カラオケ 一
姫宮と半ば強引に約束させられたお出掛けの日の当日。
一体何処に行くのだろう、そして何をするのだろう。
そう言った疑問が頭からこびりついて離れなかったが、僕は今、それとは別の事で頭を悩ませていた。
それは、今日着ていく服装についてだ。
今日は土曜日で学校が休みの日なので、当然、制服を着ていく訳にはいかない。
異性はおろか同性とすら、ここしばらく出掛けた記憶が無い僕は、一体何を着ていけば良いのか、と思いながら制服の有り難さを全力で噛み締めていた。
とはいえ、姫宮と集合時間も迫ってきているので、そろそろ服装を決めないといけない。
そう思って悩んでいると、ふと今回出かけるのは別にデートとかそういうものではないので、そこまで服装に気を使う必要はないのではないか。
そもそもほぼ出掛ける事のない僕のクローゼットにはそこまで服が掛かっている訳ではない。
そう開き直った僕は近くにあった服を手に取ると、それに着替えてから部屋を出た。
「今から出掛けてくる」
僕は玄関に向かう途中で、台所で作業をしていた母に声を掛けた。
母は顔を上げると呆れた様な表情を浮かべた。
「渚、その格好で出掛けるの?」
今着ているこの服装で出掛ける気でいた僕は、「うん、そうだよ」と、当然の事の様に頷いた。
「そのいかにも部屋着ですって格好だと、隣を歩く女の子が恥ずかしい思いをするだろうから、せめてもう少し落ち着いた色の服にしたら? 確か、部屋にあったはずよ?」
母には一言も誰と出掛けるかを言ってはいない。
それなのに、何故女子と出掛ける事が分かったのだろう。
「…‥どうして、女子と出掛けるって思ったの?」
言い当てられて、恥ずかしいという気持ちを隠しながら尋ねると、母はそっと息を吐くと口を開いた。
「帰って来てから、あんなにソワソワしていたら、普通気が付くわよ。時間が余り無いんでしょ? いいから着替えてきなさい」
普段は僕の服装にまったくと言っても良い程、何も言わない母がくれた助言に、従っておいた方が良いだろう、と思った僕は、部屋に戻ろうと振り返った。
「そうだ、後、その寝癖も直してから出掛けなさいよ」
その言葉を聞いて、僕は服を着替えたら洗面台にも寄らなければ、と思いながら台所を後にしたのだった。
「瀬戸君、お待たせ」
そのまま駅前で待っていると、後ろから名前を呼ばれたので、僕は振り返った。
姫宮の姿を見た途端、僕は思わず目を見開いた。
白いワンピースに黄色いカーディガン、服装の事はまったくと言って良い程分からない僕だが、その春らしく、また、普段の制服姿とは違った、大人っぽさを感じるその服装を僕はジッと見る事しか出来なかった。
「瀬戸君、ジッと見ているけど、もしかして服に何か付いてる?」
何を言わないでジッと見ている僕を見て、不安に思ったのか、姫宮はそう言うと、自分の服を触り始めた。
誤解を与えてしまった。
そう思った僕は慌てて、「いや、何も付いていないよ」と、姫宮に言った。
僕の言葉に姫宮は、「そうしたら、瀬戸君はなんでジッと私の事を見ていたの?」と、不思議そうな表情を浮かべた。
適当な事を言って誤魔化してしまおうか。
そんな考えが一瞬、僕の頭を過ったが、姫宮のその真っ直ぐな瞳を見て、ここは恥ずかしがっている場合ではなく、僕の思った事をそのまま言おうと思い直した。
「……その、姫宮さんの服装が似合っていたから」
言いながら、顔が熱くなり歯切れが悪くなってしまった。
しかし、姫宮はそんな僕の言葉に嬉しそうな顔をすると、「……ありがとう」と、呟いた。
そんな嬉しそうな姫宮を見て、言って良かった、とホッとした気持ちになっていると、姫宮が僕の服装をチラッと見てから口を開いた。
「瀬戸君の服装も似合っていて格好良いよ」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、そんなに格好良くないと思うよ?」
僕はそれを聞いて嬉しく思ったが、朝の母とのやり取りを思い出すと、自分でもそれ程今の格好がお洒落ではないのではないのか、と思い、姫宮の褒め言葉に恐縮してしまった。
姫宮は不満そうな顔になると、「瀬戸君、また自分の事を悪く言ってる」と、悲しそうに呟いた。
僕はしまった、と思い、何か声を掛けなければと口を開こうとした。
しかし、姫宮が不満そうな表情を浮かべていたのは一瞬で、すぐにそれを引っ込めると、「まぁ、でも服装の事を気にしているなら、瀬戸君が服を買う時には声を掛けてね。私、服も好きだし、男子の服を選んでみたいから」と言って、微笑んだ。
一瞬、焦ったが、今日の姫宮からは昨日の様な緊張感は感じられず、普段の明るい姫宮の様に感じられて、僕は胸を撫で下ろした。
「よし、じゃあ、そろそろ行こうか」
「姫宮さん、今日は何処に行くの?」
『瀬戸君とだから、私が楽しいって思えるって事をその時に瀬戸君教えてあげる』と、昨日、姫宮は言っていた。
その場所の事やそこで何をするのか。
昨夜から気になっていた事を僕は姫宮に尋ねた。
「それはね、あそこだよ!」
「あのビルに行くの?」
そう言って姫宮は目の前のビルを指差した。
このビルには様々な店が入っている。
その内のどれかに行くのだろうか。
そう思って尋ねた僕の言葉に、姫宮は、「そうだよ」と、頷いた。
「今日はカラオケに行きます!」
「カ、カラオケ?」
勢い良く言った姫宮を見ながら、まったく思いもしなかった行き先に僕は驚きの声を上げた。
姫宮とは今までカラオケの話はおろか、曲についての話も一度もした事がない。
一体全体どういう事なんだ、と僕は戸惑った。
「そう、カラオケ! 『キミユメ』とかのアニメの曲がすごい良かったから、瀬戸君と歌いたいなって、ずっと思っていたの」
確かに、良い曲ばかりだが、僕は歌があまり得意な方ではない。
姫宮をがっかりさせたくない。
そう思った僕は事前に言っておこうと口を開いた。
「姫宮さん、その、言いにくいけど、僕はあまり歌う事が得意ではないんだ」
その言葉を聞いた姫宮は、そんな事はまるで関係がないとでもいうように、笑顔で首を横に振った。
「瀬戸君、カラオケはね、上手いとか下手とかではないよ。楽しいからカラオケなんだよ!」
まるで、名言の様だ、と僕が思っていると、次の瞬間、僕の手を姫宮が握った。
姫宮の手は温かく、まるで僕の手が包まれている様に感じた。
突然の出来事にその事しか感じる事が出来ない程一杯一杯になっていると、姫宮が僕の手を引っ張った。
「だから、大丈夫、一緒に行こう!」
そうして、楽しそうな様子に姫宮に流さられる形で、僕は姫宮と共に目の前のビルに入っていくのだった。
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