17 ラグナロク・序
ヨルムとレイヤは、高い山の上に立っていた。東の空には、空で唯一光を放つヴァルハラが見えた。世界中に響き渡る狼の咆哮は、まだ続いている。
「この声、どこから聞こえるの?」
「ずっと遠い場所。これは、戒めを受けるフェンリルの遠吠えだ」
「ヨルムのお兄さんだよね?」
「そうだ。そして、フェンリルの呼び声によってラグナロクは始まる」
辺りに爆発音が響いた。南の火山が火を吹いたのだ。
「火山が……」
山からは次々と真っ赤な岩石が飛び出し、その稜線に沿って赤い溶岩が流れ出した。空と大地が一気に赤く染まる。
「行くとしよう」
ヨルムがそう言うと、二人の足元が揺れた。レイヤは驚いてその場に座り込んでしまったが、ヨルムは全く動じない。
ヨルムとレイヤは、何かに持ち上げられているかのように、どんどん高い位置に移動していた。
「どうなってるの?」
「足元を見ると良い」
レイヤの足元は白かった。彼女は山の上に居たはずではなかったか。レイヤは地面に触れた。彼女は、この感触に覚えがあった。白い色と、それに施された鱗の装飾にも。
レイヤは、ようやく気づいたのだ。
この白い石が、石ではなかったことに。
「これは、ヨルムの体だったの?」
「そうだ」
山は砕け、大地の神の姿がそこに現れた。菫の瞳をした、神々しく白く輝く巨大な蛇。二人は、その頭に乗っていた。
と言っても、ヨルムはその体の全長を地上に出したわけではない。頭をはじめとした体の一部を外に出したに過ぎなかった。それでも、その白く長い体は、伸ばせば簡単に天に届く大きさだった。
「これが私の本体。こんなに体を伸ばすのは、どれぐらい振りだろうな」
ヨルムは楽しげに言うと、その体をムスペルの炎が噴き出す火山の方へ進めた。
ヨルムが南の火山に着くと、山の上に居たロキがヨルムを迎えた。
「おぅ。久しぶりだな。随分と大きくなったじゃねーか」
「ロキ。どうやって戒めを解いたんだ」
「火山の第一撃が、俺を繋いでいた岩を砕いたんだよ。流石、ムスペルの巨人だ。俺を解放してくれた礼はしなくちゃな。もう一人の息子も来たようだし」
ロキの言う通り、遠くから巨大な狼が走って来るのが見えた。フェンリルだ。
「ロキ。ヨルム。久しぶりだな」
「フェンリル。お前も戒めが解かれたと言うのか」
「戒め?あの縄か?あいつら、俺を騙しやがって。絶対許さない。オーディンの奴はどこだ。これであいつを縛ってやらないと気がすまない」
フェンリルは、自分を縛っていた縄の一部を口にくわえていた。
「まさか、食いちぎったのか」
「当たり前だ。俺様が引きちぎれないものなどない。奴ら、俺の口に剣を立てて、口を閉じれないようにしやがったんだぞ。そのせいで引きちぎるのに時間はかかったが、ついに俺はやってやった」
「太陽と月が消えた事とは関係ないのか」
「あぁ、満腹になったスコルとハティの力は借りたぞ。あいつらが剣を折ってくれたんだ」
関係なくもないらしい。
「フェンリル様!」
遠くからする声に、フェンリルは振り返った。フェンリル程ではないが、大きな狼がこちらに走って来る。
「ガルムじゃないか。久しぶりだな」
胸元が赤い色をした大きな狼は、フェンリルにかしずく。
「なんでここに居るんだ?お前にはヘルのことを頼んでいたはずだろう」
死者の国に流されたヘルの為に、フェンリルはガルムを遣わせた。ガルムは番犬としてヘルの館を守っていたはずだ。
「ヘル様は、フェンリル様の呼び声を聞いて地上を目指しています。俺はそれを伝えに先に来たんです」
「地上を?」
「久しいな。ヘルも来るのか」
「なんだ。すぐに家族の再開って訳にはいかなかったか」
