02 祭壇

 それほど長い時間は歩かなかっただろう。

 白い蛇は、洞窟の前で立ち止まった。

「この奥が祭壇だ」

 洞窟は、ゆるやかに地下に向かって続いているようだった。しかし、見通せる道はわずかで、この先にどれだけの空間が広がっているのか想像も出来ないほど、中は暗かった。

 進もうにも、彼女は洞窟で役立つような道具を持ち合わせていない。回りを見ても、明かりを灯すのに役立ちそうなものは一つもないようだ。

「どうやって進めば良いの?松明なんて持ってないよ」

「不要だ」

 暗闇を明かりもなく進めと言うのか。深い闇だけが覗く洞窟に踏みいる行為は彼女の恐怖を煽ったが、すぐにそれが要らぬ心配であったとわかる。白い蛇が洞窟の中へ進むと、その周囲がほのかに明るく光るのだ。白い蛇は、発光しているらしい。

 彼女は白い蛇の後を追うと、その長い体の脇に並んだ。淡く優しい輝きは、彼女が先を進むのに十分な明るさを持っていた。また、洞窟の道も平らで歩きやすく、天井も十分な高さが確保されている。自分が背の高い方だと自覚している彼女にとって、それはとてもありがたいことだった。

 しかし、振り返っても入口の明かりは見えない。道具を持たない彼女に後戻り出来る道は用意されていないのだ。彼女は、はぐれないよう白い蛇との距離を縮める。

「生け贄を捧げに来た人は、ここまで来たの?」

「ここに来ることが出来るのは生け贄だけだ」

「え?でも、東に進めば行けるって……」

「ここに無関係の人間を入れるわけがないだろう。皆、すぐに道を外れて森を出る」

 森の番兵が言っていたのは、こういうことか。おそらく、誰もここまでたどり着けずに追い出されているのだ。

 急に、思い出したかのように白い蛇が笑いだす。

「半日もぐるぐると同じ場所を歩いていた人間は初めてだ」

「えっ?」

 彼女はコンパスを頼りに、真っすぐ東を目指していたはずだが。このコンパスは、いつから壊れていたというのだろう。彼女がコンパスを取り出して見ると、針はぐるぐると回転している。

「聖域において、そんな道具は無意味だ。もう少し早く話しかけてやれば良かったか」

「そうしてください」

「少しは丁寧な言葉も話せるようだな」

 尚も愉快そうに笑う白い蛇の言葉に、彼女は顔が熱くなるのを感じた。

 先程の言い方は、自分でも酷いとは思っている。しかし、あれは彼女の精一杯だったのだ。彼女も神の化身に会うと知っていたならば、もう少し貴族の言葉について学んだかもしれない。


「祭壇に着いた」

 白い蛇が体を伸ばして照らした場所には、大きな台がある。純白の石で出来た祭壇は滑らかな台形をしており、側面には蛇の鱗のような細工が施されていた。神の為の祭壇にしては、質素な形だろう。それに、この場所は祭壇以外には何もない。明かりを灯す道具の一つぐらいあっても良さそうなものだが、やはり、そういった類いのものはなさそうだ。どちらにせよ、それを灯す道具を持っていない彼女には関係のないことだったが。

「ここへ」

 白い蛇が示すのは祭壇の上。

「あの……。生け贄って、私、ここで死ぬの?」

 今更出た問いに、白い蛇は呆れた。

 彼女は、生け贄の意味を何も理解せずに付いてきたらしい。しかも、自らの命を捧げる可能性を考えていた割には、あまりにも暢気に、恐怖を感じている様子も見せずに付いてきたのではないか。

 しかし、説明が足りなかったのも確かだろう。

「私は血を欲したりはしない。命も欲したりはしない。生け贄とは、私に捧げられる存在。私に捧げられたものは私のものとなる。それでも生け贄となる覚悟があるならば、ここに仰向けに横たわれ」

 どうやら、死ぬわけではないらしい。

 白い蛇のものとなるということは、自分は神のものになるということか。しかし、彼女が信仰する神は、彼女が生まれた時から同じ。云わば、元から自分は神のものであるはずだ。生け贄となる行為は、彼女にとって何の問題もないように感じた。

