喧嘩

第85話

「ねえ、何してるのよ」



「写経だ。話しかけてはならぬ」




彼は短く言って、筆を紙に走らせる。



話しかけるななんて、そんな大層なことをしているようには見えないけれど、これも修行の一環なのかと思ったらしょうがない。





それにしてもつまらない。





取り合えず家のことは全てやってしまったし、彼も構ってくれない。



黙々と写経を続ける彼に背を向けて、畳の上に横になった。





静寂が辺りを包む。


彼が筆を走らせる音しかしない。





今頃みんな何をしているかな。



みんな、私のこと探しているかな。




家のこと、しっかりやってくれているかな。




私がいなくなって、月子が全部家のことやってくれているのかな。



夕、おもらしなおった?


頼人、甘えん坊は卒業した?



お父さんの忘れ物は誰が届けているんだろう?


太一兄ちゃんは少しくらい、家のことを気にかけてくれているのだろうか?





そして、大和。





貴方、今どこにいるの?



向こうの時代?




それとも、私と同じようにタイムスリップしたのかな?




全部疑問系だ。



そう思ったら泣き出しそうになった。





寂しさが、体中に広がっていく。





どんなに問いかけても、何一つその答えが返ってくることがないと気づいたら、寂しくて堪らなくなった。




やっぱり、帰りたい。



できることなら、帰りたい。





帰るすべなんて持っていないけれど、それでも。





それでも、『桜井千鶴子』でいられる場所に帰りたい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る