33枚目
人助けがしたかった。
困っている人や、何かを頑張っている人。そこに他の誰かが手を差し伸べて、物事を良い方向へと持って行く。その時に生まれるのは物事の成果だけではない。人の心から、陽光のような温かさが生まれるのだ。それは、替えの効かない尊さを有している。
結は幼い頃にその事に気が付いた。そして、どうしようもなく憧れた。自分も多くの人を助けたいと思った。
人助けは素晴らしいものであるというシンプルな論理が幼い結の中に構築された。それを疑う余地などなかった。その論理は信念であり、それと共に結は育った。
当初、人助けをしたいという結の思いは周囲の人間に歓迎された。両親は結が優しい子に育っていると満足した。
「お母さん、お料理手伝うよ!」
結は自らの信念を積極的に実践した。まずは身近な人から助けてあげたいと思い、家の手伝いを積極的に買って出た。小学校に入りたてのある時だった。母は料理をしており、盛り付ける為の皿が必要だと思った。
「お皿、運ぶね――あっ」
しかし、結は躓いて運んでいた皿を落としてしまった。皿の割れる尖った音が響き、白い破片が散乱した。
「ごめん、なさい……お皿割っちゃって……」
結は折檻を恐れ、身体が強張った。涙が出そうだった。しかし言い訳をするつもりはなかった。自分が悪い事は理解していた。
「大丈夫。結は頑張って手伝おうとしてくれたんだもんね。失敗なんて誰にでもあるから気にしないの。危ないから割れたお皿には触らないようにね」
母は笑顔を見せて言った。結の胸の中を安堵が満たした。
結は優しい両親の元で育っていった。だが、成長するにつれ、段々と分かって来た事があった。
自分には何の取り柄も無いという事だ。
無能。役立たず。そういった言葉は自分の事を端的に良く表しているように思えた。
他者より秀でているものは何も見付からなかった。ありとあらゆる機会で結は自分が劣っているという事実を突き付けられた。
「こんな酷い点数取って! どうしてちゃんと勉強しないの!」
ある日、返却されたテストの用紙を見て、母は結を叱り付けた。
「ごめんなさい……でも、わたしは勉強しなかったわけじゃなくて、一生懸命勉強したんだけど……」
「言い訳しないの! 結は昔は素直な子だったのに、どうしてそうなっちゃったの!?」
「ごめんなさい、これからはちゃんと勉強するから、本当だから――」
分かり易いのは学力だった。自分より下の点数を取っている子はクラスにほんの数人しか見付ける事が出来なかった。母に釈明したように、努力を怠ったつもりはない。しかし、結果は散々だった。努力が無意味なわけではない。ただ、他の子よりも先天的な能力が低く、更には努力によって能力を向上させる効率が悪いのだ。例えば、普通の子がテストで八〇点を取る為に一〇の努力をしなければならないとしたら、結は五〇の努力しなければ八〇点を取る事が出来ない。時間は有限であり、他の人の五倍努力をする事は難しかった。
母に怠けていると怒られていたうちが華だった。
やがて母は結がテストでどんな点数を取っても何も言わなくなった。父も同様だった。ずっと近くで自分の事を支えてくれていた家族が、いつの間にか遠くに行ってしまった。
結は自分が他人より劣っているという現実を受け入れた。それを否定しても何も始まらないと思ったからだ。自分が劣っているのならば、尚の事他者の助けとなる事が重要だ。自分が何かを成せなくても、他の人が成してくれる。人助けは間接的に何かを成し遂げる事になる。
しかし、誰かの役に立つにも、何らかの素養が必要とされた。結はその最低限すら持ち合わせていなかった。その事に気付くには少々時間を要してしまった。
「ああ……もういいよ。後は私が一人でやるから」
「うーん、春瀬さんじゃなくて他の人に頼むべきだったかな」
「お前のせいでかえって悪化したじゃないか! どうしてくれるんだ」
「本当に使えないね。春瀬が今まで生きて来れた事を不思議に思うよ」
結は失敗を繰り返した。時には心無い言葉を吐かれる事もあった。しかし、その事も自分が失敗し返って迷惑になってしまったのだから仕方が無いと受け止めた。受け止めて、それを次に進む為の糧にすれば良い。