 しかし、一つ確認が必要だ。

「これで地震が収まるの?」

「最近の地震の原因を取り除くよう、努めることは可能だ」

 言い回しが難しく不自然な気もしたが、悪いようにはならないということだろう。そう納得した彼女は、祭壇に進んだ。

「靴は脱ぐ?」

「人の礼儀のままに」

 それならば、脱ぐべきだろう。彼女は靴を脱ぐと、台の上に乗って仰向けになった。不思議なことに、彼女が寝転がる台の上は少し柔らかい。変わった素材の石だ。もしくは、石ではなかったか。

「儀式を始める」

 白い蛇の言葉と同時に、近くにあった光が消えた。

 深い闇。

 彼女は暗闇が苦手だ。心臓の音が洞窟一帯に響きそうなほど高鳴るのがわかる。

 儀式はいつ始まるのだろうか。というか、儀式とは何をするものなのだろうか。もっと詳しく聞いておけば良かった。先のことを見通さずに行動するのは悪い癖だと思うが、現実にその場に立ってみるまで想像できないのだから仕方ない。

 恐いことは何もないはずだと信じながらも、彼女は恐怖を感じずにはいられなかった。

 暗闇の中、いつもより神経が研ぎ澄まされた彼女が最初に感じたのは、何かが左足へ触れる感触だった。まとわりつくように動くそれに、縛られていくような、侵食されていくような……。ゆっくりと這い上がるその感覚は、順に彼女の体を覆いつくすと、首に至った。

 体を動かそうとするが、どこも自分の意思で動かすことが出来ない。魔法にでもかかっているのか、物理的に拘束されているのか、それとも単に自分の緊張のせいか。暗闇の中、いくら考えを巡らせようと、その理由を知る術は彼女になかった。

 首に触れた感触は耳の裏を通って頭を回り、彼女の視界を覆った。僅かな光が彼女の視覚を復活させる。そこで見たものは……。

 白。

 薄々気づいてはいた。だから、悲鳴を上げることはなかった。体にまとわりついているのは、あの白い蛇に違いない。

 その結論に何故か安堵した彼女は、体の緊張が解れていくのを感じた。このまま眠りにでもつけそうな心地良さの中、彼女は瞼を閉じて儀式に身を委ねる。

 すると、唇に柔らかいものが当たった。

 柔らかい?

 何故、そんな感触が?蛇の感触のイメージからは、あまりにもかけ離れた刺激に彼女は目を開く。

 さっきまで体に感じていた感覚はすべて消えていた。そして、白い蛇も消えている。

「気を失わなかったか」

 白い蛇と同じ声。

 言葉を発したのは、彼女のすぐ横で祭壇に腰を掛けている少年だ。見た目には五、六歳といったところか。彼は、彼女の頬に優しく触れると柔らかく微笑んだ。

「強い娘だ」

 明るい金色の髪。宝石のように透き通った菫の瞳。柔らかそうな唇に滑らかな白い肌。華奢な肩や、その四肢に至るまで、彼は紛れもなく人の姿をしていた。

 しかし、その体は先ほどの白い蛇と同じように淡く光を発している。

「そのマントを貸してくれ」

「マント?」

「このままでは風邪をひく」

 理解出来ずに、彼女は首をかしげる。

「神様なのに?」

「人の姿は貧弱だ」

 どちらにしろ、このままの姿で居るのは不憫だろう。

「ちょっと待って」

 彼女は自分の荷物を漁ってシャツを一枚見つけると、それを彼に着せた。彼にとって大き過ぎるシャツは、彼の膝ほどの丈がある。彼女は、手際良くシャツのすべてのボタンを留め、袖をまくってやった。

 下の弟妹の多かった彼女にとって、これぐらいの子供の世話など慣れたものだ。

 彼女は長いリボンを出すと、それを彼の腰に巻く。これで、少しは服の体を成すだろう。衣服をまとうことで、彼が発する光が少なくなってしまったのは残念だが。

「まだ寒いならマントも貸すよ」

「これで十分だ。私の住み処へ案内しよう」

「待って」

 彼女は、慌てて靴を履く。靴を履くのを忘れていたのだ。それに、この場所は彼の明かりがなければ何も見えない程に暗い。彼に置いて行かれたら、すぐに彼女は闇に飲まれるだろう。

 言われた通り待っていた彼は、支度を終えた彼女を見上げる。

「名は?」

「レイヤ」

「レイヤ。私のことは、ヨルムと呼ぶと良い」

「ヨルム様?」

「丁寧な言葉は不要だ。そのままで良い」

 神に対して、それで良いのだろうか。しかし、様をつけて呼ぶならば言葉遣いも丁寧なものにしなければならないだろう。そうすれば、また笑われるのも目に見えている。彼女は丁寧な言葉が苦手なのだから。

