17枚目
「私の尊敬する人はお父さんです」
小学生の時、教壇に立ってそう発表をした事があった。尊敬する人物は誰かというテーマで皆が発表を行った。
「私のお父さんは、お医者さんです。
お医者さんは、病気になった人がいれば、それを治してあげるのがお仕事です。病気になる事はとても辛い事です。
けれど、それが無くなれば皆幸せになれます。だから皆、お父さんにありがとうって言います。多くの人にありがとうと言われるのは、とても素敵な事だと思います」
発表の後、頭を下げると皆が拍手を送った。そして笑顔の先生が当たり障りの無い評価コメントをしてくれたのだが、具体的な内容は思い出せない。
後々になって分かったのだが、父は相当優秀で、若手ながらに難しい事を任されていた。外科医として手術に参加する事もあった。
「どうしてお父さんはお医者さんになったの?」
父にそう尋ねた事があった。というより、何度かその同じ質問をしていたと思う。そうすると、父はいつも頼もしい笑顔で答えた。
「父さんは、多くの人を助けたかったんだ。ただ、それだけだよ」
その言葉が嘘偽りでない事を爛楽は感じ取っていた。だからこそ、父は爛楽にとって自慢の父親だった。
あの事件が起こるまでは。
ある日、家で休んでいる父の元気が無い事に気付いた。何か良くない事があったのだろうかと爛楽は気になった。だが、悩み事が無く、常に元気でいる人間など存在しないだろう。父のような人間にも当然悩みはある。そっとしておくのが最善だろうと思った。
その数日後の夜中の事だ。
「爛楽! 起きろ! 起きるんだ!」
身体を大きく揺さぶられ、爛楽は目を覚ました。目の前には父の焦燥に満ちた顔があった。寝ている所を起こされ、当然強い眠気があったが、そんなもの一瞬のうちに吹き飛んでしまった。
「どうしたの、お父さん」
すぐに母が部屋に入って来た。
「分からないのか! 煙の匂いだ! 火事だよ! 早く逃げるんだ!」
爛楽と母の顔が青褪めた。生まれて初めて経験する生命の危機。呼吸が詰まり、身体の力が抜けてしまいそうだった。
「どこから火が出てるの?」
「分からない。早く家を出よう。父さんが安全を確かめながら先に行く。母さんは少し離れて爛楽を連れて来てくれ。姿勢はなるべく低くして、煙を吸い込まないように」
「分かった」
父は部屋を出て、階段へと向かった。当時住んでいた家は一戸建て住宅で、皆の寝室は二階にあった。
恐怖を感じながらも慎重に階段を下りる。まだ火は視認出来ないし、熱さも感じない。という事は、それ程勢いが強まっているわけではないだろう。階段を下り切ればすぐ玄関がある。
大丈夫だ、と思った時だった。
「許さないっ! 許さないわ!」
女性の金切り声が響いた。鼓膜に突き刺さるような、強い感情に満ちた声だった。
それが一体何なのか、爛楽は理解が出来なかった。ふと前を見れば、先に階段を下り切った父に見知らぬ女性が襲い掛かっているのが見えた。
「母さん! 爛楽っ!」
父は切羽詰まった表情でこちらを見た。その女性の手にはナイフが握られており、正気を失った様子でそれを振り回していた。
「お父さん!」
爛楽は叫んだ。ただそれだけでどうする事も出来ない。
「お前のせいで、真由子が死んだ! お前が殺したのよこのヤブ医者が!」
女性の形相を見れば、言葉が通じる状態ではない事は明らかだった。強い憎しみで、ナイフを突き刺そうと躍起になっている。
父は見知らぬ女性に対し、必死に応戦していた。腕を前に出し、ナイフが自分に当たらないようにしている。
そうしている間にも火は燃え広がってゆく。命を蝕む煙が量を増してゆく。どうすべきだろうか、と考える。危険な女性から遠ざかる為二階に戻れば炎や煙に蝕まれ死亡する危険がある。だが、このまま階段を下れば凶刃によって柔肌を裂かれるかもしれない。