マイナス思考になってはいけない。様々な所で言われている言葉だ。結もその通りだと思った。マイナスな思考はマイナスな結果を招き寄せてしまう。人助けを上手くやるためにはプラスの思考でいる必要がある。故に、結は笑顔を忘れずにいる事を心掛けた。
「お母さん、何か手伝える事はある?」
「何もしないで」
母の反応が予想よりもずっと冷たいものだった為、結は固まり付いてしまった。
「何もしないでいてくれるのが、一番助かるの」
「うん……分かった」
僅かな間だが、結は笑顔を忘れてしまっていた事に気が付いた。
「おっと、笑顔、笑顔。大丈夫、うん。ちゃんと前を向いて生きていれば、次は上手く出来る」
鏡を見れば、そこにはしっかり笑顔が映っていた。その事に結は安心した。
何もかも上手く行かない日々が続いた。それは永遠のように感じられたが、笑顔を忘れずに、たまに忘れてしまっても思い出して、一歩一歩前へ進んで行った。
そうやって生きていたら、転機は突然に訪れた。気が付けば中学生活もあと半年で終わるという時だった。
「春瀬結さん。あなたには、〈メルメディック〉の才能があります」
才能、などという言葉は自分とは完全に無縁の言葉だったので、結はひどく驚いた。今までの人生の中で一番衝撃を受けたと言っても過言ではない。何から何まで現実離れした話を聞かされた後、結は〈メルメディック〉となる事を承諾した。
もし神様が本当に存在するのならば、これは神様による采配だと思った。〈メルメディック〉に〈覚醒〉するには類稀なる才能が必要とされる。その才能を有していたからこそ、バランスを取る為にその他の事柄については悉く才能が無かったのだ。結はそう解釈した。
〈メルメディック〉としての初仕事は早く訪れた。報せを受け、〈キャンサー〉が出現したという場所に急行した。
強大な敵、〈キャンサー〉。初めてそれを目にした時は勝てるわけがないと思ってしまった。あんな大きな相手に対し、こんなちっぽけな自分が――何をしても駄目な自分が太刀打ち出来る筈が無いと思ってしまった。
出撃には先輩の〈メルメディック〉二人が付いて来てくれた。今回は後ろで見ているだけでも良いと言われていた。その言葉に従おうと一瞬だけ思ってしまった。だが、すぐにその考えを振り払った。
ここで勇気を振り絞れなけば、自分はこの先も今までと同じように何も出来ない人間のままだ。今、変わらなければならないと思った。だから震える手で武器を握った。
「わたしは、誰かを助けられる人間になるんだあああああああああああああっ!」
一心不乱に戦った。自分の中にこんな激しさがあったのだと初めて知った。気が付いた時には巨大な鋏が敵を貫いていた。そして、この世界を脅かす存在は消滅していった。
「素晴らしい戦いだったよ、春瀬さん」
「まあ、及第点ってとこどすな」
誰かから賞賛を受けた事など、今までにあっただろうか。結は喜びによる高揚を抑えられなかった。
「わたしが倒したんだ……わたしが、沢山の人を助けた……!」
人助けをする事。やはりそれが自分の唯一の望みだったのだと、その時に再確認する事が出来た。
それからも結は戦いを続けた。死や痛みに対する恐怖は勿論依然としてあった。しかし、結はそれ以上に人助けが出来なくなってしまう事を恐れた。
戦いに明け暮れる日々を繰り返し、結は高校生になった。結は戦いという取り柄を得たからといって、他の事に対する努力を怠らなかった。十分な結果が出ずとも勉学には真面目に取り組んでいた。人と関わる事も怠らない。笑顔を忘れずにいると、新しい環境で複数人の友達が出来た。
友達のグループで一緒に昼食を食べたり、買い物に行ったりした。交友がこれ程充実しているのは初めての事だった。
全てが上手く行っているわけではないが、色々な事が順調だった。結は今までの辛かった日々は今この時の為にあったのだと思う事が出来た。
だが、不意に幸福は崩れた。たまたま、所属している友達のグループの会話を聞いてしまった。皆は結が近くに居る事には気付かずに話をしていた。
「春瀬さんってさあ、やばいよね」
