13 戯言

 次の日。

 レイヤが起きると、ヨルムは部屋に居なかった。真っ暗闇の部屋で手探りで動こうとした彼女は、見事に目測を誤ってベッドから落ちる。

「いたたたた……」

 すぐに部屋の扉が開き、明かりが射しこんだ。

「レイヤ」

「おはよう、ヨルム」

「おはよう」

 ヨルムは部屋に入ると、扉を閉めてレイヤの傍に跪く。

「痛みはないか?」

「うん。思ったより平気かも」

 ヨルムの加護があれば、自分は傷つかないということを彼女は思い出した。

 そして、もうひとつ不思議なことに気づいた。

「ヨルム、背が伸びた?」

「そのようだな。しかし、大人になったわけではない」

 歳は十歳ぐらいか。良く見れば顔つきも少し変わった。まだまだ幼い影を残す育ち盛りの子供の姿とはいえ、彼が成長したのは確かだ。

「着替えて来ると良い。明かりを灯しておこう」

 ヨルムはランプに火を灯すと、部屋を出た。

 誰も居ない部屋の中、レイヤは明かりにさらされた自分の姿を見て顔を赤らめた。自分は、こんな姿で眠っていたのかと。眠りについた時の記憶が彼女にはほとんどない。

 レイヤは急いで身支度を整えると、部屋を出た。

「おはようございます。レイヤ様」

「おはようございます」

「おはよう。あの、ヨルム。話したいことが……」

「出かけてくる。レイヤ。私が帰ったら出発の予定だ。ゆっくり食事を摂ると良い」

「え?一緒に行かなくて大丈夫?」

「心配ない。すぐに戻る」

 そう言って、ヨルムは家を出た。

「レイヤ様、お食事にしましょう。昨日買っていただいたお菓子もいかがですか?」

「ありがとう」

 テーブルに並ぶ焼き菓子を見て、レイヤは不思議な思いがした。焼き菓子を買ったのは、昨日のことだったか。あまりにも色々なことが起き過ぎて、時間の感覚が狂う。

「今って、朝?」

「もうお昼になります」

「昼?」

 一体、どれだけの時間寝ていたというのだろう。

「お疲れだったのでしょう。昨夜は遅いお帰りだったとヨルム様から聞いております」

「ヨルムは朝起きたの?」

「はい。いつも通りの時間にこちらにいらっしゃいました」

 ヨルムも同じだけの時間、起きていたはずなのだが。神であれば、そんなに睡眠を必要としないのかもしれない。

「丁度、繕っておいたお召し物が役に立って良かったです。ヨルム様は、日々成長されるのですね」

 成長。

 それはヨルムが望んでいたことのはずだったが、レイヤは素直に喜べなかった。

「次はどれぐらい大きくなられるのでしょうね」

「大人になったら、私より背が高くなるって言ってたよ」

「まぁ。どうしましょう」

 困っていると言うよりは、喜んでいるようだ。ラシルは、成長するヨルムに服を作ることを楽しみにしているのだろう。

「そうだ。大人のヨルムが着てた服があるはずだよ。持ってこようか?」

「そうして頂けると助かります」

 レイヤは、ヨルムの部屋に入ってクローゼットから服を一着持って来た。灯火の魔法を使える彼女は、もう暗い部屋にも一人で入って行ける。

「これで良い?」

「ありがとうございます。これを参考に新しいものを御仕立しましょう」

「レイヤ様、そろそろお食事にされてはいかがでしょうか」

 リヴが食卓から声をかける。

「そうでした。お邪魔をしてしまい、申し訳ありません」

「そんなことないよ。素敵な服……、お召し物を作ってあげてね」

 ラシルが微笑む。

「お任せください」

 レイヤが席に着くと、リヴが昨日と同じようにハーブとレモンが香る炭酸水を食事に添えた。相変わらず体を目覚めさせてくれる爽やかな飲み物だ。

「美味しい。ありがとう、リヴ。ヨルムが、どこに行ったか知ってる?」

 すぐに戻ると言っていたが、レイヤは気になっていた。

「散歩ですよ。森の散歩はヨルム様の日課なんです。特に時間は決めていらっしゃらないようですが、一日に一度は散歩に出られます。ヨルム様がレイヤ様とお会いになられたのも、私とラシルがヨルム様に助けられたのも、ヨルム様の散歩のお時間のことです」

