フェンリルには許せなかったのだ。

「黙れ!自分のことしか考えない身勝手な神め!」

 フェンリルは高速でオーディンに向かって駆けた。オーディンは機は熟したと考え、グングニルに手を伸ばした。しかし、その行動はフェンリルの素早さに比べると、あまりにも遅すぎた。

 フェンリルは大きく口を開くと、一気にオーディンを丸呑みにした。こうして、神々の王はあっさりと負けてしまったのである。

 しかし、その戦いを影から見ていたヴィーザルは、すぐにフェンリルの元へ行くと、鉄のように固い靴でフェンリルの下顎を踏みつけ、フェンリルの口を開いた。

 フェンリルは口を閉じようとしたが、その靴は完全にフェンリルをその場に押さえつけ、全く動けない。

「お前は誰だ」

「オーディンの子、ヴィーザルだ。オーディン!どこへ消えた。早く戻って来い!」

 ヴィーザルは叫んだが、オーディンの姿は全く見えない。

「俺の腹に入ったものが出て来るわけがないだろう」

「ならば、その体を引きちぎってやる」

 言うなり、ヴィーザルはフェンリルの上顎を掴むと、その怪力でフェンリルの口を引き裂いた。フェンリルは、ヴィーザルがトールに匹敵する怪力の持ち主であることなど知らなかった。フェンリルもまた、あっさりヴィーザルに屈した。

 ヴィーザルは、オーディンの復讐を果たしたのだ。


 レイヤは、巨大な白い蛇の上に辿り着いた。

 ヨルムとレイヤは、そこから東の地を見た。遠くで、光る宮殿が落ちていくのが見える。

「ヴァルハラが陥落した。オーディンが死んだな」

 光る宮殿は混沌とする東の戦場に落ちた。しかし、オーディンが死のうと、戦場で戦う者たちが戦いをやめることはなかった。エインヘリヤルたちがいかに勇猛に戦おうと、炎の巨人たちが放った火はその勢いを増し、どんどん世界を呑み込んで行く。

 レイヤは西を見た。ヨルムの土地は暗く、静かだった。

 レイヤは自分の背に居るヨルムを抱え直すと、白い蛇の体の上を尻尾に向かって走った。この体を辿れば、彼の土地に帰れる。

 白い蛇の周りでは、彼から流れ出た血が海のように広がっていた。炎の巨人たちが彼の血に触れて、岩の塊に変わって行った。彼の巨体と血は、動けなくなったとしても、炎の巨人から彼の土地を守っていた。しかし、それも時間の問題のように思えた。守る者が居なくなった時、ヨルムの土地もまた、戦火に呑まれるのだ。

 レイヤの走る先に、炎の巨人が現れた。

「どうして?」

 下を見ると、何人かの巨人が毒を越えて白い蛇の体の上によじ登っているのが見えた。

「お前は敵か?」

 囲まれている。

 ヨルムを抱えたまま、レイヤは逃げ場を失った。

「レイヤ。剣を抜け」

 レイヤは片手でヨルムを抱えながら、その剣を抜いた。

「あれっ?」

 剣の名工、ドヴェルグのダーインによって造られた剣は、レイヤの手を離れると、ひとりでにレイヤの周りに居た炎の巨人たちに斬りかかり、次々と巨人たちをなぎ倒した。

「助けてくれるの?」

 剣は、レイヤの行く先に居る巨人をなぎ倒していく。

「ありがとう」

 レイヤは、剣が切り開いてくれた道を走った。


「お兄様ー!ヨルムお兄様ー!」

 遠くから聞こえる呼び声に気付いて、レイヤは振り返った。

 毒の血の上に一つの船が浮いている。それが、レイヤたちの方に向かって来たのだ。

「レイヤ、止まってくれ」

 ヨルムの指示に従い、レイヤは止まった。すると、すぐに船はレイヤたちの近くに来た。

 船には、喪服のように黒いドレスを身にまとい、黒いヴェールをかぶった女性が乗っていた。

 ヨルムの妹で、死者の国の女王・ヘルだ。

「お兄様。なんと、おいたわしいお姿。すぐに私の国へいらっしゃって下さい。傷の浅い内に私の国へ来て頂ければ、復活させることも楽に出来ます」

「ヘル。お前に頼みがある」

「はい。なんなりと」

「お前は、すぐに死者の国へ帰らなければならない」

「まぁ。何故ですか。フェンリルお兄様は、ありとあらゆるものに地上に来るように呼びかけたのですよ」

 フェンリルの遠吠えには、そんな意味があったらしい。

「この戦場を目にすればわかるだろう。多くの死者がお前の国へと向かっている。お前は、それを受け入れなければならない」

「しかし、」

「番犬も居ない今では、死者があちこちに彷徨ってしまう。ヘル。死者に安らぎを与えられるのは優しいお前の存在だけだ。頼むから、死者の国へ帰ってくれ」

「あぁ、お兄様。せっかくお会いできたと言うのに……。わかりました。お兄様の言葉とあれば、従いましょう。ですが、ここで何もせずに帰るわけには行きません。何かお兄様のお役にたてることはございませんか?」

