34枚目
二日続けて学校を休んだ。
意外に思われる事も多いのだが、爛楽は身体が丈夫だった。加えて規則正しい生活を心掛けていたので、小学校から今まで一日も学校を休んだ事は無かった――〈キャンサー〉の出現の為に致し方無く授業をサボタージュした事はあったが。
胸と腹に強い不快感があり、無理に動けば吐きそうだった。珍しい出来事に母は爛楽を本気で心配していた。病院に連れて行くという申し出を、寝ていた方が早く治ると言って断った。
原因が大きな精神的負荷にある事は明白だ。ベッドに横になる爛楽の頭の中は懊悩で満たされていた。
きっと、結も今同じように自分と苦しんでいるだろう。そう、ふと思った。あれから結とは連絡を取っていない。だが、確信出来た。彼女も学校を休み、ベッドの上で横たわっている。
「結に、本当の事を知らせるべきじゃなかったのかな……」
小さく疑問を呟く。〈ライフシリンジ〉に関する真実を知らなければ結は精神の安寧を保つ事が出来た。自身が柱としていたアイデンティティを打ち砕かれずに済んだ。
真実と向かい合わなければいけないと思った。だが、それはただの綺麗事で、自分自身のエゴだったのではないだろうか――。
時間は泥水のように緩慢に流れて行った。それでも、気が付くと窓の外は暗くなっていた。奇妙な感じがした。
そういえばもう一週間もSNSに投稿をしていない。アプリを開いてすらいなかった。もうそんな事どうでも良い。胡乱な頭でそろそろシャワーを浴びようか、いやでもそれも億劫だと思っていると、物音が聞こえた。玄関が開く音だ。
「ただいま」
父の声だった。はじめはその事を気に留めなかったのだが、爛楽は少し遅れて怪訝に思った。
帰って来るのが早過ぎる。
今はもう夜とは言え、毎日激務の父がこんなに早く帰宅する事など今までに無かった。何かあったのだろうか。
いや、違う。父が早く帰って来たのは――。
「爛楽、入ってもいいか?」
部屋をノックする音と、父の声。何もやましい事はしていないのに、心臓が跳ね上がった。
数秒返事をしないでいると、また「爛楽―?」と呼び掛けがあった。
「入っちゃ駄目――私が出る」
爛楽は重い身体を動かし、自室の扉の前まで来た。そして、ゆっくりと自分と父とを隔てている薄い木の板を開けた。
いつも通りの父の顔があった。自分は酷い表情をしているだろうに、それに驚く様子も無かった。
「……何?」
「様子を確認しようと思ったんだ」
「何で今日はこんなに早く帰って来れたの?」
「頼んで帰して貰った」
「何、どういう事。まさか、私の事が心配で帰って来たっていうの?」
「その通りだ」
爛楽は言葉を失った。そんな事をあっさり肯定するとは思わなかった。
「どうして」
「可愛い娘の事を心配しない親が居るか」
「バカじゃないの?」
「悔しいがそうかもしれない」
こんな状況だというのに笑いそうになってしまった。
「私の事よりも、自分の事を心配して」
父は困ったような表情を浮かべた。
「お父さんは、何で医者に何てなったのよ……何で、見ず知らずの他人なんかを助けようって思ったのよ」
「それが俺のやりたい事だったんだ。本当に、ただそれだけだ」
「意味分かんない。何で人助けなんてしたいって思うの。
そんな事、バカバカしい事だって少し考えれば分かるじゃん。
誰かを助けたからといって、その分自分に何かが返って来るなんて限らない。
それだけじゃない。現実は、私たちを裏切る。
善意を踏み付けて、その後で唾を吐き掛けて、呆気に取られながら絶望してる顔を見て嘲笑うのよ!
