第84話

「じゃあな、紫花。準備頑張れよ」


「うん、瑛茗祭楽しみにしててね」




ゆったりとした名残惜しい朝の時間をふたりで過ごして、空港に向かって早めにコウくんが出発する。



パジャマ姿のままで玄関まで見送りに行くと、上質な革靴に履き替えたコウくんは一段下にいて目線が同じくらいにあった。




「行ってらっしゃいのキスでも、してみる?」


「…っ」




突然に、この世のものとは思えないお顔と甘い声でねだるように見つめられ、身体の中心がどくん、と大きく波打つ。




何度も、何度も。出張に行くコウくんを見送ったはずなのに。



私が《家族》になれるか、なれないか。《桐谷》の名字を貰えるか、貰えないのか。



最後の審判が下されるまで残り2週間が切ったからか、不安で不安で堪らない。




「冗談」




――――…刹那、コウくんの香りと体温が私を包む。




初めて出会ったときのように、ふわりと小さく抱き上げられた後にぎゅうと抱き締められた。




「大丈夫だから、紫花。大丈夫」


「っ、何が?」


「何もかも」




この人が"あの日"からずっと私の不安を作っている張本人なのに、この人だけが私に安心感を与えてくれるなんて。



酷い矛盾、それでも何故か心地良い。




「行ってらっしゃい、気をつけてね」




コウくんの肩に顔を埋めたままに出した声は、くぐもっていたから。きっと、私の声が少しだけ涙色に染まったことに気付かなかっただろう。



――――気付かないで欲しかった。

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