「ある」

「まぁ」

 ヘルは喜んだ。

「なんなりとお申し付けください」

「バルドルを復活させてくれ」

「えっ?バルドルを?」

「世界は終わる。そして再生する。新しい世界にはまず、光が必要だ。それにはバルドルが相応しい」

「ですが、私は神との取引で、二度とバルドルを地上に返さないと約束しました」

「その約束が今も生きていると言うのなら、契約の神の名において、正しい契約の履行を求めよう。バルドルの為に泣かなかったのは人ではない。人に化けた神・ロキだ。私は、あの男の介入を無効とする。世界のありとあらゆる生き物と無生物は、まさにバルドルの死を悼んで泣いた。ヘル。この契約に置いて、お前が為すべきことは何だ?」

 ヘルは、ロキが自分の契約に介入したことを知らない。しかし、それを知ったからには、過ぎたことと言えども、判断のやり直しが必要なことは確かだった。ヘルはヨルムのように、公正な判断を下す女神だったのだ。

「わかりました。お兄様のおっしゃる通り、バルドルを返すと約束しましょう」

「ありがとう。ヘル。ただし、この契約の履行に際し、お前が真実の精査を見誤ったことに違いはない。契約の履行が遅れた損害の代償として、もう一人、神を復活させてやれ」

「もう一人?構いませんが、誰を復活させると言うのでしょうか」

「それを選ぶのは、契約の不履行の期間、損害を被ったバルドル自身だ」

 ヘルはむっとした。

「バルドルの言うことに従うのは面白くありません。どうせバルドルは妻のナンナを選ぶでしょう。お兄様が、初めからナンナを指定してはくれませんか?」

「だめだ。バルドルに選ばせなければならない」

 ヘルは言い返そうとしたが、口で兄に勝てることが無いのは知っている。

「わかりました。従いましょう」

「ありがとう。これからは戦死者であろうと、病の死者であろうと、老衰の死者であろうと、人であろうと神であろうと、身分や功績に関わらず、そのすべてがお前の元へ行くだろう。どうか、死者の国に安らぎを与える神であってくれ」

「お任せください、お兄様」

 ヘルは頷くと、その船の向きを変えた。そして、死者の国へと向かって船を進めた。その船には、ヘルの姿を見つけた死者が次々と乗り込んだが、ヘルはその死者をすべて受け入れた。死者が迷わないよう導くのもヘルの役目だった。

「フィヨルム。まだ生きていると言うのなら、私の元へ来てくれ」

 ヨルムの呼びかけに応えて、虹の竜がやって来た。

「ヨルム様。あぁ、なんとおいたわしい。何か私に出来る事がありますか?」

「司法の神・フォルセティを探し、救ってくれ。ヴァルハラに居たはずだ」

「光の神の息子を?しかし、今はヨルム様を安全な場所へ御運びすることが先では?」

「空を飛べば目立つだろう。私がまだ生きていることを誰かに知られるわけにはいかない。私は死んだことにしておいてくれ」

 フィヨルムは頷いた。

「ならば、仕方ありません。司法の神を守る役目、確かに承りました」

「頼んだぞ。行こう。レイヤ」

「うん」

 レイヤは、また走った。ヨルムの土地を目指して。


 ロキはヘイムダルと、テュールはガルムと相討ちになった。スルトと戦ったフレイは、善戦したものの剣を失っていた為に敗れた。

 名だたる古い神々は、この戦場でその運命を決した。

 ヨルムの土地では、人々が自分たちの神がトールに敗れたことを知った。しかし、その毒でトールを打ち倒したことも知った。人々は喜んだが、神が死んだことに変わりない。

 人々は神を想って泣いた。死してもなお、人々は自分たちの神へ祈りを捧げた。


 レイヤは走り続けた。

 進むほどに、戦場の喧騒は遠のき、静けさを取り戻して行った。炎の巨人たちももう居ない。ダーインによって造られた剣は、戦う相手が居ないことを知ると、レイヤの腰の鞘に戻った。

「ありがとう。守ってくれて」

 剣は、やはり意思を持っていたのだろう。頷くように一度揺れた。

 レイヤは更に走る。

 走って。

 走って。

 走って……。


「レイヤ。ここから先は私の土地だ。降ろしてくれ」

 ようやく、ヨルムの土地に帰って来た。

 ヨルムはレイヤの背から降ろしてもらうと、蛇の体に手を付き、扉を開いた。そして、レイヤと手を繋いで、扉の中へ入る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る