第六章

36枚目

 爛楽らんらの身体は怜によって持ち上げられ、靴の底が地面を離れた。


 意識が遠のいてゆく感覚は深い海の中に沈んでゆくようだった。視界が霞んでゆき、周囲の音がくぐもって聞こえる。代わりに自分の中の音が良く聞こえる。


 力を振り絞った。首を絞めているれいの手を振り解くか、或いは地面に足を着けようと思った。しかし怜の手は石膏像のようにぴくりとも動かない。更に足は泳ぐアヒルのようにばたばたと動くだけだった。


(背が……高い、のよ!)


 怒りは言葉にならなかった。その時、ポケットの中でスマホが音を鳴らすのが分かった。電話の着信だ。人が死にそうになっている時に誰だと思った。一縷の望みを託し、怜の腕を掴んでいた右手でスマホをポケットから取り出す。そして、画面を見ずに応答ボタンを押した。


 だが、スマホは手から滑り落ち、大きな音を立てて地面に落ちた。今ので画面割れなかったかとどうでも良い事が気になってしまった。


『――四島さん。緊急で、お伝えしたい事が……四島さん? 聞こえていますか?』


 通話は運良くスピーカーモードになっていた為、声を聞き取る事が出来た。電話を掛けて来たのは理桜りおうだった。


「ぁ……ぉ」


 何よ、と言おうとしてやはり上手く声が出ない。電話からは理桜の当惑と焦燥が伝わる。


古鏃ふるやじりさんには連絡したんですけど繋がらなくて、大変なんです、四島さんの家のすぐ傍に〈キャンサー〉が出現したんです! しかもこれはステージ2――いや、ステージ3の反応です! こんな事有り得――』


 何かが砕け散る尖った音が聞こえ、理桜の声が遮られる。そして、それきり彼女の声は聞こえなくなった。


(スマホ、踏み潰しやがったな……!?)


 高校の入学に合わせて買い替えて貰った最新機種だった。怒りが散らばっていた爛楽の意識を束ね、その先端を尖らせる。


 一瞬の集中。爛楽は小さく呟いた。


「――〈変身〉」


 白い包帯が爛楽の身体を包み込む。身体を、戦いに耐え得る強靭なものへと作り変える。


 モノトーンを基調とした衣装。それを纏った爛楽はもう非力な少女ではない。


〈メルメディック〉だ。


 爛楽は怜の手から逃れ、大きく後ろに跳躍した。アスファルトを踏み付け、怜を睨む。彼女の足元にはやはりスマホの残骸らしき物が散乱していた。


「絶対弁償させるからな」


 強い決意を爛楽は口にした。それから爛楽は段々と思考力を取り戻し、怜の行動の理由を推測する。彼女が正気を失った切っ掛けとなったのは、やはり〈ライフシリンジ〉の真実を知ってしまった事だろうか。


「だいぶ錯乱してるみたいだけれど、一発ぶん殴ったら正気に戻るかしら?」


「錯乱? きみにとっては辛いかもしれないけど、ぼくは正気だ。もう隠しておけなくなっただけさ」


「あんたの本性を?」


 怜は否定も肯定もしなかった。小さく笑って、着ていたワイシャツのボタンを上から数個外した。彼女の白い肌が露わになる――。


 そこに、漆黒の異物があった。


「それはっ」


 爛楽は目を見張った。怜の胸の上の方に、見慣れた黒曜石のような塊がへばり付いていた。


「わざわざ言うまでも無いだろう。これは、〈キャンサー〉だ」


 あっけからんと怜はそれを告げた。それとは対照的に動揺を抑えられない爛楽。先程とは違う、嫌な汗が噴き出る。


「意味が分からない……何で、そんなものがあんたに付いてんのよ!」


「〈キャンサー〉は生物を宿主とする。それは、人間も例外じゃない。そして、〈メルメディック〉も例外ではなかったという事だ。この症例は恐らく、ぼくが初めてだろうけどね」


「さっき、あの女から電話が掛かって来たのは、あんたが〈キャンサー〉になったからだったのね」


「少し違うね。ぼくが〈キャンサー〉に寄生されたのはついさっきの事じゃないんだ。

 きみも知っていると思うけど、理桜さんはね、〈キャンサー〉の存在自体を感知出来るわけじゃない。発せられる力を感知してるんだよ。

 だからステージ0の〈キャンサー〉を発見する事は出来ない。

〈メルメディック〉というのは〈キャンサー〉の対になる存在だ。ぼくは常に〈メルメディック〉の力を使う事で、〈キャンサー〉の力を包み隠していたんだよ。それが成功するかどうかは賭けだったけれど、理桜さんはずっと気付かなかった。彼女に面と向かっている時は、笑いを堪えるのが大変だったね」


