月の光
あじふらい
月の光
誰もいなくなったレンガ造りの建物の中で女はピアノと向かい合っている。
女はまもなくこの地を去らねばならない。
それは感動的な新天地への旅立ちでも、希望に満ち溢れた門出でもない。
彼女の夫が莫大な借金を残して死んだ。
女には何一つとして残らない結婚であった。
男に見初められ、父に言われるがままに、嫁いだ。
一目惚れと言うわりに、彼女の夫たる男は彼女に指一本さえ触れなかった。
代わりに、たくさんの音楽を共に紡いだ。
女が夫への情を抱き始めたとき、突然、彼女の夫はその命を自ら絶ったのだ。
結婚で諦めた、音楽院への留学の道があった。
夫に見初められなければ、幸せな結婚の可能性は残されていた。
夫が借金を追わなければ、未来への希望は残されていた。
夫が死ななければ、情を交わし共に寄り添う未来もあった。
共に紡いだ音楽がなければ、ここを離れることに何の躊躇いもなかった。
女はため息をひとつ吐く。
故郷に帰るより他ない年若い女にできる事は限られている。
明かりを灯すことも暖を取ることもできなくなった女にとってのかつての我が家に、天窓から月の光が差し込み、青白いそれは艶々と黒く輝くピアノを浮かび上がらせていた。
細く長い指が別れを惜しむように鍵盤にそっと触れる。
薄暗いはずの月光は白鍵に反射し、刺すように、誘うようにそれを輝き浮かび上がらせている。
女は深く息を吸い込むと、背中を揺らし、静かに演奏を始めた。
ピアニッシモで始まるその曲は、柔らかく、悲しく、美しく、楽しそうに揺らめいてもどこか切なく、もう女には住む権利のない我が家に反響し、彼女が抱いていた僅かばかりの希望を名残惜しむかのように、頭上から照らしこむ柔らかな光明も相まって切なく鳴り響いていた。
旋律は終局を迎える。
残響が途絶えてもなお、女は暫くピアノから手を離せずにいた。
かつての女の希望の全てがそこにあった。
女は立ち上がると、ピアノの傍らに置いてあったトランクを手に取り、それ以外の全てを冷ややかな我が家に置き去りにして歩き出す。
月は陰り、駅までの遊歩道は、ただ女の目前に暗く横たわっていた。
月の光 あじふらい @ajifu-katsuotataki
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