一度死者の国へ流された者は、簡単に地上に戻ることは出来ない。しかし、元々生きている者と、ヘルによって復活を許された者は地上へ遡ることが出来た。
生きたまま死者の世界に流されたヘルは、地上へ戻ることが出来る存在だ。
「しかし、ヘルはどうやって来るつもりだ?こちらに来るには、翼か船が必要だろう」
地上へ戻るのは簡単なことではない。フェンリルやガルムのように大きく強靭な体がなければ、ロキやオーディンのように変身して翼を得るか、船を使うしかない。
「ヘル様は、いつか地上に戻る時に備えて、こちらの世界に来る為の船を作って居たんです」
「船の素材となるようなものなど死者の国にはないはずだ」
「死者の世界で、唯一堅く、死者から剥ぎ取っても死者の本質を傷つけないもの。ヘル様は、死者の爪を使って作ったんです」
「ヘルは努力の女だからなぁ。まぁ良い。さぁ、巨人の軍勢のお出ましだ。出てこいスルト。こちとらお前待ちなんだよ。早く神々のところへ行こうぜ!」
ヨルムとレイヤが火山を見ると、溶岩と共に、巨大な赤い巨人が出てきたのが見えた。ヨルムは自分の本体の前に山を作ると、ならず者たちの進軍を妨げた。巨人たちは、抗議の視線をヨルムに向けたが、自分達よりはるかに大きなヨルムの姿に怖じ気付いた。
「私の土地に入ることは、何人たりとも許さない。お前たちが用があるのは東の地。ヴァルハラを目指すならば、ロキに続け」
知恵のない炎の巨人たちは、ヨルムの言っていることのすべては理解できない。しかし、彼の示す方角に進むことは承諾した。
「まじか。もう進むって?しゃーない、俺について来い。行くぞ、フェンリル、ヨルム。目指すはヴァルハラだ」
「私は行かない」
「はぁ?この期に及んで何言ってるんだ。俺について来い」
「私はお前の味方になった覚えはない。私は自分の土地を守るためだけに戦う」
ロキは大げさにため息を吐く。
「お前は昔っからそうだ。親の言うことを何一つ聞かない馬鹿息子め。スルトが出てきたら伝えておけ。ロキはとっくに進軍したと。あー、おい。炎の巨人ども。そっちじゃない。こっちだ」
ロキは鷹に姿を変えると、飛んで行った。
「ヨルム。ロキに従ってやらないのか」
「あんな馬鹿親の言うことなど聞くものか」
「昔から、会えば喧嘩ばかりしていたようだな。テュールから聞いてるぞ」
相変わらず、テュールとフェンリルは仲が良い。
「フェンリル。神々と戦うのなら、テュールと敵対することになるんだぞ」
「そんなことは承知の上だ。ヨルムこそ、本当に行かないつもりか?俺たちの宿敵、オーディンは俺が殺しても構わないんだな?」
「好きにしろ。罪なく縛られたお前には、その権利がある」
「相変わらず堅苦しい奴だ。それじゃあ行ってくるぜ。ガルム。ついて来い」
フェンリルがガルムを従えて駆けて行った。
ロキに従う炎の軍勢が、燃え盛る炎の道を築く。その道に何があろうと、すべてを燃やしながら行軍は続く。
「ヨルム、スルトって誰?ムスペルの神さま?」
「違う。炎の巨人の王だ。今見た巨人たちとは比べ物にならないぐらい巨大な姿をしているらしい」
「ヨルムより大きくはないよね……?」
そう言ったレイヤの目の前で、火山の中から巨大な手が出てきた。レイヤは思わず悲鳴を上げた。あれが手の大きさだとしたら、その全長は一体どれほどだと言うのか。
ヨルムはレイヤを抱き寄せる。
「心配ない」
炎の巨人は、その手を山の裾に押し付けると、今度は燃え盛る頭を出した。あまりにも大き過ぎる巨体が出てくるせいで、溶岩の流れは一度止まった。しかし、スルトが雄叫びを上げると、その口から噴煙と共に酷い臭いのする炎が飛び出した。
ヨルムは、それが自分の土地に降りかからないよう、雲を呼んで防いだ。