「確かに。たまに鈍臭いのが度を超してる時あるよね」
「男からすれば抜けてる子の方が可愛げがあるって言うじゃん。男ウケ狙ってんじゃないの?」
「そうだったらどんなに良いか! あいつは本物だよ。付き合ってらんないって」
自分が友達だと思っていた女子たちは、今まで自分に聞かせる事の無かった大きな笑い声を上げていた。
ここに自分は要らないのだと思った。自分が居ない方が彼女たちは楽しいのだ。そう気付いてからは、自分から積極的に彼女たちに関わる事をやめた。
そうすると、あっさり他人同士になってしまった。
それに追い打ちをかけるように、小テストの結果があまりに悪かった為に教師に呼び出され、放課後に簡易的な補修を受ける羽目になった。
別に落ち込む必要は無い。一時的に運が良かっただけだ。それに、〈メルメディック〉としての自分を失ったわけではない。それならば、何も問題は無い。自分はこれからも人助けを続けられる。
自分は幸せだ。
友達が居なくなっても、〈メルメディック〉の仲間が居る。仮に仲間が居なくなっても、それでもまだ十分に幸せだ。
そう思いながら、一歩一歩日々を進んで行った。
そして、その邂逅は突然に訪れた。
「すいません、ちょっと、あなた」
綺麗な髪の少女が振り向いた先に立っていた。
□■
「わたしはっ、〈メルメディック〉として戦える事が嬉しかった……だって、わたしには何も無かったから。
何をやっても上手く行かない、誰かの役に立つ事なんて出来ない、ダメなわたしが、たった一つ持ってる才能だから。
わたしが誰かを助けるには、これしかないんだよ……わたしが〈メルメディック〉である事は、何より大切な事だった――」
結は尚も笑顔を作り続けた。しかし、それは大きく綻んでいて、今にも崩れてしまいそうだった。
「それなのに、こんなの……こんなのっ! わたしが、わたしの力で皆を助けていたと思っていた、その裏で、誰かの命がっ……、知らなかった! 知らなかったけど、でもわたしは誰かの命を使って、誰かを助けてた! それは、事実なんだよ……」
涙が溢れる。いくら袖で拭ってもきりがなかった。彼女の笑顔はもう限界を迎えていた。
「ねえ爛楽ちゃん、こんなの、人助けだって言えるのかな……? わたしのやってきた事って、正しかったのかな……?」
深淵を持つ瞳が爛楽を見た。爛楽は何と答えれば良いか分からなかった。
「爛楽ちゃんの言ってた事、理解出来ちゃった。人助けは報われないって、誰かの為に自分を犠牲になんてする人は本当にどうしようもないって……本当にその通りだね。それでも、わたしは……ぁああ、ああああああっ」
小さな、今にも壊れてしまいそうな身体で結は慟哭した。
違う。そうじゃない。そう口にしたかった。しかし、言えなかった。もしそれが結の傷を取り払ってくれるなら喜んでその言葉を結に贈っただろう。しかし、そんなものは無力であると分かり切っていた。だから、爛楽は言えなかった。何も出来なかった。
「う、ううっ……」
結の姿が滲んでゆく。爛楽はもう耐えられなかった。
「うああああああああっ、あああ、ああああああああ!」
頬が濡れてゆくのが分かった。爛楽は泣いた。それを堪えようという気も起きず、感情のままに涙を流した。
目の前で泣く結への共感。彼女をどうにも出来ない自身への無力感。直面した現実に対しての挫折。多くの要素が混ざり合って爛楽を苛んだ。
結は一瞬だけ、泣き出した爛楽に対して驚いたような表情を見せたが、その後は一層激しい泣き声を上げた。
爛楽は結を抱き締めた。どうしてそんな事をしたのか分からない。そうせずには居られなかった。結は自分より少しだけ小柄だ。それなのに、まるでハムスターのような小さく脆い動物を手の中に収めているような感覚がした。
(あたたかい)
それがどうしようもなく愛おしかった。だから強く抱きしめたい。けれど、そうすれば彼女が壊れてしまうかもしれない。そんな奇妙なジレンマに駆られた。
二人は声と涙が枯れるまでその場で泣き続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます