第5話 きっとこれは夢の記憶

 試合は9回裏2アウトランナー2、3塁。


 ここまで試合は壮絶な投手戦を繰り広げ、スコアは0対1。


 あと1アウトで大日ドラゴンズの敗北が決定する厳しい状況ではあるが、たった1本のヒットで勝利することも可能というひりついた展開となっていた。


「まさかこんな面白い展開になるとは思ってなかったわね。青谷君の記憶を取り戻しに来たっていうのにそんなの忘れて楽しんじゃってるわ」

「本末転倒にも程があるだろそれ」


 試合を楽しんでいるという栗花落さんだが、試合開始直前にご飯を買いに行った栗花落さんはなぜか3回表が始まるまで席に戻ってこなかった。

 そんな人間が本当に試合を楽しんでいるのかは疑問が残るが、栗花落さんは明らかに楽しそうにしているしこの展開は試合に興味がない僕でも目が離せない。


 かなり遠くにいるはずの選手から客席まで緊張感が伝わり、応援のボルテージも最高潮。

 ただのスポーツ観戦がこれほどまでに面白いとは思っていなかった。


 というか、明日見さんは野球が好きだったのかもしれないが、栗花落さんも野球が好きなのだろうか。

 野球好きでなければ説明がつかないほど野球に詳しいし、ただ勝つか負けるかを楽しんでいるだけの僕とは楽しみ方のレベルが違う。


 明日見さんの記憶が強すぎるせいで、僕に向かって青谷君への思いをぶちまけてしまったりするくらいなので、明日見さんの記憶の影響で野球に詳しく心の底から楽しめていると考えれば理解はできるが。


「でも青谷君の記憶を思い出すにはもってこいの試合よねこれ。こんな面白い試合展開中々無いし。どう? 何か思い出しそう?」

「いや全く」

「……役立たず。まあそう簡単には行かないわよね」

「おーい最初の方で暴言が聞こえた気がするんだがー? ちゃんと聞こえてるからなー?」

「あー! 追い込まれちゃった……」


 栗花落は相変わらず都合の悪い話になるとすぐに話を変えてくる。

 とはいえ、ドラゴンズのバッターが追い込まれてしまったのは確かにまずい。


 カウントは3ボール2ストライク、あと1球で試合が終わってしまう可能性もあるという状況になってしまった。

 そんな極限の状況に周囲のファンの表情も曇る。


 選手に力を与えるため必死に応援歌を歌う人もいれば、両手を握り合わせ固唾を飲んで見守っている人もいる。


 今日初めて試合を見に来ただけの僕がグラウンドから目を離したくなるような状況なので、長年ファンをやっている人からしてみれば表情も曇るし神に祈りたくもなるだろう。


 僕としても前世の話だとか青谷君の記憶なんてどうでもいい。

 どうせここまで来たのなら、とにかくドラゴンズに勝ってほしい。


「……大丈夫、絶対打つから」

「えっ……?」


 ドラゴンズに勝利してほしいという思いが溢れ出してしまったのか、普段はそんなことをするキャラではないはずなのに、僕はなぜか不安そうにグラウンドを見つめる栗花落の手を握っていた。


「あっ、ごっ、ごめんっ。なんか体が勝手にっ」


 僕は急いで栗花落さんから手を離した。

 これはまさか、僕も前世の記憶--青谷君の記憶に影響されて取ってしまった行動なのか?