スルトは上半身を出しきると、今度は両手を山の下について自分の足を火山から出し、ようやく、その体のすべてを大地に晒した。その身長は天をも越える勢いだ。真っ赤な体は常に燃え盛っており、スルトが一歩進んだ先にあった森は一瞬で灰になった。そして、もう一歩進んだ先にあった海は蒸発した。
スルトは周囲を見回し、ヨルムの姿を認めた。
「白い蛇よ。あの高らかな呼び声はお前か?」
高らかな呼び声とは、おそらくフェンリルの遠吠えだろう。あの声ならばムスペルヘイムにも届いたに違いない。
「私ではない。炎の巨人たちは、東を目指している。ロキの指揮で」
「おぉ。ロキか」
「知っているのか?」
「ロキはムスペルで生まれた末の子だ。そうか。お前はロキの子供か。私を呼んだのはお前だな」
「違う」
原初の存在である炎の巨人は、地上の者に比べて知恵がない。言葉を理解することが難しい為、たくさん喋ると簡単に聞き逃すのだ。
「お前を呼んだのは兄のフェンリルだ」
「おぉ。ロキの子供か」
「そうだ。ロキとフェンリルは東へ進んでいる」
「ならば、私も東を目指そう」
スルトは、炎の巨人が列を成して進む真っ赤な道を進んだ。しかし、前しか見ないスルトは、その巨体で仲間の炎の巨人たちを踏み潰しながら進んでいる。
「踏まれた巨人が岩になってる」
「この地は、巨人たちにとっては寒過ぎるからな。スルトに踏みつけられて一時的に炎を消されると、簡単に凍えて死んでしまうんだ」
「酷い。スルトは王様なのに」
「太古の世界では力関係は絶対だ。炎の巨人は、すべて王に隷属している。たとえ殺されようと、誰も文句を言わない」
ヨルムは、彼の本体の向きを東に変えた。
巨大なスルトは、あっという間に炎の巨人の列の先頭へ行った。鷹の姿をしたロキは、燃え盛るスルトの肩に止まると人の姿に戻る。スルトの炎は、ロキには何の影響もないようだ。ロキが炎の巨人の流れを汲んでいるのは確からしい。
ヴァルハラからは、羽の生えた戦乙女・ヴァルキュリアたちが先陣を切って飛び立ち、エインヘリヤルたちを地上へ連れて行った。
「あの辺りは、ヴィーグリーズか」
ヴィーグリーズの野にて、エインヘリヤルたちと炎の巨人たちによる戦いが始まった。
それでもスルトの進軍は止まらず、スルトたちはヴァルハラへ続く道、ビフレストを渡り、天を目指した。
そして、牛が鳴くような低い音が世界に響き渡る。
「何の音?」
「ヘイムダルのギャラルホルンだ。招かれざる客が来た時に、神々に危険を知らせる」
最も、その角笛が吹かれたのは今回が初めてだ。たいていの珍客は、神々の手を煩わせることなくヘイムダルが退治出来るからだ。
「あの橋、あんなに大きな巨人が通っても壊れないんだね」
「いや。そんなことはないだろう。スルト一人でも重いのに、あれだけの炎の巨人が渡ったとあれば、ただじゃ済まないはずだ」
ヨルムの言う通り、ビフレストはその重みに耐えきれず砕けた。
炎の巨人たちが地上に落ち、スルトは地上に尻餅をついた。その衝撃で大地が揺れ、スルトの炎があちこちに飛び、東の地が一気に燃える。
あの炎がこちらに来るとも限らない。火山から炎の巨人がもう出てこないことを確認すると、ヨルムは、本体を東へ向けて移動させた。
ここから先は、もう彼の土地ではない。
戦場と化したヴィーグリーズに、次々と神々が降り立った。
ビフレストの守り手だったヘイムダルは、巨人をヴァルハラに招こうとしたロキを攻撃した。
「愚かな神とは思っていたが、ここまでとはな。最早、弁解の余地もないぞ。二度とヴァルハラに帰れると思うな」
「良く吠える番犬だな。世界がこんなになっても、ビフレストが落ちたとしても、お前の役目は変わらないって言いたいのかい。相変わらず愚直で頭の悪い神だな」
「オーディンに義兄弟の契りを貰って召し抱えられた分際で何を言う」