「やめろっ、やめろぉ!」
父が大きく叫んだ。そして、体格差と膂力に物を言わせ、女性の身体を廊下に押し倒した。両方の手を床へと強く押さえ付ける。冷たい刃が暴れるが、父の肌には届かない。
「離せっ、離せこの人殺し!」
「爛楽! 母さん! 今のうちだ! 逃げろ! 早く!」
父が切望するように叫んだ。爛楽と母は心臓が破裂するような恐怖を覚えながらも、その横を通り抜け、玄関扉を開いて外へと出た。
僅かな街灯と星明りだけが光源の夜闇が爛楽を迎えた。安堵は出来なかった。まだ気にしなくてはならない事は沢山あった。
「お父さんは」
爛楽は振り返り、先程自分が出て来た玄関を見た。開け放たれた扉の向こうに動く人影が見える。
暫くして、父が玄関から出て来た。一人だけではない。女性が引き摺られるようにして、一緒に外へと出て来た。女性の手からナイフが落ちたのを見て、父はそれをすかさず拾い上げて、玄関の中へと勢い良く放り投げた。
「死ね! 死ねってば!」
女性は尚も暴れる事をやめなかった。父はそれを取り押さえる事に必死だった。
爛楽の隣で母は警察と消防に電話を掛けていた。その間に、初めは外から見えなかった炎が夜闇の中に浮かび上がる。赤い輝きが、家の壁を這い、大きさを増してゆく。
「やめるんだ! あなたが悲しむ気持ちも、怒る気持ちも分かる。でも、俺の家族を巻き込むなんて――」
「うるさいっ!」
父の説得に耳を傾けない女性。ふとした拍子に彼女は父の手から逃れ、その機を逃さずに立ち上がった。父は手を伸ばしたが、それは届かない。
「呪われろ! 人殺しの一家が! 呪われろ呪われろ!」
女性は背を向けて、開け放たれた玄関へと飛び込んだ。尚も勢いを増す灼熱の中に、自ら向かったのだ。
ひょっとして父が先程投げたナイフを取ってすぐ出て来るのではないかと思ったが、数十秒待っても女性が家の中から出て来る事は無かった。
炎は鮮烈な光の中に家を沈めてゆく。爛楽の瞳はそれを反射し、暗く輝いていた。
後で知った事であるが、一家の殺害を企てた彼女の娘――真由子という人物は大きな病気を患っており、その手術を行ったチームには父が居たのだという。そして、手術は失敗に終わりその娘は亡くなった。
彼女が放火を行い、ナイフを持ち自宅に押し入った動機はその報復であると見るのが自然だった。
だが、元々手術は成功の望みが薄いものであり、一縷の望みをかけて執り行われたものだった。手術の過程で何らかの過失があったわけではない。
更に言えば、父は別に手術チームのリーダーポジションにあったわけではないし、生死を左右するような作業を担当したわけでもない。その為、何故父が報復の対象になったのかという事には明確な回答を出す事が出来なかった。たまたま父の家の住所を最初に見つけたから、といった理由ではないかと推測されたが、最早それを裏付けるものは火の中で灰となった。
消防車が到着するまでの間、爛楽は吸い込まれるように燃える自宅を見詰め続けていた。
血を零したように赤い。炎は家を貪欲に飲み込んでゆく。その熱は、輝きは、人の憎悪だ。父が呼び寄せてしまった邪悪なる怪物。それは嘲笑を響かせながら肥大する。
これが、帰結だというのか。
誰かを助けたいと純粋に願った。願いを叶えるために行動をした。その行路の終点が、この地獄のような光景なのか。
納得が出来ない。それでも、爛楽は理解する事を強いられた。網膜を焼きながら、それは爛楽を諭していた。
これが、この世界の本質なのだ。
人助けをしようとする人の思いは報われない。それが、この世界の条理。
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