35枚目

 すぐに着替えてすぐに家を飛び出した。夜の道を街灯と民家の光が照らしている。住宅街を走り抜けると着替えたばかりの服に汗が染み込んだ。当然の事だった。


 バス停に辿り着くと不運な事に目の前でバスが出発した。それが最終バスというわけではなかったが、遅い時間帯の為バスの本数はまばらだ。次のバスの到着までかなり時間を要する。


 爛楽は迷わなかった。そのまま、走る。バスを待つより、自分の脚で走った方が早く着く。


 激しい呼吸をしながら、薄暗い道を突き進む。建物の影が後ろへと流れて行く。すぐに息が苦しくなる。それでも、まだ走れる。どうやら〈メルメディック〉として過酷な戦闘に身を投じるうちに、素の身体にも多少体力が付いたようだった。


 小さな橋を渡って暫く進むと住宅街を抜けた。木々が立ち並ぶ横を走る。


「結っ」


 呼吸の合間に名前を呼んだ。頭の中にあるのは彼女の事だけだった。


 結に会わなければならない。


 彼女に、伝えなければいけない事がある。


 ただそれだけの為に、軋む身体を動かして、走っている。身体が疲労を大音量で泣き叫びながら訴え、その涙が更に服に染み込んだ。


「結っ……! 爛楽はっ――」


 やがて上り坂に差し掛かった。急な勾配は目の粗いヤスリのように、爛楽の体力を急激に奪って行った。意志は止まる事を知らず、走り続けようとするが、流石に限界が来た。足を止めると倒れてしまいそうになったので、歩道と車道の境界となっている柵を掴み身体を支えた。


 限界まで息を吸い込んで、それを吐き出し、また限界まで吸い込むという事を数度繰り返す。それから再び足を前へと進める。少しずつ、また速度を上げて行く。


 不意に、前方に人の気配を感じ取った。今まで殆ど人と擦れ違わなかった上、それが知っている人間の気配に感じたので、意識がそちらに向かった。


「結……?」


 反射的に名前を呟いたが、すぐにそうではないと分かった。


「こんばんは。四島さん」


 暗闇の中から姿を現したのは、背の高い女性。


「怜、さん……?」


 驚愕を隠せない。見間違えかと思ったが、目の前に立っているのは確かに怜だった。何故怜がこんな所に居るのか。疑問が爛楽の思考を書き換えた。


「突然で驚いただろうね。でも、きみと直接会って話したい事があってね」


 怜はいつものような甘い微笑を浮かべて爛楽の方に近付いて来た。


「話したい事って?」


「ここからは街が良く見える。この煌めく星のような明かりは全て人々の鼓動で、息吹だ」


 怜に言われ、爛楽も視線をそちらに遣った。今爛楽が立っている所は小さな丘になっていて、街を見下ろす事が出来た。


「時折、あんなもの全部壊してしまった方が良いんじゃないかって感じるよ」


 戦慄を覚えた。


 怜の放った言葉は氷の刃のように感じられた。底の無い諦めが言葉を氷点下にまで冷たくしていた。


「何を、言って」


 当惑しながら怜の方を見遣る。


 笑みが暗闇の中に浮かんでいた。それが危険なものであると本能が察知した。


「全ては終わりを恐れている。だから、続いていこうとする。生きようとする。けれどね、巨視的な継続にはその終わりが不可欠なんだよ。皆、その事が分かってない。いや、分かっていて目を逸らしてるのか」


「良く……分からないんだけど。爛楽、それより急いでいて――」


 この場を離れようとした時だった。


 突然に、爛楽を苦しみが襲った。何が起きているのか理解出来なかった。ただ身体が苦痛を受けているという警報を脳に対して喚き散らすのみだった。


「かっ、ぁっ」


 視界の下の方に怜の顔が映る。彼女の腕がこちらに伸びている。ようやく何が起こっているのか理解した。


 怜が自分の首を絞めているのだ。


「死んで貰うよ、四島爛楽」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る