シカママのありがたいお話。

虹色冒険書

シカママのありがたいお話。


 わたし、菊池穂乃果(きくちほのか)。

 7歳の小学2年生。

 好きなものは算数と国語の授業、あとシュークリームとケーキとハムスターと、それに奈良で買ってもらったシカのぬいぐるみ。


 そして嫌いなものは……ママ。


「ねえほのちゃん、そろそろ行かない?」


 遠くからママが呼んでくる。

 でも返事なんてしないんだ。

 返事どころか、ママを振り向くことすらしないで、わたしは公園の端っこでひたすら四つ葉のクローバーを探し続けた。今朝髪をポニーテールに結んでもらった時以外、ママとは一切会話していない。

 びっしりと生えたクローバーやシロツメクサをかき分けながら、わたしは昨日の出来事を思い出した。

 昨日は本当は、遊園地に行く約束だった。でも、ママの仕事がどうのこうのって言われて……当日になっていきなり、『いけない』って言われたんだ。

 遊園地に連れていってくれるのはずっと前からの約束だったのに、ママはそれを守ってくれなかった。

 ウソをついちゃダメだってママはわたしに言ってるのに、ママはわたしにウソをついた。

 ウソつきのママなんて大嫌い、もう口をきかないんだ。


「見つからないな……」


 気を紛らわせようと始めた四つ葉のクローバー探し、でもなかなか見つからなかった。

 あっちのほうにはあるかな……と思って立ち上がった時だった。

 公園の隣にある空き地で、何かが動いたのが見えた。伸びた草に隠れて、遠くからじゃ分からなかったけれど……そこには、『シカ』がいたのだ。

 しかも、1頭だけじゃない。

 大きなシカと、そのすぐ近くにもう1頭……小さなシカさんがいたのだ。


「シカさん……!?」


 私は思わず、2頭のシカさんに駆け寄ろうとした。

 奈良公園に連れていってもらった時、シカさんにおせんべいをあげる体験をしてから、わたしはシカさんが大好きになった。向こうで買ってもらったシカさんのぬいぐるみは宝物で、毎晩抱いて眠っていた。

 ここでもシカさんに会えるなんて……! と嬉しさいっぱいで近づこうとした時だった。


「ダメよ!」


 いきなり強い声で止められて、思わずビクリと身体が震えた。

 えっ、誰? わたしは立ち止まって辺りを見回したけど、誰もこっちを見ていない。今のが誰の声なのか、誰に呼び止められたのか分からなかった。

 わたしを見ていたのは……シカさんだけだった。2頭いるうちの、大きいほうのシカさんだ。


「それ以上、私達に近づいてはダメよ!」


 もう一度まわりを見渡してみる。公園には何人か他の人もいたけれど、やっぱり誰もこっちを見ていない。

 つまり、わたしに話しかけているのは……。


「え? し、シカさんが喋って……!?」


「喋れるわよ、間違ったことをやろうとしている子を止めるための言葉くらい、出せるわよ!」


 や、やっぱりシカさんだ。

 信じられないけれど、あのシカさんが私に向かって話しかけてるんだ!


「あなた今、私達に近づこうとしたでしょう?」


 驚いちゃったわたしは、答えることができなかった。

 動物が喋るだなんて、絵本の中だけの出来事だと思っていた。だけど、これは現実みたい……。


「そうでしょう、違うの?」


 わたしは我に返った。

 そ、そうだ。とにかく返事をしなくちゃ……!


「は、はい。そうです、シカさんに近づこうとしました……」


 わたしは敬語で答えた。

 先生や、友達のママやパパと話す時は、必ず敬語を使うようにママから教わっていた。だからその流れで、シカさんにも敬語を使っちゃったみたい。


「正直に認めるのはえらいわ。でもね、野生のシカを見つけたら、それ以上近づいてはダメよ!」


 わたしとシカさんがいる場所は、それなりに離れていた。

 でも声が届くくらいの距離だったから、わたしにはシカさんの言葉がはっきりと聞こえる。

 今までそんなことを気にする余裕はなかったけれど、シカさんの声は女の人の声だった。角も生えていないし、女鹿さんなのだろう。

 てことは、隣にいるあの小さいシカさんは子供なのかな?


「えっ……どうして、ですか?」


 シカさんが言うことに、私は困惑した。

 だ、だって奈良公園ではみんなシカさんにおせんべいをあげたり、写真撮ったり触ってる人、ソフトクリームをあげてる人だっていた。わたしもママと一緒にシカさんにおせんべいをあげたら、おいしそうに食べてくれて……すっごく嬉しかったし、いい思い出になった。

 ここでもシカさんに会えたことが嬉しくて、思わず駆け寄ろうとしちゃったけど……ダメなことなの?


「野生のシカはね、基本的に憶病な動物なの。不用意に近づいたら、どんな行動に出るか想像もつかないのよ。驚いて車道に飛び出したり、人を敵と思って襲ってくることもあるのよ!」


 シカさんの言葉で、私はいつか見たニュースの映像を思い出した。

 車道に飛び出したシカさんが走っていた車とぶつかって、車がメチャメチャになっちゃったってニュース……この公園の近くにも車道があって、今も車がビュンビュン走っていた。

 もしわたしがシカさんを驚かせて、それでシカさんが飛び出して車とぶつかったら……それは、わたしが悪いことになるのかな?

 でもわたしには、どうしても気になることがあった。


「で、でも……奈良公園ではみんなシカさんに触ったり、近くで写真撮ったりしてましたけど……?」


 そこでわたしは気づいた。

 奈良公園にいるシカは、誰かが飼っているシカだから大丈夫だってことなのかな?


「奈良公園のシカも、本来は触ってはいけないのよ! ダニとかがいる可能性が高いし、噛みつかれたり角で突かれる可能性があるからね」


「え、ええっ……!?」


 あんなに人が近づいていたのに、本当は触っちゃダメだなんて知らなかった。


「誤解されがちだけど、奈良公園のシカはね、飼っている人がいない『無主物』なの。つまりれっきとした『野生動物』なのよ! 人に『慣れている』だけであって、決して『懐いている』わけじゃないことを忘れてはいけないの!」


 そ、そうなんだ……。

 思い出せば、奈良公園に行った時、わたしがシカさんを撫でようとしたらママに止められた。それにママは、絶対にわたしだけでシカさんに近づかないように注意してきた。

 どうしてダメなのってわたしはママに言ったけど……わたしが危ない目に遭わないようにするためだったのかな。


「まあ、観光資源としての側面もあるし、他の野生動物と違って、ある程度距離を縮めることは許容されている面もあるけれど……奈良公園のシカと他の野生動物を同列に考えないようにね」


「は、はい……」


 全然知らなかった。

 シカさんはおとなしくて人懐っこいって思ってたけれど……そうじゃないんだ。


「じゃ、じゃあ……おせんべいをあげるのも本当はダメなんですか?」


 わたしが訊くと、シカさんは首を横に振った。


「ううん、シカせんべいは例外的に認められているの。でもそれ以外の食べ物はあげちゃダメ! ソフトクリームとかを奈良公園のシカにあげる観光客がいるそうだけど、あれは絶対にやってはいけない行為! まさしく言語道断よ!」


 ご、ごんご……!?

 難しそうな言葉が出てきて分からなかったけれど、シカさんの強い言葉から、とにかく絶対ダメなんだってことが分かる。

 でもどうして? おせんべいはいいのに他の食べ物はダメだなんて……。

 

「シカせんべいはね、シカの身体にとって安全なように作られた、いわばお金で買える『餌』なの。それ以外の人間の食べ物をシカが口にすれば、色々な悪影響があるわ!」


「あ、悪影響……? どんな……!?」


 わたし達が食べられるなら、シカだって食べられる。

 そう思っていたのだけど、違うってことなの?


「お腹を壊したり、病気になってしまう原因になるの。ネコがタマネギやチョコを食べられないって話を聞いたことはない? あれはつまり、ネコにとって毒になりえる成分が含まれているからなのよ!」


「あっ……!」


 ネコちゃんを飼っている友達のことを思い出して、はっとなった。

 その友達の家に遊びに行った時、その子のママがわたし達にお菓子を出してくれた。わたしと友達が食べ終わったあとで、友達のママはわざわざ掃除機までかけてた。その理由は、ネコちゃんが食べかすを拾い食いしないようにするためなんだって。

 例を出してくれたことで、納得できた。

 ネコちゃんに食べられないものがあるように、シカさんにも食べられないものがある……きっとすべての動物に、あげてはいけない食べ物があるんだ。

 そんな食べ物をあげて、もしその動物が死んじゃったりしたら……それはもう、考えたくなかった。


「近づきすぎないこともそうだけど、野生動物と人のあいだには、決して踏み越えてはいけない一線があるの。奈良公園のシカに限った話じゃないから、よく覚えておいてね!」


「はい、分かりました……!」


 なんだか、道徳の授業みたい。ううん、それ以上にタメになるお話に思えた。

 夏休みの自由研究で使えそうなお話で……気づけばわたし、シカさんが喋ってるって不思議な出来事を気にも留めず、夢中で耳を傾けちゃってた。

 小さいシカさんのほうは、ひたすらむしゃむしゃと草を食べている。

 わたし達は草なんて食べられないけれど、シカさんにはおいしいのかな?


「ねえほのちゃん、そろそろ行きましょう!」


 ママがまた、呼びかけてきた。

 わたしは一瞬振り向いたけれど……すぐにそっぽを向いた。ママに約束を破られたことが、まだ許せなかったんだ。


「あなたのママでしょう? 返事をしなくていいの?」


 シカさんの言葉に、わたしは頷いた。


「いいんです、ママなんて大嫌いだから……!」


「まあ、どうして?」 


 遊園地に行くのを、わたしは楽しみにしていた。

 ずっと前からの約束だったのに……当日になっていきなり『行けなくなった』って言われた時はもう……ガッカリして、悲しくて……もう何もしたくなくなったのを、今でも覚えてる。

 わたしはママに約束を破られたことを、シカさんに話した。

 

「そういうことがあったのね……」


 シカさんに話したら、ショックとか悲しさとかが込み上がってくる気がして……気づいたらわたし、泣きそうになっちゃってた。

 こぶしをぎゅっと握って、草むらのどこかを見つめながら、


「ママなんて大嫌い、消えちゃえばいいんだ」


 込み上がってくる気持ちに突き動かされるままに、わたしが言った次の瞬間だった。


「ダメよ!」


 シカさんが張り上げた声に、わたしは思わずビクリと震えた。


「冗談でもそうでなくても、そんなことは絶対に言ってはダメよ!」


 学校の先生よりも大きな声で、シカさんは私に言う。


「その可愛いポニーテールは誰が結んでくれたの!? あなたが今着ている服、毎日食べているご飯、誰が用意してくれているの!? ママがいなければ、そもそもあなたは産まれてくることすらできなかったのよ!」


 シカさんの言うとおりだった。

 わたしの髪を結んでくれたのはママ、服もご飯も、用意してくれているのはママ。

 そもそもママがいなければ、わたしは生まれてくることもできなかった……おいしいケーキを食べたり、友達と遊んだり、奈良公園で楽しい思い出を作れるのも、全部ママがわたしを産んで、育ててくれたから。

 

「本当にママが消えてしまった時のことを考えてみなさい、一時は清々するかもしれないけれど、そのあとには必ず後悔が訪れるわ!」


 もうわたしは、何も言えなくなってしまった。

 約束を破られたことばかり気にしていて、ママの立場なんか全然考えてなかった。

 遊園地に行けないってわたしに言ったあと、ママは何度もわたしに謝った。破りたくて約束を破ったんじゃないんだ。

 今度必ず連れていってあげる、お詫びにぬいぐるみを買ってあげる。ママはそう言っていたのに、わたしは全然聞きもしないで、意地になって、自分の気持ちばっかりぶつけて……なんて悪い子だったんだろう。

 シカさんに叱られて、わたしは初めて自分のやっていたことに気づいた。


「ママにとって、あなたは自分以上の存在なのよ。あなただって、前はママが大好きだったはず。そうでしょう?」


 もう、シカさんは大きい声を出さなかった。

 

「どうして……分かるんですか?」


「当然でしょう、私だってほら……1児の母だもの。私達シカはね、とっても母性愛の強い動物なのよ!」


 シカさんは、小さいシカさんをちらりと見ながら言った。


「さ、そろそろ行かないと。ちゃんとママに謝って、仲直りしてきなさい」


「……っ、はい!」


 ママに謝らなきゃって、思ってた。

 シカさんは、そんなわたしの気持ちを感じ取ってくれたみたいだった。


「ところであなた、お名前は?」


 まだわたしは、自分のお名前をシカさんに教えていなかった。


「わたし、穂乃果です。菊池穂乃果っていいます」


「穂乃果ちゃん……穂乃果ちゃんね、いいお名前ね」


 わたしのこのお名前は、ママが考えてくれたって聞いたことがある。


「さ、もうお行きなさい。ママと仲良くね!」


「はい、さようならシカさん!」


 シカさんにお別れを言って、わたしは駆け出した。

 そのあとわたしは『ママ、ごめんなさい』と謝って、ママと仲直りすることができた。

 人と話せるシカさんに叱られた。ウソみたいだけど本当なこの体験は、きっと一生忘れられないのだと思う。

 公園から出る時、わたしはもう一度シカさんを振り返って手を振った。シカさんは、笑ってわたし達を見送ってくれた――。






 人と野生動物とのあいだには越えてはいけない一線がある、それを覚えておいてね。

 それからみんなもママのことは大切にね、シカママとの約束よ!





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