ねえ、なんであんな事があったのに、それでも医者であり続けるの。まだ誰かを助けようだなんて、思ってるの?」
脳裏に浮かぶのは鮮やかな色の炎。父を逆恨みし、自分たち家族の家を燃やした女の狂気に満ちた表情と声。
爛楽が口にしたは、長い年月の間、ずっと蟠っていた父への思いだった。これを全部伝えようとすれば、読書感想文を書く時のような並大抵ではない労力と時間を必要とするものだと思っていた。しかし、実際に言葉にしてみればこんなにも呆気無い。蛇足な言葉なら幾らでも出て来るが、もう付け足すべき事は何も無かった。その事に驚いていた。
父はその言葉に驚いた反応を見せなかった。いつかは言われるだろうと心の準備は済ませていたかのようだった。先程よりも少しだけ真摯な表情になり、父は告げる。
「あれは、本当にきつい出来事だったな。
本物の憎悪をぶつけられて、それから真っ赤に燃える自分の家を見て、何で俺がこんな目に遭わなくちゃいけないんだって思ったよ。
他人の事も自分の事も考えないで適当に生きてる人間とか、更には他人を食い物にしているのにその罰を受けてない人間がこの世界にはいっぱい居るだろう。
何でそいつらじゃなくて、一生懸命に誰かの事を助けようとしている俺がこんな目に遭うんだ、おかしいだろって思った」
「え……」
父の返答は意外だった。爛楽は小さく口を開いたままになった。
「俺だけならまだしも、家族まで危険に晒されたからな。本当に落ち込んだし、憎しみの感情だって生まれた。
その時だけじゃない。何度も、俺の行いが報われない事に、酷い仕打ちを受ける事に腹を立てた――けどな、別に俺は自分が報われたくて、誰かを助けようって思ったわけじゃないんだ。ただ、苦難にある人を助けたいと思った。それ自体が俺のしたい事の終着点だったんだよ。
だから医者になった。そうすれば沢山の人を助けられると思った。それが、俺が選んだ生き方だった」
話を続ける父。ずっと父の事が分からなかった。けれど、今、試験問題の答えを見ているかのように、理解は効率を急に高めた。今まで、別に答えを見てはいけないなど誰にも言われていないのに、必死になって問題用紙と睨めっこをしていたような気がした。
「他の生き方がまるきり頭に無かったわけじゃない。もっと自分自身が得をするような生き方も考えた。けれど、この生き方を選択したんだ。
そして、この生き方を、他のどんな生き方よりも幸福だと思っている。
爛楽くらいの歳なら分かると思うが、医者というのはなりたいからという気持ちだけでなれるものじゃないんだよ。色んな事情で、医者になるという夢を捨てた人が世の中には沢山居るんだ。
だから、俺が医者で居られる事は、誰かを助ける力を持ってる事は、本当に恵まれた事なんだよ。
さっきも言ったが、辛い思いをする事、理不尽に思う事は何度だってある。その度に、転職しようかとか、患者との向き合い方を変えようかとか考える。けれど、最終的に俺はこの道を歩き続けたいって思うんだ。俺が今まで出会って来た人の顔が浮かぶんだ。初めは凄く辛そうな顔をしていて、それが別れる時には素敵な笑顔になってる。ありがとうの言葉がまだ鼓膜に残ってて、また聞こえて来る。すると、トータルで見れば俺の人生は殆ど最高じゃないかって気付くんだよ。
だから、俺はこの生き方を後悔していない」
部屋の扉の枠の一歩内側から見る光景には、見慣れたリビングがあり、父の表情があった。たったそれだけなのに、水平線を眺めている時よりも広大に感じられた。
「でも、爛楽がどういう生き方をするかは爛楽の自由だ。
俺は人助けを素晴らしいものだと思っているが、それを爛楽に押し付ける気はさらさら無い。
もし爛楽が、他の誰かの為じゃなくて、自分自身の為に生きたいと思っているなら、それで良い。
もしくは、また別のものの為に生きたって良いんだ。いずれにしても、俺はそれを応援する。お前が大切だと思う事の為に生きてくれ。それが、俺の願いだ」
「大切だと思うものの、為に……」
爛楽は小さく父の言葉を繰り返した。
ふと脳裏に浮かんだのは一人の少女。ぼろぼろの状態でまだ前に進もうとする姿が、胸を締め付ける。
何故、彼女の事を大切に思うのか。自分にとって彼女は何なのか。分からない。
分からなくても、構わない。
「お父さん、ありがとう。私、お父さんの事、前よりちゃんと理解出来た。それが嬉しい」
自分の決意を告げる事が、父に対しての感謝の示し方、期待への応え方の最善に思えた。
だから、胸を張って告げる。
「私、行かなくちゃいけない。今、すぐに」
それを聞いた父は小さく笑った。
「気を付けてな」
その言葉は爛楽の背中を押してくれた。
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