 怜は皮肉めいた笑みを浮かべた。


「それじゃあ、いつからなの」

「きみが〈メルメディック〉になる数日前からかな」


 言葉を失った。それでは、初めて顔を合わせたあの時には既に怜は〈キャンサー〉を身体に宿していたというのか。


 爛楽の反応が可笑しかったのか、怜は小さく吹き出した。


「〈メルメディック〉の力を浴び続けたせいでこの子の成長の速度はかなり遅くなってしまった。それでも、ここまで育ってくれたよ。ステージ3。こんな街、簡単に消し飛ばせる」


 ステージ3。


 つい数日前、圧倒的な力を振るい、仲間を一人奪い去った〈キャンサー〉でさえステージ2だ。ならば、ステージ3というのはどれ程の強さなのだろうか。


 自分は、その〈キャンサー〉を倒せるのだろうか。思考がそこに及び、身体が固まった。


「さて。きみとお喋りしているのは楽しいんだけど、そろそろこの子の力を押え付けてるのが大変でね。だから――始めようか」


 そう告げる怜。


 爛楽は彼女が何をしようとしているのか理解した。脳裏に浮かんだのは、〈キャンサー〉がステージ2へと変貌を遂げた時の事。大きな衝撃波が自分を吹き飛ばした。


「――待って! すぐ傍には街が! 沢山の人が! その力を解き放ったらっ」


 何としても止めなくては。爛楽は焦燥に背を押され、前へと踏み出た。


 だが、ただ抑圧を中止するだけの行為に時間は必要無い。


 風景が爆ぜた。


 爛楽の視界が塗り潰される。脆弱な眼球を守る為に瞼を閉じざるを得なかった。しかし、全身が凄まじいエネルギーの奔流を感じ取る。巨大台風がすぐそこに出現したかのようだった。必死に地面を踏み締め、それに抗った。何とか吹き飛ばされてしまう事は阻止した。


 やがて、奔流が弱くなるのを身体が感じ取った。爛楽は、慎重に目を開いた。


 その姿は喪服を思わせた。


 光が一切届かない深淵の闇で織ったような、漆黒の衣服。裾の部分が花弁のように大きく広がっているので、ドレスにも見える。


「はは」


 新たな姿を手に入れた怜は愉悦に満ちた笑みを浮かべた。彼女は、まるで隕石でも落ちたように荒れた地面の上に立っていた。道路の舗装は全て剥ぎ取られ、樹木は砕かれて吹き飛ばされていた。


 その笑みの意味は爛楽にも理解出来た。ただ解き放っただけで周囲の物を破壊し尽くす。その圧倒的な力に陶酔しているのだ。


 先程、多くの明かりがあった街の方を見遣る。まるで別の場所に来てしまったかのように思えた。暗闇の中に瓦礫が重なっているだけだった。


「そんな、嘘……人が――」


 爛楽は眼前の惨状を見、霞むような声を漏らした。血液の温度が下がったように感じられた。


 だが、気付く。夜空の色が少し変だ。ドーム状の空間の境界が存在している。


「運が良かったね。理桜さんはぎりぎりの所で皆を避難させたみたいだ」


 つまらなそうに怜は言った。範囲内に居た人たちは皆〈類元空間〉に転送された。瓦礫の下敷きになった人は一人も居ないという事だ。


 胸を撫で下ろすが身体はまだ小さく震えている。安堵で頭がくらくらしたのは初めての事だった。


「まあでも、所詮半径五、六キロだ。今のぼくの攻撃が外まで届くかどうか、試してみようか?」


 爛楽を挑発するように怜は言った。


 その挑発に乗らないわけにはいかなかった。


「させるか! ――【ハニーメディスン】!」


 二丁の拳銃を構える。素早く狙いを定め、撃った。弾丸が怜へと向かう。しかし、怜はその軌道が見えているかのように軽いステップでそれを回避する。


 続けて引き金を引く。しかし、怜の動きは軽やかで無駄が無い。何も無い所を打っているような気にさせられた。


「芸が無いね。体力を温存したまま、かつリスクを犯さずにこちらの手札を晒させたいという考えが透けて見えるよ」


 嘲笑うように、怜は言う。


「まあでも、ぼくは優しい先輩だ。期待には応えてあげよう――」


 その力の名を告げる。


「【屍月炎蝕しげつえんしょく】」


 怜がその言葉と共に作り出したのは暗い色合いの大振りな刀。


 まだ十分に間合いがある。その筈だというのに、怜はそれを振るった。斬撃を繰り出すというより、踊るかのよう。不可解な行動だったが、警戒を緩めず、怜を注視した。


 次の瞬間、爛楽の左腕が鮮血を吹き上げた。

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