「森で迷子になる人が結構居るってことかな」

「その可能性もありますね」

 この家の住人が増えることはあるだろうか。リヴとラシルも、レイヤも、特殊な事情によってここに居るが、あの優しい神は、彼の傍に置かせて欲しいという人間を断らないような気がするのだ。クローゼットにあった女性の服を思い出す。あの服の所有者は、あの部屋でヨルムと一緒に生活していたはずだ。

 レイヤは、スープにパンを浸して食べながら、小さくため息を吐く。

「今日は食が進みませんか?」

 ラシルが心配そうにレイヤを見た。

 目の前には、レイヤのために用意されたパンが山積みになっている。

「ごめんね。パンもスープもすごく美味しいよ」

「お疲れなのでしょう。昨日はレイヤ様にとって刺激が多く、大変な一日だったはずです。無理はなさらず、少しずつ体の調子を整えると良いですよ。ラシル、ハーブティーを用意してあげると良い」

「そうですね。少々お待ちください」

 レイヤは、昨日のことを思い出す。

 王都へ行って国王に会い、彼の神としての活動を目にし、戻った後は体が火照る言葉を言われ、華やかなドレスを身にまとい、神々の居る宮殿に出かけ、フレイヤからセイズを教わり、そして囚われの身となったヨルムの父に会った。

 どれも、現実に起きたこととは考えられないような出来事ばかりだ。夢の中でも、レイヤはヨルムと共に王都やヴァルハラの宮殿を歩いていたように思う。濃密な一日の余韻が、まだレイヤに残ったままなのは間違いない。

 そのせいで、自分のだらしない姿をヨルムに見られることにもなったのだから。思い返すだけでも恥ずかしい。

 レイヤは、残った炭酸水を飲み干した。

 リヴの言う通り、まずは気分を切り替え、しっかり目を覚まさなければ。


 ※


 家を出たヨルムは、森を歩いていた。鬱蒼と生い茂る木々の間を抜け、彼は泉の前に来る。そして、周辺を調べた。

 魔術の痕跡を感じる。

「オーディン。居るなら出て来い」

 ヨルムの呼びかけに、枝に止まっていた鷲が答えた。

「良く分かったな」

「昨日の饗宴にも参加せず、一体、どこをほっつき歩いているのだ。私の土地に争いを持ち込むようなら容赦しないぞ」

「お前がいくら守ろうと、ラグナロクが起きればすべて無に帰すのだぞ」

「ラグナロク?母の予見のことか」

 ヨルムの母・アングルボダは、未来を予見する力を持っていた。創世の時から現在までのすべての知識を持つ母は、その知識から未来を予見出来たというのだ。最も、すでに死んだ母のことをヨルムはあまり知らない。

 ラグナロクとは、神々の運命。古い愚かな神々は、ラグナロクで滅びるとされている。しかし、ヨルムが持つアングルボダの予見書には、具体的に何が起こるのか、誰が滅ぶのかは書かれていない。しかし、オーディンは、それ以上の情報を持っているに違いなかった。

 オーディンは、わざわざ死者の国にあるヘルの館まで赴き、アングルボダを騙して予見を得ているのだ。その内容をオーディンは誰にも語っていない。いや。情報の一部を誰かに話している様子はあるか。

 テュールは、オーディンには戦いに備える責務があると言った。それがラグナロクに関係している可能性はある。

 しかし。

「正しい者が滅ぶことはない」

 オーディンが笑う。

「予言によれば、お前も滅びるのだぞ。私の息子、トールと戦った果てに」

「ふざけたことを。私がトールと戦うなどありえない。あいつは馬鹿だが、純粋で良い奴だ。お前とやりあうというのならわかるが、何故、私の相手がトールなんだ」

「私の相手はフェンリルだ」

「フェンリル?まさか、予見の為にフェンリルを捕縛したんじゃないだろうな」

 オーディンは、ヨルムの質問には答えなかった。

 しかし、オーディンがこの泉に来たとなると、何か深刻な事態が起きているのは確かだ。オーディンは、困った時には必ずこの泉を訪れる。

 賢者の神・ミーミルが居るこの泉に。

「時は近い。バルドルの死はラグナロクの引き金。予言にある最初の犠牲だ。フリッグも知っている」

 フリッグがバルドルをあそこまで過保護に育てたのは、このせいらしい。

「そして次に、ロキが捕縛された。予言の通りに」

「捕縛を命じたのはお前だろう」

「饗宴の場での決定だ。ロキは捕縛しておかなければならない。あいつは、神々と敵対する勢力を率いて神々を滅ぼそうとしているのだ」

 ロキが捕縛されたのは、バルドルを殺した罪によってだ。しかし、オーディンは全く違うことを語る。それもアングルボダの予見にあるというのか。

「戯言を。神に敵対する勢力など、この地に居るものか」

「ムスペルの巨人共がやって来る」

 炎の国・ムスペルニウムに住む炎の巨人たち。ヨルムはその存在を、創世の物語の中でしか知らない。今も本当に居るかどうか分からない存在だ。

「馬鹿馬鹿しい。お前の作り話など、誰も信じないぞ」

「しかし、予言は絶対だ」

「お前は予見に翻弄され、真実を見失っているだけだ。アングルボダが本当にお前にすべて話したと思うのか。騙されたと気づいた時に話をすり替えたのかもしれないぞ。たとえ太古の巨人が攻めてこようと、神々が協力してことに当たれば、負ける要素などない」

「つまり、お前はムスペルの巨人が攻めて来た時には、神々の勢力と団結して戦うと約束するのか」

「冗談じゃない。ムスペルニウムは火山と繋がっているのだぞ。お前は、私の土地を戦場として使うつもりだろう。私は、お前が集めたエインヘリヤルが私の土地に入ることを許さない。私は、自分の土地を守る為だけに戦う」

「弱い人間など、ラグナロクで真っ先に滅ぶ。守る価値もないぞ」

「人から信仰を得て神性を保つ神であるなら、神は人を守る義務がある」

「そんなことがあるものか。お前の土地に住む者は自分のことを自分で守れない奴ばかりだろう。人から戦意を奪うお前のやり方が正しい人間の導き方だと思っているのか。闘争とは人の本性。それを削れば人には何も残らないのだぞ」

「それが私の土地に勝手に入り込み、流れ歩いて出した答えだというのか。ならば、やはりお前は神にふさわしくない。理性によって触れ合う人々の、神よりも高潔な姿を認められないだけだろう」

「私が不和の種を一つ巻くだけで争いを起こすのが人だ」

「お前の存在さえなければ人は平和を謳歌できる」

「相容れないな。やはり、お前と私は敵対するしかないというわけだ」

「お前を仲間と思ったことなど一度もない」

 オーディンは笑った。

「そうであろう。ロキは、すべてを終わらせる神。そこから生まれたお前たちは、神々の敵となる破壊の力を持った怪物に違いないのだからな」

 ヨルムは、オーディンの悪意が自分に向けられていた意味をようやく理解した。オーディンは、始めからヨルムたちを神と認めていない。

「ロキと義兄弟の契りを結んでおいて何を言う」

「あいつは良い奴だ。予言をすべて知った上で、私に滅びの道を進みたくなければ、神としての力をつけろと言って来た。最初は何のことかわからなかったが、死んだアングルボダから予言を聞き出してはっきりした」

「それなのに、ロキを捕縛すると言うのか」

「ラグナロクで、ロキは炎の巨人の指揮を執る」

「まさか」

「それが予言だ。そして、お前たちが神々の敵であることも。ラグナロクが起こる前に、お前も捕縛する予定であったが。どうやら、予言に語られていないことは叶わないらしい」