 いずれボロが出るのならば、彼の言葉に甘えるべきだ。

「わかった。ヨルム。私、暗いのはちょっと苦手なの。だから、一緒に居てくれる?」

 ヨルムは笑って、彼女の手をとる。

「灯火の扱いを教えなければならないな。しかし、今は……」

 言葉の途中で、ヨルムはふらつく。倒れかけた彼をレイヤが慌てて抱き止めた。

「大丈夫?」

 ヨルムの顔は青ざめ、苦痛を感じているかのように歪んでいる。

「まだ、体が馴染んでいない。暫くこうしていてくれ」

 レイヤはその場に座ると、ヨルムの体を抱え直す。目を閉じて彼女に身を委ねる彼の顔は、先程よりも安らかだ。

「さっきの白い蛇の姿の方が楽なの?」

「もちろん」

「なら、どうして人の姿に?」

「人の願いを叶える為には、人の姿で行わなければならないからだ」

「どうして?」

「昔からの約束だ」

「約束を破るとどうなるの?」

「私が持つ約束のすべてが反故になる」

「あなたが持つ約束って?」

「たとえば、私が神として治める土地の所有権を失う。そうすれば、私はお前たちの神では居られなくなる」

 彼女は、この国で生まれ、この国で育った。だから、この国の神については小さい頃から良く知っている。


 この国の神は、大陸を取り巻く大きな蛇の姿をした大地を司る神だ。

 豊穣の神として知られ、大地に芽吹くものに命を与えることはもちろん、雨を呼んで作物の実りを助ける力も持っている。虹もまた、この神の眷属だ。雨を呼ぶことから、水の神としての側面も強く、この大陸の川の流れは彼が管理している。

 知識と医療の神としても有名で、病気の治癒を願えば、人に薬草のありかと煎じ方を教えてくれる。しかし、悪人に対しては毒薬を盛って裁くとされ、毒のすべてはこの神から生まれたものである。

 他にも、契約を司る神でもあり、この神の前での誓いは絶対だ。誓いを破ればこの神に呪われることがある。子宝や多産の神としての信仰も厚く、子供が欲しい夫婦からは広く信仰を集めている。同時に愛の神でもあり、夫婦や恋人の守護者である。ただし認めるのは一対の愛についてであり、不倫を悪とする。

 温厚で慈悲深く、人々を愛す神として知られるが、規律に厳しく、怒らせると怖い神とも言われている。その本体が大陸を覆う大蛇の為、神が怒れば大陸は崩れるほどに大きく揺れると言われているのだ。

 最も、小さな地震は神のあくび、神のくしゃみと形容され、神が怒ったと考える者など居ない。巨大な姿の彼が動けば地面が揺れることぐらいあるだろう。自分たちが厚く信仰する神が、自分たちを脅かすとは考えないのだ。

 だから、この神が怒り、生け贄を要求したと聞き、人々は驚いた。そのような話は前例がなく、自分たちの神らしからぬ行為だと感じたのだ。

 神は、いつも祈りに応えてくれた。人々は祈りを捧げる時、大地に座し、両手を組んで額を地面につける祈りの姿勢をとる。その姿勢で雨を願えば雨を降らせ、病気の姫君の回復を願えば姫君が元気になり、恋の成就を願えば、恋人と二人きりの時間をもたらしてくれた。大きな願いから小さな願いまで、この神はすべて叶えてくれることを知っていた。

 しかし、今回は人々がどれだけ祈っても地震を収めることはしてくれない。皆、自分たちの信仰する神の怒りに震えていた。


 祈りを捧げるだけでは済まない程の怒りがあったのか。ヨルムを見る限り、そのような様子は感じられないのだが。

 ヨルムはゆっくりと目を開くと、立ち上がる。

「大丈夫?」

 応えずに、ヨルムは自分の体を確かめるように動かす。

「レイヤ。私が倒れた時は、今のように私をお前の腕で抱いてくれないか」

「良いよ。それだけで良いの?」

「そうだ。詳しいことは追って話す。まずは落ち着く場所に行こう」

 ヨルムはレイヤの手を引いて壁際まで行くと、もう一方の手を壁につける。すると、壁に不思議な色合いで渦巻く空間が生まれた。ヨルムとレイヤは、そのまま、渦巻く空間に入って行った。

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