「……いいわよ。こうしてた方が勝てる気がするから」


 急いで手を離した僕だったが、そんな僕の手を栗花落さんは握り直してきた。


 僕の手を栗花落さんの小さくて柔らかい手が握っている--そんな状況で試合に集中できるわけはなく、残り1球で試合が終わってしまうかもしれないという状況にも関わらず、僕は栗花落さんのことばかり考えていた。


「そっ、そうか?」

「お願いっ、打って!」


 そう言って栗花落が僕の手をギュッと握った瞬間、応援の声でかき消されてここまで聞こえて来るはずのないバットがボールを捉えた瞬間の乾いた音が聞こえてきた。


 そして、そんなはずはないのに一瞬グラウンドの歓声が全て止んだような感覚に陥る。


 そのおかげで僕はボールを見失うことなく最後まで目で追うことができて、そのボールが綺麗な放物線を描いて外野後方の高い壁を超えてスタンドに入って行く瞬間を目の当たりにした。


 瞬間、消え去っていた歓声はその反動か、先程までの歓声の数倍大きい歓声となりグラウンドを包んだ。


「うぉぉぉぉぉぉすげぇぇぇぇ--」

「きゃぁぁぁぁ‼︎ やばぁぁぁぁい‼︎」

「ちょっ、ぐるじっ、てかおいっ、だぎづぐなっ、ぐぁっ」


 大歓声に乗せられて人生で1番大きな声を出している僕に、栗花落さんは信じられないほどの力で抱きついてきた。


 てか胸が! おっぱいが当たってるって栗花落さん!


 おっぱいが当たっていることを指摘するべきなのかもしれないが、指摘して気まずい空気になるのも嫌なので指摘するのはやめておいた。


 ……別にずっとおっぱいを押し付けていてほしかったわけではない。


「やった、やったぁ‼︎」

「おい跳ねるな、いだい、いだいって‼︎」


 まさかのサヨナラ勝ちにテンションが上がる気持ちはわかるが、痛みを伴うほど抱きつかれたのではたまったものではない。


 ……まあ仕方がないか。


 僕もテレビでオリンピックくらいはスポーツを見るが、劇的な勝利はやはり盛り上がるものだ。

 それが現地でその瞬間を見届けたとなれば、自我を忘れるくらい盛り上がるのも無理はない。


 栗花落さんに無理やりドームに連れてこられて、前世の記憶を思い出すことなく試合は終わってしまったが、栗花落さんが無邪気に喜ぶ表情はあまりにも可愛らしく、もし僕が栗花落さんの彼氏か何かだとするなら間違いなく抱き返したことだろう。


 この表情が見れただけでも、満員電車に乗ってここまでやってきた甲斐があるというもの--。


「痛っ--」


 ……なんだ今の痛みは?


 栗花落さんにとてつもない力で抱きついている痛みはあるが、今のは頭に感じた痛み。

 そして痛みと共に、僕の頭の中に身に覚えのない記憶が流れ込んできた。


 それは同じくナゴヤドームの席からサヨナラの試合を観戦した時の記憶。


 そして僕の横にいるのは栗花落さんではなく、亜麻色の長髪が印象的な美少女。




 ……これはまさか、栗花落さんが言っていた青谷君の記憶か?




 陰キャぼっちで野球に興味のない奴が野球を見にきた記憶なんて持っているはずがないし、僕の両親や妹も野球を好きというわけではないので、誰かに連れられて見にきた小さい時の記憶というわけでもない。


 となると、やはりこの記憶は青谷君の記憶なのだろうか……。


「本当最高っ。まさか現地でこんな試合が見られるなんて思ってなかったわ……ってあれ、只木君? 体調でも悪いの?」

「--いっ、いや、栗花落さんがとんでもない力で僕を羽交締めにするから」

「ごめんごめん。流石に興奮しちゃってたわ。でも仕方がなくない? こんな最高な試合目の当たりにしたら笑を忘れて只木君に抱きつくのも--っ。だっ、抱きつくのも……」


 笑を忘れて僕に抱きついていたことに気付いた栗花落さんは顔を赤面させ、急に静かになった。


 きっと気のせいだよな、これは青谷君の記憶なんかではなくて、僕がいつかみた夢の記憶か何かだよな?


 前世なんて存在するわけがないし、そうであってくれないと、この記憶について説明がつかないので、僕は今頭の中に突然浮かんできた記憶を、夢の記憶だと思い込むことにした。

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