 ヨルムは、ロキが喚いていたことを思い出す。裁定の神が皆、ヨルムの味方をするから、オーディンは彼を裁けなかったのだと。

「だから、その腹いせに私にくだらない呪いをかけたと言うのか」

「呪い?」

「オーディンがかけたのではないのか」

「お前の巨体に呪いをかけられる者など存在しない。どれだけの犠牲が必要だと思っている。呪いをかけるぐらいならば、お前の頭をかち割るよう、トールを説得する方が早い」

 おそらく、それは真実だろう。

 ヨルムが子供の姿となったのは、オーディンのせいでもないらしい。だったら、この姿になったのは呪いのせいではないというのか。また、振り出しに戻った。

「しかし、クラーケンを放ち、私の人の姿を奪ったのはお前だ」

「証拠もないことで私にケチをつける気か」

「次の饗宴でフォルに裁かせてやろう」

「面白い」

 鷲の姿のオーディンは、羽を大きく広げて飛び立つとヨルムの上を周回する。

「だが、次に会う時は戦場だ。戦意のない者ほど御しやすいものはない。怪物を人の手で処理させようなどとするから無駄な力を使い、人の姿を失うようなことになるのだぞ。平和にかまけていては戦い方を忘れる。このままでは、トールの相手にもならないな」

 鷲はそう言って飛び去った。

 自分を煽る言葉に、ヨルムはため息を吐く。

 あの神は、ラグナロクを恐れていない。むしろ、楽しみにしているのだ。自分の運命に従うわけではなく、最終的に自分が勝つ為に計略を巡らせている。ヘルのところへ向かうはずだった戦死者を掠め取って育てたのも、罪のないフェンリルを捕縛したのも、すべてラグナロクを戦い抜く為の準備だったのだ。

 そして、その準備は完了した。

 だからオーディンは、意図的に予見を進め、ラグナロクを引き起こそうとしているのだ。次に何が起こるのかヨルムは知らない。しかし、ロキなら知っているはずだ。

 ロキの口を割らせる為にも、まずは、毒を受ける器を探さなければならない。

「ヨルム」

 泉の方から声が聞こえて、ヨルムは振り返った。ミーミルが湖から顔をのぞかせている。最も、それが体を失ったミーミルの姿のすべてだったが。

「ミーミル。オーディンと何を話したんだ。あいつは次に何をしようとしている?」

「オーディンとの語らいを教えるわけにはいかない。それに、今回のオーディンの目的は、私のもとに宝を隠すことだ」

「宝?」

「そうだ。今は存在しない宝だ」

 何かの比喩だろうか。しかし、オーディンの宝なら、ヨルムには関係のないことだ。

「ヨルム。一つ、良いことを教えてやろう」

「良いこと?」

「オーディンは、ラグナロクではここに手を出さないと約束した」

「ミーミルを守る為に?それとも、預けた宝の為か?」

「予言によって約束したのだ。覚えておくと良い」

 これにも予見が絡んでくるらしい。

「わかった。覚えておこう」

 今は意味が解らずとも、賢いミーミルの言うことだ。この情報がヨルムの役に立つ日が来るのだろう。

「オーディンがここで話したことは、すべて真実なのか?」

「いずれ知ることになる」

 これ以上の質問には答えるつもりがないらしい。

 オーディンの言葉が、すべて真実であるとはヨルムには思えなかった。そして、アングルボダがオーディンに語った言葉もまた、すべて真実であったとは思えない。いや。思いたくないのだ。自分が神々の敵となるなど。

 ラグナロクは、古く愚かな神を滅ぼす為のものだ。自分たちが神の敵となる運命だと言うのなら、アングルボダは、古い神を滅ぼす為にヨルムたちを生んだというのか。それならば、オーディンから疎まれ続け、それでも神として生きてきた自分は何だというのだ。

 母は、何故、こんな形でヨルムを生んだのだ。

「賢い子よ。お前は神の一員だ。オーディンの戯言など気にする必要はない」

 ヨルムは顔を上げてミーミルを見た。

「言われなくてもわかってる」

 ヨルムが答えると、ミーミルは静かに湖に沈んでいった。

 彼は、大地の神として生まれた。

 神の役目は人の願い。願いに応じて新しい神が生まれるのだ。

 ヨルムは、人々から豊穣を期待されて生まれた大地の神である。同時に雨を呼び、虹と川を統べる水の神である。病を人の力で治せるよう助言を与える医療の神である。その一方で、その逆の効果も与える毒の神である。また、約束の順守を期待された契約の神である。

 彼は、まぎれもなく人の願いから生まれた神の一員なのだ。

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