「はっ。馬鹿言ってんじゃねーよ。誰が召し抱えられただ。物欲の強いあいつが、俺の知識と知恵と力を欲しがっただけだ。あいつが神々の王で居られんのも俺のおかげなんだぞ」
「すべてはその神性によるものだ。その首を斬り落とし、二度と喋れないように舌を焼いてやる」
「光の神の名をバルドルにも太陽にも月にまで奪われて、何言ってるんだ。落ちるところまで落ちた神なんぞ、俺の相手になるものか」
「何とでも言うが良い。お前の挑発には乗らん」
「あー。お前が俺の相手に選ばれた理由がなんとなくわかったわ」
「何の話しだ?」
「お前は強いって褒めてやってんだよ!」
ロキは強力な一撃をヘイムダルに放った。
ビフレストを渡り損ねたスルトの元へは、フレイヤの双子の兄・フレイが向かった。
「このように巨大な巨人が存在したとはな。やはり、フェンリルやヨルムはお前たちの血を引く、神々に仇名す勢力であったようだ」
スルトはフレイの方を見た。スルトにはフレイの言葉は良くわからなかったが、侮辱されたことだけは理解できた。
「私の子らの悪口は許さんぞ」
スルトは自分の手に炎を集めて燃え盛る剣を作ると、フレイに向かって振りかざした。剣を持たないフレイは、持っていた鹿の角で応戦する。
「勝利の神が、お前をすぐにでもムスペルの地に送り返してやろう」
しかし、少々分が悪いのは誰の目に見ても明らかだった。
大地へと降り立ったテュールは、真っ先にフェンリルの元へ走った。
「フェンリルよ。お前は炎の巨人の仲間にはならないだろう」
「テュール。あんたのことは好きだが、俺は俺のことを縛った連中を許すわけにはいかない。特に、オーディンの奴は」
「お前が罪なく縛られたのは皆の知るところだ。神々も反省するだろう。それに、その件は私の右腕によって解決したはずではなかったのか」
「それは、すぐに放してやるって約束を反故にした代償だ。だいたい、オーディンは俺たち兄弟妹にどれだけ酷い仕打ちをしたと思ってんだ。幼いヨルムを地上に投げ捨て、ヘルを生きたまま死者の国に流したのはあいつだぞ」
「確かに、オーディンはむごい仕打ちをした。しかし、それは神々を想っての行動だ。強い神ばかりではない。その恐怖を取り除くために行動する必要があるのだ」
「なんだって?裁定の神であるお前が、自分の子供を守る為なら、ちょっと怖いって理由だけで他人に罰を与えて良いって言うのか」
「確かに、その行程に問題はある。お前は賢く、神々に近寄るなと言えばその約束を順守してくれることぐらい、私は良くわかっている。神々とお前の間に立って、公正な判断を下せなかった責任は私にあるのだ。フェンリルよ。オーディンを狙うと言うなら、先に私を狙うべきだ」
「やなこった。俺はオーディンのところへ行く。ガルム、お前はここでテュールを止めておけ」
「はい」
「待て!フェンリル!」
「お前の相手は俺だ」
走り去るフェンリルを追おうとするテュールの行く手を、ガルムが塞ぐ。
「仕方ない。たとえフェンリルの眷属であろうと、容赦しないぞ」
「フェンリル様の命令は絶対だ。俺はお前を通さない」
裁定の神にして戦神でもあるテュールは剣を抜き、ヘルの館の番犬・ガルムと対峙した。
トールは、ミョルニルを大きく振りかぶってヴァルハラから飛び立つと、そのまま大地に向かって強烈な一撃を与えた。戦場でその一撃に巻き込まれた者は敵も味方も関係なく即死し、その衝撃は敵も味方も関係なく吹き飛ばした。
「さて。俺の相手はどこだ?」
トールは戦場を見回し、自分が戦う相手を見つけると、彼の待つ西の地へ走った。
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